包囲自身

小狸

短編

「ブロックしている人のアカウントを見に行ってさ、いいね欄とかツイートとかをあさって、過激な思想とかに毒されているのを見ちゃうんだよね。何かそういうの見て、ざまあみろと思う」

 

 え。

 

 私の友達が、そんな風に言っていた。

 

 見なければ良いのに――と言ったけれど、適当な言葉で誤魔化された。


 なんでそんなことをするのだろうか。


 意味が分からなかった。

 

 ブロックをするということは、その対象が苦手か嫌いに属する人や集団だということだろう。


 だったら、目障りなはずだ。


 視界に入れたくないはずだ。

 

 私ならそう思って、絶対に見に行くことはない。


 人と人は分かりあえる、支え合っていきてゆくなどという言葉もあるけれど、それは理想論である。


 分かり合えない人間もいる。どうしようもない人間もいる。

 

 例えば、電車の中で刃物を振り回す人間がおり、一般人としてその場に偶然居合わせたとして、その人物と分かり合おうとするだろうか。


 私は、できないと思うし、しないと思う。


 電車内で鋭利な刃物を取り出すという時点で、色々と螺子が外れている。加えてそれを振り回す、人に危害を加える行為を平気でする――そんな人間と分かり合えて、何になるというのだろう。


 そういう場合は、警察や関係者に何とかしてもらうしかない。


 私たちは、そういう人間に対して、分かろうとしなくとも良いのだ。


 これは優しさとか、心の余裕とか、そういう類とはまた違ったポイントでの話である。


 道行く全員に共感し共有していたら、脳が持たないだろう。


 それに、他人を分かろうとする人間は、得てして良いように利用されがちである。


 良いことなど、何もないのだ。


 ひるがえって、私の友達は、別段相手のことを分かろうとはしていないのだと思う。

 

 ブロックした相手を敢えて見に行くというのは、共感や共有とはまた違う。

 

 ならば何かと問われると、返答に窮する。


 というか返答する気が、私にはない。


 まあ、ここで私が丁々ちょうちょう発止はっし脳内会議をして、その友達の気持ちを分かろうとしたり、言語化したりしても良いのだが、面倒なのでしない。


 前述の通りだ。


 いちいち分かってあげる必要など、ないのである。


 まあ、友達同士の集まりでそんなことを言う彼女は結構引かれていたし、次からは誘われないことになるだろうけれど。


 別にそれは、私には関係ない。


 どうでもいい。


 そう思って、今日も私は、溜まっていたアマプラのドラマを見返す。




「包囲自身」――了

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