老人
私はね。少し前まで人間だったんだよ。
部屋の中で老人が呟いた。
「はあ……。ということは、今はもう違うのですか?」
「ああ違うとも。今の私は人ではない何かだ」
管に繋がれた老人が虚無な笑みを浮かべている。この人には今、私の姿は見えてない。目はすでに白く濁り切っているはずなのだ。
私は今、老人が入院している病院へと来ている。話によると、この人は私の遠縁であり、私は小さい頃この人から大層可愛がってもらったのだという。
そんな人が遂に病床に伏し、病院へ入院したと聞かされたため私は足を運ぶことにした。もう出てくることはないだろう。ぶっきらぼうにそう言っていた娘は病室を案内してくれることもなく、私は一人で見覚えのない老人を尋ねた。せめて最後に幼少期のお礼を伝えるのが筋だと思ってのことだった。
「君は良い声を持っている。将来は歌手か、音楽家かな」
「ありがとうございます」
この人はひどい認知症を患っている。娘からそう聞いている。娘もすでに60を過ぎ孫までいると聞くが、そんな玄孫のことはおろか、すでに自分の娘の顔も思い出せないというのだから認知症とはままならないものである。
私にも幼い息子と年老いた母親がいる。親としての心境も多少理解できるが、親に忘れられた娘の心境は察して余りあるものだろう。
「私には妻がいなくてねえ。いや、今はつがいというべきかな」
「つがい、ですか」
この人の言葉はきっと聞くに堪えないうわ言のようなものだと思う。だが、私は初めて見る認知症患者を前にして、まるで動物を観察するかのように顔を覗き込んでいた。
「繁殖に必要な相手さ。昔の私は愛情を持っていたようだけどね」
半開きの口にミイラかと思うほど皺だらけの皮膚。齢九十五というのだから、もしこのまま亡くなっても大往生であろう。しかし、その医療用の管に繋がれた姿はなんとも現代的な死に装束に見えた。少なくとも畳の上で死ねるような人間らしい最期ではない。
──私はね、少し前まで人間だったんだよ。
私は、この人は今も人間のままだと思う。
今までどんな半生を送ってきたのかは知らないが、それでもその人の顔が人間としての苦労が刻まれた逞しい顔に見えたのだ。
「私のこと、覚えてますか?」
「悪いね。私はもう誰かを覚えることは辞めたんだ」
耄碌しているはずなのに妙に言葉がハッキリしていることが気になった。まるでその皺だらけの皮膚の下に誰かが入っているように思えたが、それはただの喩えである。私が管だらけの手を握ってみると、少し冷たい手でかすかに握り返してきた。
「小さい頃あなたに可愛がってもらいました。あなたは覚えてないかもしれませんが、私はほんの少しだけ覚えているんです」
「ああそうか、君は重蔵の親戚だったのか。勘違いしていたよ」
重蔵とは目の前の老人の名前である。そして私にはその言葉が他人の言葉のように聞こえたのだ。
「なら思い残すことは何もないな。君が来てくれてよかった」
老人の口が半開きのまま固まる。
「私はもう人間ではないからね。最期は人間の誰かに重蔵を見送って欲しかったんだ」
動かない老人の口、その中から声が聞こえてきた。
その瞬間、隣の機器がけたたましい電子音を鳴らし、私の肩が跳ねた。すぐに看護師が飛んできて、続いて白衣を着た医師が老人の様子を確認する。誰一人として明るい表情をしてはいなかった。
ご家族の方ですか、と尋ねられ、私は首を横に振る。医師が席を外すと、電子機器で心電図を測る看護師が部屋の隅に残るばかりとなった。
「君との思い出は重蔵しか持っていないが、少なくとも最期に来てくれたことに感謝は感じていると思うよ」
老人の言葉が聞こえてきたが、看護師は黙って機器を操作している。
「心配せずとも私の声は最初から君にしか聞こえてない。君の声以外と話す気はなかったからね」
私は息を飲んで、重蔵さんの手を握る。
「重蔵の意識はもう無いが、耳は傾けてくれてると思う。最期に何か残してやってくれ」
私は自分の中で言葉を探し、懸命に言葉を紡いだ。
その時、自分が話した言葉は覚えていない。だが、きっと私は話し慣れた単語を使って一生懸命重蔵さんへの感謝を伝えた。思い出など無いも同然だったが、必死に言葉を紡いだ。
「嗚呼ありがとう。これでゆっくりと眠れるだろう」
空いた口から白いものが浮かび上がった。霞のようなそれはゆっくりと立ち上ると、左右それぞれに別れ、大小ふたつの塊が並ぶ。そのうちの小さい塊が私の方を向いた。無機質で煙と間違ってしまいそうなそれは私へ頭を下げると、大きな塊とともに風にかき消されるように消えてしまった。
それ以降、老人は言葉を発することもなく、時期に駆けつけた娘と葬儀屋によってどこかへと運ばれていった。
断簡零墨 仮名郷 瞭太 @satomiryo
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