オちる

星埜銀杏

*****

 その動画は不思議だった。


 プンッ。


 いきなりテレビがついて動画が再生される。


 なんで? と、一瞬、まったく意味が分からず、意識が、オちそう、になった。


 そんな設定にした覚えがない。それ以上に電源が自動的につく事の方が不可解だった。音声はオフかミュートになっているのか、聞こえない。その不可思議さを友の亜紀〔あき〕に告げる。テレビつけた? と小さな声で、いくらか怯え。


 もちろん、亜紀がリモコンを使って電源を入れたのか、と、そう勘ぐったのだ。


 この部屋には私と亜紀しかいないから……。


「てか、麻弥〔まや〕。生きるって辛いよね」


 亜紀が読み耽る漫画から目を放さずに言う。


「どうした、どうした。おっさんかっての?」


 と返す。


 敢えて、おちゃらけ、わずかにも湧き上がった恐怖を誤魔化す。


 テレビつけた? は流されたが、……まあ、良しとしておこう。


 無言でテレビを消す。そんな事もあるかと考えるのを放棄。放棄しなければ其れを考えてしまうから。其れは恐い。ゾッとする。たまたま何かの拍子に電源スイッチを押してしまって、と結論づけておけば、いくらか恐怖も収まるのだ。


 そうだ。


 今は草木も眠る深夜二時。


 外は雨。雲が立ちこめ月明かりさえも届かない。いや、月や星さえも眠ってしまって沈黙している。シトシトと降る雨音が耳に届くが、それも、また闇に溶け、とにかく誰も彼もが、この世界から消え失せてしまったかのようにも感じる。


 闇が加速している。そう表現してしまってもいいとさえ思える。


 凜と張り詰めた凍りつく深淵が其処に在る。


 プンッ。


 またテレビが勝手につき動画が再生される。


 あれっ?


 なんで?


 そして、ふおっ、と風が吹いたようテレビの中で桜吹雪が舞う。


 桜が散って花弁が踊る。テレビの中で軽やかなステップを踏むのは極寒の世界で舞う雪にも見える。吹雪。雪が薄いピンク色なのが、かろうじて其れが花弁なのだと主張しているようにも思える。今の季節には、いささか遅い其れだからこそ。


 そして。


 画面の真ん中には日本人形が寂しくも一つ。


 おかっぱ頭。艶やかな黒髪を風に揺らして微笑む。いや、正確には画面の奥に其れは居るから表情までは確認出来ない。これは不思議なのだが、其れでも微笑んでいるようにしか見えない。なんとなく、そう思うという気持ちが真実に為る。


 その笑みを感じて、私の心臓が強く脈打つ。


 にいっ。


 人形の目から赤いモノが垂れ、上がる口角。


 頬が強張る。恐怖というものを感じて……。


「どうしたん。麻弥。その顔、めっちゃ恐い」


 相変わらず漫画から視線を外さず、横目で私を確認したあと、そう告げる亜紀。


 何気ないやり取りの延長線上とばかり、のんきな亜紀が微笑む。人形の件は気のせいだと大きく息を吸い、それから瞳を閉じ、また息を大きく吐く。深呼吸。とにかく心を落ち着けよう。そして亜紀の問いかけに答えようとした瞬間。


「ねぇ?」


 亜紀が遮り、私に言葉が投げられる。不意。


「麻弥、一つ聞きたいんだけど、このテレビ、なんでついているの? つけた?」


 どうやら亜紀の方もテレビがついている不思議さに気づいたようだ。今まで読んでいた漫画を静かに床に置いてテレビの画面に釘付けになっている。その横顔は緊張しており、額から、いくらかの冷や汗が吹き出しているようにも見える。


「私、つけてないよ。……亜紀じゃないの?」


 と、私は、自分の恐怖心を誤魔化す為、敢えて、おどけるような調子で応える。


「待って」


 突如、大声を出して亜紀は驚きを隠さない。


 えっ!?


 私は亜紀の視線の先、テレビに視線を移す。


 其処には寝かせた半月状の両目から真っ赤な血を流し、両口角が、これ以上ないほどに吊り上がった日本人形が居た。その口から、ちらりとのぞく歯は黒い。まるで狂気に満ちた顔つき。いや、違うのだ。そんな表情は確認出来るはずがない。


 出来るはずがないのだ。何故なら人形は画面奥に居て全身は豆粒大なのだから。


 其れでも違〔たが〕いなく。違いなくも、そう見えてしまう。そう感じるのだ。


 其れが何故なのか、どうしても分からない。


 と突如。


「うふふ」


 と地獄の底からの招待状が届く。私の耳に。


「ご機嫌よう。これは……、軽くなる、お話」


 なにっ?


 何なの?


 何の事?


「とても軽くなるお話。桜が舞い散る季節の」


 重苦しく軋みつつも頭の中を突き抜けてゆくハイトーンボイス。


 冷たい女の声。長い年月を経て錆び付いた鉄を擦り合わせたような音階。この世の果てから闇へと誘う甘くも、どす黒く蠢く其れ。四月も終わりだというのに時は凍てつき、背筋に冷たいモノが駆け抜けていく。亜紀も、また動けないでいる。


 そして。


 そして。


 そして。


 唐突、画面奥に居た日本人形の頭が首を基点にカクカクと動く。


 左右に。


 大きく。


 揺れる。


 圧倒的なプレッシャーと共に壊れたマリオネットのよう、またカクカクした不自然な動きでモニターの全面へと移動してくる。まるで私と亜紀を弄び、からかうように。画面の中で、ちらついていた桜吹雪は猛吹雪に変る。淡いピンク色の。


 画面狭しと乱れ舞う花弁。


 色鮮やかな薄紅なる雪桜。


 私と亜紀は同時に息を呑んだ。ゴクリ、と。


「なんだろう、この動画、気持ち悪いよね?」


 ……言われるまでもない。


 日本人形と薄桃色の吹雪が舞うだけの動画。こんなもので高評価やイイネなどを稼げるわけがない。むしろ漆黒の闇〔バック〕に其れという動画は低評価が嵐のように吹き荒れてもおかしくない。いや、こういったものが流行っているのか。


 恐怖映像という感じでだ。


 そんな風に勘ぐりもする。


「あれ?」


 亜紀が、ある事に気づく。


 なによ?


「……この動画ってライブっぽくない? なんとなくなんだけど」


 確かに。


 なんとくなくなんかじゃない。……そう感じさせるリアリティが其処には在る。


 生のような圧倒的な迫力というか、圧力をヒシヒシと感じさせる。もしライブだとしたら、この動画は何処から中継されているのか。今は四月の終わり。桜は散ってしまい、葉桜と呼ばれる状態になっている。それが、この桜吹雪なのだ。


 いや、もしか北海道ならば或いは。……とも思うが、どうも違うように感じる。


 それも何故だか分からないのだが、そう確信させるモノが在る。


 加えて、


 作り物〔フェイク〕ではない、とそう思わせられる説得力が充分に溢れている。


 其れほどまでにも真に迫っている。全身が凍えて背筋が伸びる。


 ハァハァと息が上がって。


「ねぇ、亜紀。テレビ、消さない? もういいよ。こんな動画は」


 無駄だと分かっていても、亜紀に、そうやって提案をしてみる。


 もちろん、断らず、有無を言わせず、テレビを切るという選択もあった。だけども切迫した気持ちが、どうしても同意を得なければ、という強迫観念を与えてきたのだ。其れも、また何故なのか、という不毛とも思える思考を一刀で遮り。


「そうね」


 よしッ!


 同意を得た。亜紀は頷いたのだ。ホッと胸を撫で下ろして良かったと頬が緩む。


 急いで視線を動かしてテレビのリモコンを探し出す。そうしてバッと手に取る。


 切るッ!


 切ってやるッ! こんな気持ち悪い動画を。


 これ以上、この不可思議なモノを観続けていると何かが起こる。そんな気にもなる。いや、むしろ、その先を知りたいという好奇心も湧き上がったが、それでも切るという選択肢を選ぶ。実行する。ある意味で、死ね、と心の中で呟き。


 放送〔きょうふ〕を終わらせると意気込み、一気に電源ボタンへと手をかける。


 突如ッ!


「このお話は、とても悲しい女の子のお話。……生きる事が辛いと言う女の子の」


 電源ボタンを押そうとしていた親指が止まる。えっ、と不思議に思ってしまい。


 そうだ。


 亜紀は言っていた。生きるのが辛いと。私が、おっさんかっての、と返したアレだ。そんな風に言われてしまい、いや、もちろん、たまたま、なんだろうけども先に湧き上がった続きを知りたいという好奇心に負けてしまったのだ。不覚にも。


 しかし。


 しかし、此処だったのだ。


 此処が、私と亜紀の譲れないターニングポイントだったわけだ。


 ナレーションなど気にせずにテレビを切っていれば或いは……。


「ゆく先が分からなかった女の子の、とても、とても悲しいお話」


 陰鬱な声が厳かに続ける。


 背中から心臓にめがけて鋭く尖ったつららで貫かれたような感覚に陥る。目の前で冷たい火花が飛び散る。目がくらむ。心の芯が冷ややかさを感じ取り、指先、足先が凍る。心臓を強い力で何者かに鷲掴みにされたような息苦しさを感じる。


 小刻みに身震いを繰り返す亜紀も、また同じモノを感じている、とそう思える。


「この動画、ヤバいよ。めっちゃ恐い。やっぱり消そうよ。麻弥」


「う、うん。そうだね。ごめん。今、消すよ」


 亜紀の顔は引き攣っている。青くもなって。


 私は、この時、恐怖に支配されていた。今すぐ逃げ出したい。そんな気持ちになっていて恐怖から逃れたい一心だった。助けて欲しい。なんとかして欲しい、と誰に言うのでもなく、求めるのでもなく、兎に角、此処から逃げ出したかった。


 だから。


 リモコンを持つ手にも力が籠もってしまい、なかなか上手く操作できなかった。


 そうこうしている内に、無情にも刻〔とき〕は一刻一刻と着実に進んでいった。


 不意に。


 ドサッ。


 と、とても重いモノが落ちてきた時に鳴る音が響く。ここで。この部屋の中で。


 ビックリしてしまい、また大きく息を呑む。


 な、何?


 リモコンの操作に悪戦苦闘していた時、亜紀が思いを吐露した時、その瞬間に背後の離れた場所から聞こえた。その音は。なにかが落ちてきた。其れは、なんなのか、なんて考えたくもない。無論、見たくもない。だからこそ確認出来ない。


 真後ろと言ってしまってもいい其処だから。


「麻弥ッ」


 亜紀が必死に叫ぶ。嫌だ。嫌だ。嫌だ、と。


 顔を真っ正面に向けたまま視線も動かさず。


 私の手に汗が滲んできて其れも気持ち悪い。


 亜紀の喉が渇いてしまっているのか声がガサガサと掠れてくる。


「そして」


 とナレーションが続ける。止めて。止めて。


「そして、軽くなるお話。軽くなるのよッ!」


 止めて!


 私の心中に潜んでいた深く暗い暗部とも言える気持ちの底から真っ白な手が伸びてきて私の足を掴む。深緑とも思える海底へと引きずり込む。必死で足掻くが、その力には抗えない、なにかが在るのかのように無駄だと宣言されて私は沈む。


 闇に捕らわれてしまい、身動きが出来ない。


 ズリ……、ズリ……、と引きずるような音。


 な、何?


 背後に落ちてきた其れが、ゆっくりと近づいてくる。いや、近づいてきているのだと感じる。また、ズリ……、ズリ……、と気色悪い音が続く。其れでも畏れが極限までに達してしまっている私と亜紀の二人は其れを確認する事は出来ない。


 どんどんと近づいてくる、其れ。嫌だ。嫌。


 嫌だッ!


「軽くなるお話。軽くなるお話なの。アハハ」


 先ほどまでの音量を超え、大音量となる怨霊〔ナレーション〕。


 腹の底にも響く其れ。重苦しい調子な其れ。


 首筋に大きな玉汗が浮かんで胸へと垂れる。


「キャハ」


 もはやナレーションなどを聞きたくないと思っても、どうしても聞いてしまう。


「亜紀っ」


 自分と同じく震えているであろう亜紀を横目で見る。助けてと。


「麻弥っ」


 ちょっと。ちょっと。ちょっと、亜紀ッ!?


「アハハ」


 亜紀。正気を保って。正気になるの。ダメ。


 ダメッ。


 ダメッ!


「なに。これ。マジなん?」


 亜紀は泣いて笑っている。


 もはや自分の感情すらも混沌としてしまい、どうやって今の自分を表現していいのかさえも分からないようにも見える。いや、問題は其処ではない。そうだ。そう。そうなんだ。亜紀は背後へと顔を向けて迫り来る其れへと視線を投げている。


 もちろん、正気を失って。


 と……。


 テレビに変化がある。視線を画面へと移す。


 日本人形の表情が変る。歪む。目をカッと見開き黒い歯をむき出しにして大口を開ける。黒い歯から滴る鮮血。ポタリ、ポタリ、と地面と思しき場所に垂れる。目を、また大きく見開き、にやりと笑ったように思える。雪桜の吹雪は乱れ狂う。


 ククク。


 と、くぐもった声をあげ、あざ笑う。笑う。


 嗤うッ!


「フフフ。あなたたちの内で軽くなりたい子は決まったようね?」


 ナレーションの女が冷たく淡々と言い放つ。


 もはや半狂乱の亜紀。俯き、髪をガシガシと力強く掻きまくっている。まるで其処で蟲が蠢いていると言いたげにも。見開かれた目からは大粒の涙をボロボロと零し、口角が歪んでいる。アハハ、あり得ない、と、しきりに呟き続けながらも。


 一方で、画面の中で日本人形は、動き回る。


 相変わらずカクカクした動きで顔を360度、一回転させる。カタカタと口を開いたり、閉じたり。人形の背後では薄いピンク色をした桜の花弁が冷ややかに宙を舞い続ける。桜吹雪舞う闇の中で日本人形も、また踊り狂う。楽しそうにも。


 同時に、ズリ……ズリ……、と背後の其れもまた近づいてくる。


「アハハ」


 ……あり得ない。あり得ない。あり得ない。


 と亜紀が、しきりに言い続ける。自分に言い聞かせるようにも。


 亜紀は、いまだに近づきつつある背後の其れが何なのかを知り見続けているんだろう。背後に顔を向け。そして、其れが、あり得ないモノだったからこそ、あり得ない、と繰り返しているんだ。まだ心に残る少しの正気で。でも其れは何なの。


 何なの。


 なによ?


 もちろん、私も後ろに顔を向けて確認すれば、それで済む話だ。


 しかしながら其れを見てはならないだと心が叫ぶ。いや、見てもいいのだが、確認した後に正気を保っていられる自信がないのだ。今、隣で完全に正気を失いつつある亜紀を見てしまったからこそ。見ちゃダメだ。いや、見て確認した方が。


 そんな相反する気持ちが交錯してしまい混乱が心を襲ってくる。


「麻弥?」


「亜紀?」


「そんなに難しく考える必要はないよ。だってさ。アレはさ……」


 亜紀は目からポロポロと涙を零しながらも明るく朗らかに嗤う。


 もはや亜紀の心の中には、何処にも正気が無いようにも思える。


「亜紀。正気に戻ってよ。お願い。お願いよ」


 私は懇願する。亜紀を助けたくて。亜紀に助けて欲しくて……。


 そうして亜紀は何処となく恍惚とした表情を浮かべたあと言う。


「単なる生首よ。アレ。人間のそれ。女の頭」


 アハハ。


 亜紀は狂ってしまった。恐怖に支配され。其れに抗う事を止めた。むしろ、受け入れ、その世界での幸福を掴む為、彼女の思考と感情は、この世の果てへと旅立っていった。それは幸福を得る為にあげた白旗。完全なる降伏〔にげ〕だった。


 アハハ。


 あなたも軽くなりましょう。軽くなるのよ。


 キャハ!


 もはや頭の中に、直接、響いていると言ってしまっても良いナレーションが、生首と思われる近づいてきている其れが発した声とハモる。その悲鳴にも似た音を聞いた瞬間、私の意識が飛んだ。正気を保ったまま恐怖に負けてしまったのだ。


 同時に亜紀の笑い声も静かに溶けていった。


 闇の其処へ。深淵の底へ。悪しきの暗晦へ。


 ねぇ? 麻弥。……あたしは軽くなったよ。


 軽くなった。とても。……幸せは在ったの。


 其処に。


 アハハ。


 と最期に耳へと届いた其れを残し。そして、辺り一面に、再び、静寂が訪れた。


 プンッ。


「あれ?」


 意識が戻る。静かに、ゆっくりと目を開く。


 あれから、どれくらいの時が経ったのだろう。外は微かに白み雨が止んでいた。


 ふうっ。


 一つ大きく息を吐く。心を落ち着ける為に。


 どうやら、あの亜紀の狂った笑い声を聞いてしまい、完全に気を失っていたようだ。あの後、一体、どうなったのか。とも思うが、当の亜紀は見当たらない。もちろん私と亜紀の仲だから黙って帰ってしまったという事も充分に考えられる。


 そして。


 あの不思議な動画は単なる悪夢ではないのか、と、そう感じた。


 夜も遅かったから知らない内に眠気が襲ってきて寝てしまった。


 その上で、夢を見た。恐い夢を見たのだと、そう思いたかった。


 じゃなければ亜紀は女の生首を見てしまい、気が狂って、なんて悲しい答えに行き着くからだ。悪夢だと断定する為に問題のテレビへと視線を移す。のち拍子抜けする。テレビはついていたがソウサセンを映し出していた。ホッと安心する。


 狂気に満ちた人形も映ってなければ雪桜の吹雪も舞っていない。


 唯々、ソウサセンが映し出されているだけ。


 唯々だ。


 音は鳴っていない。其れに、いくらか不可思議さを感じたが、まあ、ソウサセンだけが映っているのだから、そんな事もあるかと納得する。そうしてテレビを確認して安心した後、今度は亜紀の安否が気になる。周りを見渡す。ぐるっと一周。


 亜紀はもちろんの事、其処には誰もいない。


 ふうっ。


 一つ息を吐く。まあ、そんな事もあるかと。


 私も亜紀の部屋を襲撃した際、彼女が眠ってしまえば黙って帰るだろう。その逆で私の部屋に遊びに来た亜紀が黙って帰ってしまう事は普通にあり得る。私が眠りこけてしまえば尚更。そう結論づけ、天井を見上げ、また大きく息を吐く。


 いや、そう思いたかったのだ。……其れはアレが悪夢であるという証拠だから。


 そうだ。


 単なる悪夢だったんだと。


 そして、


 机の上に置いてあったレモンジュースが入った缶を取る。緊張してしまい、緊張の糸が解け、喉が乾いた。喉を鳴らしてジュースを飲む。炭酸が抜け、あまり美味しくなかったが、一気に飲み干す。空き缶を乱暴にゴミ箱へシュートする。


 飲み物を口にして更に落ち着く事が出来る。


 ふうっ。


 瞳を閉じ、ゆっくり、また大きく息を吸う。


 ふうっ。


 先に吸い込んだ空気を、一旦、肺に溜めてから、またもや、ゆっくり吐き出す。


 目が細くなって笑む。心が完全に落ち着く。


 不意に。


 プンッ。


 いきなりテレビが小さな音を立て映像を映し出した。ソウサセンだけだった画面に画が成る。放送〔現実〕が、私を決して逃がさなかったのだ。まるで、あざ笑うかのよう、再び、アレが映し出される。日本人形のバックに桜吹雪のアレ。


 こめかみから汗が垂れる。


 人形は画面の奥でケラケラと不気味に笑っている。死ねという幻聴が木霊する。


「麻弥ちゃん。いえ、麻弥」


 私は後悔した。強く強く。


 気がついて始めにテレビを確認した時点で気づくべきだったんだ。亜紀を狂わせた動画は作り物〔フェイク〕なんかじゃなくて現実〔リアル〕だったんだと。何故ならば、あの時点でアレが現実だったという証拠は確かに在ったのだから。


 今、ネット動画を見れるようなテレビは、決して、ソウサセンなどは映さない。


 入力される情報がなければ入力信号がありませんと自動的に電源が切れるのだ。


 其れでも先に確認した時点で絶対に映し出される事のないソウサセンが映し出されていたのだ。あの時。無論、アレはソウサセンではなかった。今、分かった。赤く染まる前の白い雪だったのだ。桜の花弁だと思っていたアレは雪だったのだ。


 赤く、いや、薄いピンク色に染まる前の雪。


 ソウサセンだと感じたのは漆黒の闇に猛烈に吹雪いていた純白の雪だったのだ。


 この事実に気づいて、そうして、此処から逃げ出すべきだった。


「このお話は、とても悲しい女の子のお話。……友を失った悲しい女の子のお話」


 嗚呼、そうか。そうだったんだ。アレが桜の花弁に見えたのは。


 真っ白な雪が吹雪き踊り舞い狂う画面の中央辺りから薄いピンク色の桜の花弁とも思えるモノが舞い始める。そうだ。そうか。闇が、一歩、一歩、と忍び寄る。ヒタヒタという音を立てて、日本人形が、ゆっくりと画面手前へと歩を進める。


 嗚呼、綺麗な桜が舞ってる。アレは日本人形の首から吹き出す血で染まった雪。


 真っ白なカンバスに赤い血を添え、……ほんのりと染まった雪。


「死にたい。消えたい。止めて。もう止めて」


 うつむき、両手で頭を抑え、がぶりを振る。


 私は、すでに自分でも自分の心が見えなくなって最低の現実逃避をしてしまう。


 あれは。


 アレは。


 アレハ。


 そうだ。


 画面奥から手前へと移動する日本人形の首から大量の血が霧のように噴き出している。其れが、雪と混ざり、雪は桜の花弁へと為っていた。其れを知ってしまった私の心は、もはや壊れてしまった。其れが、綺麗だ、としか感じれない。


「ねぇ? 麻弥? 聞いて」


 さっきまでの私なら聞きたくないと拒絶したが、もはや抗う気持ちになれない。


 亜紀が、もう、この世にはいないのだ、と悟ってしまって……。


 だって。


 画面の手前まで来た人形、その頭が亜紀の其れだったのだから。


「このお話は、とても悲しい女の子のお話。……友を失った悲しい女の子のお話」


 日本人形の首から上が亜紀の其れが絶叫する。つんざく。耳を。


 応える事すら出来ない。固まって動けない。


「麻弥。こっちに来なよ?」


 もちろん死にたくはない。けど、もはや蜘蛛の巣に捕らわれ諦めた蝶のよう、或いは、蟻地獄で足掻き疲れた蟻のよう、私の心は、まったく動かない。動けない。ある意味で平常心とも言えるが其れは完全に現実逃避だろう。そう思った。


 画面の中で嗤う亜紀。踊る。血をまき散らす。その度に桜の花弁が増えてゆく。


 桜吹雪に成る。雪で出来た桜吹雪。綺麗だ。


 そして。


 ナレーションがドスの利いた男の声で言う。


「死ねよ」


 亜紀とは違う、日本人形の其れではない声。


「軽くなれよ。友達も待ってるぞ。ここでな」


 まるで私の心を押し潰すような重苦しい声。


「死ねばいいんだ。お前自身が、そう言って願ったよう死ねば全てが終わるんだ」


 辺り一面は狂気を塗り込んだ歪んだ抽象画。


 私は、その、めくるめく様々な色が混濁する絵画の中で、夢の中で、身動き一つとれなくなる。声をあげて助けを呼ぶ事すら叶わない。許されるならば、この目の前に在る恐怖を受け入れ、そのまま消え去りたい、とさえも考えてしまう。


 まさに、蛇に睨まれた蛙とは今の私だろう。


 いまだに続く恐怖の動画から目が離せない。


「ねぇ? 麻弥。知ってる? 知ってるかな」


 首から上を亜紀にすげ換えられたアレが言う。首から真っ赤な鮮血を滴らせて。


 遂には画面最前へと来たアレが嗤う。依然としてカクカクとした動きで私を挑発するかのよう歓喜の舞いを披露している。私の心の疲労は極限まで達し、まぶたを閉じて視界を切る事すら出来ない。踊る。踊る。踊る。日本人形は踊り狂う。


 カクカクと動き無表情ながらも高らかに笑う。嗤う。あざ笑う。


 そして。


 キャハ。


「人間の一番重たい部分、それは首から上なのよ。頭が一番重いのよ。麻弥……」


 亜紀の閉じていた目がクカッと見開かれる。


 鋭くも。


 真っ赤な瞳から垂れる青き血潮と深紅の涙。


 笑みを湛える口からは小さな蟲が這い出す。


 もはや私は悟ってしまっていた。これで終わりなのだ。そう。終わりなのだと。


 落ちてくる。堕ちてくる。オちてくるのだ。


「麻弥も軽くなろ。軽くなれば楽になれるよ」


 今にも画面から這い出してもきそうな亜紀の顔が乗る日本人形。


 嫌だ。死にたくない。そんな事を、ようやく考えられるようにもなったが、それも時すで遅し。後の祭り。全ては、もう終わっていた。何故ならば私が死にたくないと考えた瞬間、背後で不穏な音がしたから。そう。それは、あの音だ。


 重いモノが落ちてきた時に響く、あの音だ。


 ドサッ。


 落ちた。


 オちた。


 オちる。


 お終い。

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オちる 星埜銀杏 @iyo_hoshino

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