第2話

2000年


 劇団”椅子m”の発表が終わった。雪子と真由が立ち上がるのと、健吾が舞台袖にある階段を下りて、二人がいる通路へ向かうのがほぼ同時だった。

「来てくれたのですね。楽しめましたか」 

 帰る客の邪魔にならないようにステージ下までおりた二人は、健吾に頭を下げた。雪子はいつもと同じような白いシャツに紺のフレアスカート。ジャケットに縦にラメが細く入っているのが、唯一のしゃれっ気だ。真由はオレンジと黒の花柄のワンピースに、黒いカーディガン。派手な色合いだが、くっきりした眉と大きな目によく似合っていた。

 真由は芝居の最中、ストーリーにはまり真剣に見ていたようだった。余韻がまだ冷めていないようで、湯上りのようにほおを紅潮させている。

「こんばんわ。神村さんが出演したものも観たくなりました」

「僕は役者には向いていないんで、縁の下にいるだけです。これから三人で夕食に行きませんか。感想が聞きたいし」

「雪ちゃん、今日はあっちの方、いい?」

「私、今日は大丈夫」

 何かいわくありげな会話が済むと、二人は健吾に頷いて返し、並んで後ろについてホールを出た。

 9月に入って暖かな日が続いていた。日中のぬくもりがまだ大気に残っているようで肌寒さはない。ホールのある建物は地下鉄駅のすぐそばだ。JR琴似駅は600mほど北にあり、賑やかな琴似栄町通りで結ばれている。神村はメインの通りを北へ向かう。

「何か食べたいものありすか」

「こっちへ向かっているということは、神村さんお勧めのところがあるのでしょう? 今日はお任せします。何のお店なのか楽しみ」

 真由は遠慮ない口ぶりだ。二人の歩調に合わせる雪子はなにも言わずついてくる。今夜も好奇心の強い真由が、雪子を連れて来たのだろう。真由は一人でも来たかもしれないが、雪子が一人で来るとは考えられなかった。

 健吾は途中のビルの一階に入っているタイ料理屋を指差した。

「辛いのが大丈夫ならここおすすめです。タイ人家族がやっている琴似ではだいぶ前からあるタイ料理屋です」

「雪ちゃん、辛いのだめよね」

「調節できるならいいけれど」

「ここの料理はまじ辛い。それが評判なんで。どちらかというとランチ向きかな」

 ホテル山木の前の交差点で通りを反対側へ渡った。道なりに北へ歩き、扉の上に赤い提灯が並んだ店の前で止まる。

「ここ“田舎家”も琴似では老舗です。居酒屋というより小料理屋かな。魚がうまい店です。どうですか?」

「私はここがいいわ。雪ちゃんは?」

「私もここがいいです」

 健吾が先に店へはいる。いらっしゃいませという元気な声に迎えられた。三人は一番奥の卓へ案内された。卓と卓の間は、竹で設えた衝立が立っていて、座ると隣の席は目に入らない。通路を挟んで反対側はカウンター席が連なっている。カウンターのガラスケースに、針葉樹の葉の上に様々な刺身の柵があり、処理された鮮魚も並ぶ。仕事帰りのサラリーマンといった雰囲気の男性の一人客が多い。座席一つおきに座っており、半分近く埋まっていた。

 真由と雪子が並んで座る。客の話し声は賑やかだが、生きのいい従業員の声と相まってくぐもり声にしか聞こえない。

 健吾はおしぼりで手を拭きながら「とりあえずビール頼みましょうか」。

「お任せします」とうなずく二人を見て、水を運んできた店員へ「生ジョッキ3個」と伝えた。

「ここはもともと琴似駅の前にあったんですが、老朽化でここへ越してきたのは今年の春です。新しくてきれいでしょ」

「よく利用するの?」

 真由はメニューを見ながら健吾に言う。

「接待が多いですね。道外の関係先は必ず連れてきます。あと仲間と飲むときも利用します。何せうまくて安い。いや、安いから接待に使うわけではなくて、うまいからです。誤解のないように」

「一人で言って言い訳してる。神村さんって面白い。ね、雪ちゃん」

「近くに住んでいるけれど、夜に琴似へ来たことはないから、なんだか旅先にいるような気がするわ」

「そう。今夜は楽しみましょう雪ちゃん。鬼の居ぬ間の洗濯、よ」

 なんか大げさだなと思いながら話を聞いていたが、真由の最後の言葉に引っ掛かった。

「鬼って、お姑さんとか、小姑さんのことですよね。一般的には」

 健吾の問いに真由が小さく舌を出した。雪子を見やり、健吾を見る。雪子はというと、困ったように俯いている。

 それ以上聴くことができない雰囲気が漂う。

「なにか食べたいものや嫌いなものがなければ僕が注文決めていいですかね」

 二人はメニュー表をめくるのをやめて口をそろえた。

「お願いします」

 ビールとお通しが運ばれてきた。真由はわざと明るい声を上げる。

「神村さん、これなあに。くにゃくにゃしたもの」

「ホヤの酢の物とホヤの佃煮でございます」

 健吾が返事をする前に店員が説明した。二つに分かれた小鉢の片方に青シソをあしらってある。自然に先刻の話題から離れた。

「ホヤって私食べたことがないです。どんな味なんですか」

 雪子の声は相変わらず小さくて、返事を聞き取るために健吾は身を乗り出して説明する。

「夏から今ぐらいが旬かな。今月いっぱいは食べられる。いわば磯くさい。雲丹とかカニ味噌とか好きだったら食べられますよ。生もぷりぷりしていてうまいけど、初心者は煮てある方が食べやすいかな。まず乾杯しよう。味見はそれから」

「私は好きよ。自分でも買ってきて食べるの。天ぷらが美味しい」

 三人はビールのジョッキを合わせた。

「椅子mの公演の成功を祝って」と健吾が言うと、二人も同調した。

 真由の飲みっぷりは良い。健吾も一口で半分開けた。のどが乾ききっていた。やっと個人的に会うことができた二人とうまく会話するためには、酒の力も必要だった。雪子も口を付ける。普通の顔で飲んでいる。健吾が勝手に抱いていた酒に弱いというイメージをすぐに訂正した。

 真由はホヤの酢の物を口にした。美味しそうに頷く。雪子もまねて少しだけ口にする。

「ほんと。磯の香りがする。私、雲丹は大好きだから大丈夫だわ」

 ひとしきりホヤの話題で盛り上がり、小鉢が空になったころ、刺身の盛り合わせと、剥いたシャコ、鴫焼きが運ばれてきた。

「今日は公演最終日ですよね。打ち上げとかしないんですか」

 真由はビールを飲み干すと自分でレモンサワーを頼んでいる。雪子はビールをお替りした。健吾は真由の質問に答えながら飲み物メニューを見ている。

「打ち上げをしていると思う。琴似のどこかで会うかもしれない。今回はこっちを優先させてもらった」

「いいんですか。仲間のところへ行かなくても」

「お二人と夕食を一緒にできる機会を逃すわけないでしょう。仲間とは飲む機会はあるし、縁の下役は打ち上げの感動もそんなでもないかも」

「そんなこと言っていいんですか。今夜、どこかでばったり会ったら告げ口しますよ」

 サンマの刺身が美味しいと真由が言う。雪子は「ちょっと」と言って席を外した。

「さっきのこと聞いていいですか。鬼の居ぬ間って姑さんと暮らしていてきつい思いしているということ?」

 待っていたように気になっていた雪子のことを聞いてみる。真由は、サワーを置くと健吾に顔を近づけてきた。

「内緒ですよ。酔って言うわけではないということもわかってね。雪ちゃんの家庭はちょっと問題ありなの。私、時々気分転換に引っ張り出してあげているんだけど。今回の観劇は、たまたま旦那さんの出張が重なっていたから連れて来られたの。ラッキーだった。夜のお出かけなんてしたことないはずよ」

「鬼って旦那なのか」

「そう。雪ちゃん、あけぼのが来ると、神村効果でいつもよりよくしゃべるし、とっても楽しそうで。神村さんだってまんざらでもないんでしょ」

「わかりますか? 正直に言うと、興味はあります。なんていうのかな。あけぼので一度旦那さんのことが話題に出た時、いきなり引かれちゃって。尋常じゃなかったから気になっていたんです」

 真由はうなずきながら手洗いの方を見る。

「雪ちゃんの幸せそうな笑顔が見られるなら私、また連れ出して3人で会う機会を作ってもいいわよ」

「鬼って殴るのか」

「早まらないで。雪ちゃんがもう戻るから、詳しくは言えないけど、旦那からモラハラを受けているみたいなの」

 雪子が手洗いから通路へ出てきていた。

「今回はほんと運が良かった。雪ちゃんと今夜はうーんと楽しむつもり」

「真由さん。私の話をしていたの?」

「そうよ。二人でとことん飲むからよろしくねって神村さんを口説いていたの」

「そんなに飲めないけれど。夜の街に来たのは独身以来だから楽しいわ」

 健吾は手洗いに立った。通路を離れ個室に入って用を足し終え、鏡をのぞく。雪子を喜ばせる能力があるような顔は映っていない。ただの中年男だ。公演準備で朝から出ずっぱりで、顎や頬には伸びたひげが汚らしく見えている。朝着替えたシャツもよれよれに見える。

 気を取り直し、両手で水をすくって顔を洗いペーパータオルで拭いた。心成ししゃんとしたか。モラハラとはなんだ。モラルハラスメントとかいうやつか。DVとは違うのか。旦那にいじめられているということか。健吾は子供時代にいじめにあったことはない。二人の娘もそんな悩みを抱えているとは元の妻から聞いていない。身近に経験知がないから、親身になれるかどうか自信がなかった。同じ家に住む者がなんでそんなことをするのかが、理解の外だった。

 一度、鏡の前で笑顔を作って、手洗いから出た。扉の外で男が待っていた。ぺこりと頭を下げて席へ戻った。


 田舎家から出た時、すでに10時を回っていた。ほろ酔いの真由がもう帰るという。

「子供を旦那のお母さんに預けて出てきたのよ。旦那は夕食を実家で食べて、子供たちを連れ帰ってくれていると思う。遅くても10時には帰るって言ってきたから」

「私も一緒に帰るわ」

 雪子が真由の腕をつかんで言う。

「私の場合は、いい子にして約束守らないと大きな顔して夜の外出ができなくなるから帰るの。雪ちゃんは、めったにない夜の自由を満喫してよ。神村さんなら安全だから」

 健吾は半笑いで二人の様子を見ていた。安全と言われても腹は立たなかった。雪子にはいくらか惹かれていたが、深く考えているわけではなかった。むしろ自由な夜を楽しく安心して過ごさせてやりたいぐらいには思っていた。

 真由ががタクシーを止めて乗り込むと、雪子は戸惑ったように健吾を見るが、いやそうな顔をしているわけではない。戸惑って居るが、不安な様子はない。健吾は「お任せを」と言って真由に手を振った。ドアがすっと閉じてタクシーは走り去った。

 二次会は想定していなかった。どこへ行くか何も考えていない。にぎやかな方がいいか。何回か行ったことがある近くのバル”月の雫”を思いつく。生バンドが入って賑やかな店だ。

「踊りに行きましょう」

「えっ。私踊れません」

「大丈夫。踊らなくても楽しめますから」

 健吾は雪子の背に手を当てて誘導するように南へ歩いた。わずかな距離だ。一階にも飲食店が何件か入ったビルの中に入り、すぐ脇の扉一枚の幅のエスカレーターの前に立った。

 一階に付いたエスカレーターから中高年の男性のグループが降りてきた。空になった箱はたばこのやにのようなにおいが染みついている。雪子と乗る。

 6階で扉が開くと、右は大きな窓。夜の琴似が見渡せる。左側はガラス戸があり中はネオンがいくつか瞬き、生の音楽がにぎやかに聞こえている。

「高井さん、大丈夫ですか」

 白い顔をした雪子が立ち止ったからだ。

「いえ。大丈夫。なんか」

 そういいながら健吾に続いて店のドアへ向かった。



 

 

 












”あけぼの”の成功は、開店と同時に移動販売を始めたのが幸いしたといえる。冷凍冷蔵庫を取り付けた小型トラックで、高級住宅街を中心に移動販売をしていたのは、平成23年の夏の終わりまでだ。

 移動販売で中央区、南区、西区、手稲区界隈まで店の名を広め、品質の良さを証明する、という役割は終了した。自然食品ブームや健康志向ブームが定着し、店舗の収入が安定したからだ。

 健吾は、59歳になっていた。移動販売を止め、店舗へ出勤するようになった。仕入れや業者との付き合いは、友人がしており、レジはバイトが、経理は友人の妻と公認会計士。仕入れに携わってはいたが、早朝の市場へは、すでに友人の息子が任されている。机上での電話注文ぐらいしか仕事がない。店の棚ざらえや補充などにも手を出したが、健吾がしなくても回るようになっていた。健吾の居場所はないも同然だった。

「ずっと移動販売で大変だったのですから、少しゆっくりしてください」

 友人の妻の口当たりの良い勧めで、健吾は二か月の休暇を取った。


 

雪子はまた笑った。久しぶりに声をだして笑ったと思った。修司は神経質な性格だったので、雪子は結婚生活の中でいつも緊張していた。失敗を極力恐れ、修司の帰宅時間が近くなると家中を点検した。これまでの田舎暮らしは雪子に向いていた。よそ者は、近所づきあいに深入りをしなくて済むし、修司のことあるごとの指摘に傷つく自分を癒す自然が豊富だったからだ。


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病葉  阿賀沢 周子 @asoh

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