第8話 死神さんとお味噌汁


目の前に呆然を佇む亡霊を見つめ、藍里は意を決すると、徐々に亡霊に向かって歩み出していった。


「あ、あのう、そこの人ぉ」


「……あぁ?」


 一か八かで声をかけてみると、男は呆けた顔のままこちらを向いた。どうやら事故での損傷は深刻だったらしく、頭部からは白色の脳が見え隠れしている。藍里はうっすらと吐き気を覚えたが、精いっぱいの笑顔を見せた。


「事故、大変でしたねぇ……」


「あ? あぁ、全くだ。普通に歩いていたら信号無視されて、な。生前の罰でも当たったんかねぇ。ていうか、お前さん、俺の姿が見えんのか?」


「ええ、まあ。かくかくしかじかで。あ、そうだ、今からお時間ありますか?」


「時間? 死んでるんだから時間なんか関係ねえよ。どうせあの世に行くしかねぇんだから」


 よし、いまだ。


「じゃ、じゃあ私が経営する喫茶店で、ご飯を食べませんか?」


「ご飯?」


 亡霊は目を丸くした。当たり前の反応だ。死亡直後に、得体のしれない娘に飯を誘われたのだ。藍里本人でもドン引きする。藍里は急いで、身振り手振りで付け加えた。


「あ、あのですね! 私の料理は仏も昇天するほどの絶品なんです! おじさんも私のご飯を食べたら、きっと超ハッピーな気持ちでゴートゥーヘブンできますよ! どうでしょう?」


「この子の料理は美味いよ? あたしのお墨付きなんだから」


 モルテは亡霊の肩を小突くと、妖艶にウィンクを投げた。珍しくフォローをしてくれたようだ。藍里は子犬のような潤んだ瞳を見せて、男を見つめた。男は一つ溜息をつくと、小さくうなずいた。


「はぁ、いいぜ。もう死んだんだ、もうどうにでもなれ」


「なら決まりですね! あ、自己紹介が遅れました! 私は大蔵藍里です。それでこ

ちらは……」


「死神のモルテ。このチビとはビジネスパートナーってやつ」


「見える嬢ちゃんに、死神……。死んだあとって、こんなものなのか? 俺は、えと、玉川だ」


「玉川さん! それじゃあ早速案内しますね! ほらモルさんも早く!」


 藍里は玉川の背をぐいぐいと押して進み始めた。モルテも鎌を抱えなおすと、景気よく口笛を鳴らして歩み始めた。玉川はただ困惑して連行されるだけだった。



 ※



「サービスです! 仏のお客様にはリクエストも受け付けてますよ!」


 こげ茶色のカウンターに付き、うっすら文字が濁ったメニュー表を見る玉川に、藍里は冷えた水を渡した。玉川はじとっとメニュー表を見つめていたが、藍里の言葉を聞くとそれをゆっくり下ろした。


「どんなものでもいいのか?」


「はい! あ、でも流石にコアなものは……」


「なら、“具沢山味噌汁”を頼めるか?」


「味噌汁? 随分とシンプルな注文だねぇ」


 カウンターに腰かけ、鎌を磨いていたモルテは目をぱちくりした。藍里はぎっと彼を軽く睨むと、再び玉川に笑みを向けた。


「味噌汁ですね! 具は何がよろしいでしょうか?」


「ああ、肉団子に、ネギ、豆腐、きのこにキャベツも入れてくれるか? 昔、お袋が

よく作ってくれたんだ……」


「はいな! かしこまりました!」


 藍里は注文を取り終えると、銀白色の業務冷蔵庫から次々と食材を取り出した。鶏ひき肉、ショウガと味噌をはじめとした調味料たち、お野菜に豆腐。そこで彼女は一つ息を吐くと、顔つきを一瞬で変えた。


 まずはボウルにひき肉を入れ、刻んだショウガや塩コショウと共にかき混ぜる。そこへ切り込みを入れて、細かにしたネギをパラパラと散らし、また混ぜる。これを丸めると肉団子だ。次に、野菜や豆腐を心地の良い拍子で切っていく。


 その様子を、玉川とモルテはただじっと見つめていた。


「随分と手際がいいんだな」


「ええ、この子の家系の腕前は“神”が仕込んだものなんだから」


 談笑をする二人をよそに、料理は進む。藍里は大鍋を用意すると、水を半分まで注ぎ、コンロの火をつけた。料理棚の引き出しから、あらかじめ擦っておいた鰹節を取り出すと出汁として水に落とした。ほのかによい香りが出てきたら、鰹節を掬い、丸めたピンクの肉団子をコロコロと転がしていく。肉団子が色を失っていくのを見計らって、刻まれた野菜を泳がせる。かなりの量を入れたが、蓋をして数分もすればしなしなと出汁に身を委ねていった。


最後の仕上げだ。藍里は大蔵家のレシピで作られた味噌を樽から掬い上げ、野菜や肉団子を染めていった。幾度かかき混ぜて、再び煮立たせる。完成だ。


 藍里は険しくなっていた顔を緩ませると、木製の茶碗に味噌汁を注ぎ込んだ。旨味を伴った湯気が玉川の鼻腔をくすぐる。冷気しか感じさせない亡霊と、体を芯まっで温めてくれる味噌汁というコントラストに、藍里はどこかおかしく感じたが慎ましやかに玉川の元に椀を運んだ。


「はい、ご注文の具沢山味噌汁です!」


「おー、これはなかなか……」」


 玉川は感嘆の声を挙げると、へし折れた腕で箸を受け取って椀を持ち上げた。不安

定な持ち方のせいか僅かに味噌汁が揺れる。しかしそれも肉団子の油が電球に照らされ、黄金色に輝き、また絶景であった。玉川は固唾を飲むと、一気に口をつけた。喉仏が数回上下する。


「どうでしょう? どうでしょう? お口に合ったでしょうか?」


 藍里はモルテの背から、こっそり様子を見た。彼も頬杖をつき、興味深そうに玉川を見つめている。相変わらず頭部から出血が止まらない玉川であったが、彼の顔は強面に似合わず、緩み切っていた。


「母さん……母さんのを思い出すよ」


 玉川はふっと顔を上げて、藍里を見つめた。


「お母さまのお味?」


「ああ」


 玉川は再び味噌汁を見つめた。


「俺は、その、若いとき変な意地で親と喧嘩しちまってな……。家を飛び出して、流れに流れた先で人に褒められない仕事をやるようになっちまったんだ。気づいた時には、家族から絶縁されていて、つい最近親戚からお袋が死んだって聞いたんだ。そんとき最初に思い浮かんだのが、この味噌汁だったよ。もう食えないんだなって、気付かされた。ちっくしょー、お互い死んじまう前に何かできたろうにな……」


 玉川はそれだけ語り終えると、骨が飛び出た右腕で顔を覆った。血と一緒に雫が店の床を濡らし、そして蒸発していく。藍里は慌てて手ぬぐいを渡そうとしたが、それは玉川の体を通り過ぎていった。実体が消失していっている?もしやこれは……。


「あ、玉川さん!? 体が!」


「ん? あぁ、迎えか……」


 玉川は透けていく自身を見つめた。しかし彼は自嘲気味に笑うと、藍里に微笑んだ。


「嬢ちゃん、あんたの飯は確かに仏を落す味だ。最後まで食えないのが残念だよ」


「おや、ようやっと成仏かい?」


 モルテはゆっくりと腰を上げると、大鎌を一振りした。玉川はそれに一つ頷いた。


「ああ、どうせ俺は極楽なんて行けねぇだろうが、もうこの世に用なんてねぇ」


 満足そうな笑みを向ける玉川に、藍里はどこか胸が痛くなった。そうか、いまの自分は死者を相手にしているのだ。“普通”のお客さんには未来がある。このご飯を食べたら、明日の予定を考えよう、このデザートを終えたら愛し合おう。皆が皆、次の予定が伴う食事をする。しかし、彼にとってこの食事が全ての最後なのだ。不本意だが、ルクレールの言っていたように何事にも終わりがくる。しかし、その場に立ち会うというものは中々気が病むものだ。いや、待て。


 死者に“次”がないなんて、誰が言える? 死者の玉川は、言い換えれば別世界への旅人ともいえる。生きる世界を変えるだけの、普通のお客さんだ。そう思えば、店主の自分ができることはただ一つ。


「玉川さん」


「ん? どうした? 嬢ちゃん」


 消えゆく玉川に、藍里は深々と頭を下げた。


「本日はご来店、ありがとうございました。それでは、よい旅を……」


 客を満足させて、送り出す。これこそ祖母が願った、店主としての藍里だろう。玉川は彼女の言葉に、一つ沈黙すると、すぐに笑みを零した。


「あぁ、ご馳走様」


 あぁ、初仕事が終わった。藍里はいま初めて、店長としてのやりがいを感じた。これでモルテの恐怖のクーリングオフ期間も漸く終わってくれる……終わってくれたらよかったのに。


「おらぁぁぁぁ!!」


 平穏で、神秘的であった黄泉平坂の茶処に、耳をつんざくような怒号が響いた。目を丸くしたモルテと藍里が振り向けば、店の引き戸を蹴破った今朝のチンピラ達が立っていた。


「あ、あなた達……」

 藍里は顔を真っ青にして、後ずさりした。それを見計らって、竹刀を持った男が声を張り上げた。


「おうよクソガキ、今朝の借りを返してもらいにきたぜぇぇ! おめぇら! 好きに暴れてやれ!」


 その言葉を皮切りに、竹刀男の後ろに控えていたチンピラ達が雪崩れ込んでいった。藍里は声にならない悲鳴を上げて、モルテにしがみ付いた。彼も眉間に皺を寄せて、鎌を肩に担ぎ直したのだった。


 どうやら藍里の初仕事はまた終わっていないようだった。



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