浸蝕

@volefanol

浸蝕

たとえ雨が降っていようと休日が幸せなものであることは誰の目にも疑いようのない事実である。


 彼女は鉛色の空の下、鼻歌交じりで図書館へ行く準備を始めた。肌寒い風を考慮した花柄のロングスカート、長い髪を纏めるヘアバンド、ブランド物の白い肩掛けポーチ。散歩ついでの小支度が着々と進む中、懸念点があるとするならば今にも雨が降りそうな空になっていることだ。昨日の天気予報の時点では、今頃綺麗な夕焼けが窓から差し込むはずだった。

 彼女はため息を漏らす。

 それでも休日の魔力には抗えない。学校の帰り道に見かけた小さな図書館がどうしても気になっていた。時刻は午後17時に近づいている。

 ーー仕方ない。

 帰りがどうであれ日が沈む前に図書館に着いておきたい。止めていた手を再び動かし手短に身支度を終わらせると、夕焼けを隠す雲の中彼女はビニール傘を片手に魔力の渦中へと飛び出していった。


 何気ない大通りより、たまには子供心ながら脇道に逸れてみる。図書館への道は大体覚えているため冒険心が刺激されたのだろうか、これも休日の魔力に違いない。

 しかし、目に映る脇道は彼女の期待を裏切った。

 人気のない公園、シャッターが閉まっているお店、点滅している蛍光灯、いやに湿ったコンクリ。少し不気味なのは気のせいだろうか。それに余りにも人が少なく感じる。いくら雨が降りそうとはいえ、ここまで少ないものだろうか。寂しく思わせるほどの脇道の悲壮感は彼女の子供心と期待感をジワリジワリと擦り減らせ、いつの間にか鬱屈感が溜まっていた。その上、降雨直前のジメジメした特有の空気が、一層彼女の鬱心をいやらしく増大させる。

 彼女は不安と鬱蒼感とため息とが混じり合いながらも、どうにか雨が降る前に目的の図書館につくことができた。

 初めに垣間見えた印象と変わらない、小さいけど少し堅い二階建ての図書館。

 きっとここならこの暗い気持ちも晴らしてくれる。そう願い傘を傘立てに置いて自動ドアの奥に入って行った。


 仄かな暖色の蛍光灯が外見のイメージに反して柔らかい印象をうける。どうやらここは公共のではなく、私蔵の図書館らしい。本の持ち主が亡くなり、膨大な数の蔵書をどうするかと悩んでいた所、家族からの提案で図書館に改装したというそうだ。

 彼女は図書館に行くことが目的であったため、すぐ帰ろうと思っていたが天候の悪さを鑑みて気分にあった本を探すことにした。

 ダークファンタジーの小説を棚から取り、読書スペースまで足を運ぶ。本を借りる気は無いが面白かったら、という感じで。

 畳一畳程度の机に荷物を置き、備え付けの木製の椅子に座って本を開く。


 読み始めてから数分も経たずに、雨音の調べが届く。受付も他の客もおらずまるで世界に私一人しか取り残されているかのような静けさだ。一文字づつ読み刻み、一ページまた一ページと開かれる微かな音は静谷な図書館にはあつらえ向きである。彼女の没入はもはや誰にも止められるものではなく、本の世界と一体化するように刻々と没頭していく。時々笑みが溢れたり、話の展開に胸を踊らせながら彼女は読み進めていった。隔絶された世界にただ一人彼女は本を読んでいた。


 ふと雷鳴が轟く。それまで静かだった外界に色が付いたかのように存在を顕にする。彼女は驚くと同時にスマートフォンの時計を、あれから一体どれほどの時間が経ったのだろうと、確認する。小さな針は8と9の間でとまっている。2時間半、と行ったところか。2、3冊読み終えて切りもちょうど良い。用を足してからの出ようと思い、外を一瞥する。外界は、以前車を流すような雨が降っているように見える。本を左手に携えて元あった場所を探す。

 それは椅子から立ち上がった後の突然のことだった。

 彼女の綿密な脳内に外の雷に勝るとも劣らないいかづちが咲いたような気がした。刹那、意識が豪雨に溶ける。どこからともなく入り込んできた未知の電気信号は、彼女の自意識を奪い蝕んでいく。ゆっくりと確実に。それは得体のしれない悪意なのか。未曾有の予知夢のようなものなのか。抗うことすら許されず、身に堕ちるまま彼女はただ受け身だった。

 髪の毛から足の爪の随まで正体不明の衝撃に侵された彼女は、手に抱えていた本を一度バサリと落としたあと何事も無かったかのように拾い上げる。彼女は彼女のものでは無い不敵な微笑を浮かべ、本とともにフラリと歩き出す。依然雨が降っているにもかかわらず、傘すら置いて出て行った。黒い雨に曝された彼女の身体は、世界の誰にも知られずに不気味な路地の裏へ消えて行った。

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