病葉 1

阿賀沢 周子

第1話

2015年9月


 神村健吾は、北三条通り公園12丁目のスーパー銭湯側の歩道に立っていた。少し前から小雨は小糠雨もよいに変わった。ニセアカシヤの梢の合間から、わずかに見通せるサンライズマンションの7階の角の灯りがついた部屋を見ていた。

 白髪の混じった眉に降り溜まった水滴が健吾の細い鼻梁から剃り残した顎鬚へと伝う。古ぼけたトレンチコートの肩先にはぬれ跡が拡がり、撥水効果がないのが見て取れた。

「あの時、ドアを開けていたら雪子は死なずに済んだかもしれない」

 今朝、新聞のお悔み欄で高井雪子の名を見つけてから、健吾は何度となく呟いた言葉をまた声にした。吐く息が言葉にまつわりつく。


 新聞を握りしめて、通夜と告別式の場所と時間を頭に叩き込んだが、雪子だとしても足を向けるわけにはいかないのは承知していた。同姓同名の別人かもしれないと思い、雪子の親友で、同じくサンライズマンションに住む大滝真由に何度か電話を入れた。夜になってやっと通じた。

「神村さん、お元気でしたか。久し振りですね。"あけぼの"のトラックが来なくなってからもう何年になるかしら」

 真由の声は前と変わらず若々しく張りがあった。

「10年です。実は今日、高井さんと同じ名前の女性の訃報が新聞に載っていたもので、気になって」

「気になってって、雪子さんよそれは。逝っちゃったの。あっちに。今お通夜から帰ってきたところ」

 怒ったように話す真由だったが、声のトーンを落とした。叱られているような気になって、健吾は俯いた。

「なぜ」

「なぜって、話していいのかしら。雪ちゃんとはとうに縁を切ったのでしょう。電話で話せるようなことではないのよ」 

 5年ぶりの音信だったが、真由は小さく溜息をつきながらも雪子が自死したことだけは教えてくれた。会って話が聞きたいと食い下がると、真由は明日の告別式に参列するが、午後なら時間が取れるという。3人で行ったことがある時計台ビル地下のカフェで会うことにした。

「神村さんは今、どんなお仕事しているの?」

 週日なのに会うのは何時でも良いと話す健吾に、不審を抱いたのか真由の口調は少し懐疑的だった。。

「無職です。詳しいことは明日話します」

 電話を切った後、部屋でじっとしておれずアパートを出て、北3条公園へ向かったのだった。

 地下鉄円山駅近くのアパートの部屋を出る時から雨混じりで、玄関先にかかっていたコートをカッパ代わりに身に着けた。9月になったばかりだ、昼の暖かさは雨に冷やされて空気は澄んでいた。公園までは歩くと15分はかかる。脇見もせずにひたすら歩いた。12丁目に着いた時、急いだわけではないが息が上がっていた。


 公園へ入り、アジサイの叢に隠れるように立ち、ニセアカシヤの木越しに雪子の部屋へ顔を向けて30分は経っただろうか。髪は濡れそぼち体が冷え温かいものが欲しくなった。見えるのは明かりがついたマンションの窓、窓と自分の間の濃霧のような雨、風はないのに時々はらはらと黄色い葉を落とす大木。健吾は木を見上げた。夜空に広がる黒い葉むらから緑を失った小さな葉が落ちてきていた。病葉か。

 この辺の住民だろう、犬を連れた老人が、傘をさし公園の遊歩道を東からやってきた。近づくいてくると、健吾にむかってあからさまに訝る眼付を投げてきた。先刻、犬を連れてサンライズマンションから出てきた人物だと思いあたる。雨の中、犬も大変だなと思ったから覚えていたのだ。目線に追われるように公園を離れ、反対側の歩道へ立って雪子の部屋を見上げたが、木の陰に隠れて全く見えなくなった。立ち止まらず結局濡れねずみの姿で部屋へ戻った。

 アパートの住所は地下鉄駅の近くで便が良いから、あたりは高級志向のマンションや住宅が多い。その陰にひっそりと忘れられたように建っているアパート。古さ、サイズ、日当たりすべてを含め、いつ退居を申し出られても不思議ない不安定さにそぐうアパートだ。住んで28年になるが、一度も補修されていないぼろだったが、家賃のおかげだろう常に全室埋まっていた。二階の一番手前が健吾の部屋だ。踏み段が少しばかり手前に下がって不均衡な、錆び付いた階段を上がりドアの前に立つと、あの日の、こぼれ落ちた夢を思い出す。


 5年前、雪子はキャリーケースを引いてここまで来た。階段を上がる時、踏み段ごとにケースを置く音が部屋の中の健吾にも重く響いていた。わかっていたのに迎えに出なかった。


2000年7月


 神村健吾が友人と共同で、宮の森に自然食品や有機野菜などの専門店”あけぼの”を開店したのは平成にはいって間もなくだった。場所柄や住民層に恵まれ、店の売り上げは順調だった。友人とその妻が店番をし、買い付けや、移動販売は健吾の仕事だった。

 健吾は妻春子と一人娘の祐と、円山の中古マンションに住んでいたが、”あけぼの”立ち上げのために、勤めていた大手食品会社を辞めた時、春子との関係に亀裂がはいった。大きな会社の安定した収入を放り出す理由が理解できない、無責任だと責められ、取り敢えず別居することになった。春子は3歳の祐を連れて実家へ戻った。

 まだ若い健吾はサラリーマンで終わりたくなかった。妻の言うことは理解できるが、こだわりの食品に直接関わり、自分の力を試したいという情熱が勝った。

 理屈だけでは春子を説得することは出来なかった。確かに収入が半分になったのだ、春子の不安は最高潮だったろう。健吾のもともとの暢気な性格が災いして、不信感を抱かれたまま見放された。

 亀裂は、修復されないまま時が経ち、祐は幼く両親の不仲という記憶のないまま、祖父母に可愛がられて育っていった。会いたくて実家を訪ねていたのも小学生の高学年までで、思春期に入ると子どもが会いたがらなくなった。 

「お父さん。ダサいからいやだ」と祐が言っていると春子から聞いて、自分の格好を省みたものだ。ジーンズとポロシャツの何がダサいのかわからなかった。鼻筋や眉の形が自分に似ていて一緒に住んでいたころは父親っ子だったが、成長と不在が溝を深くしていった。

 初めの頃は収入が安定すれば、春子の怒りは解けるだろうと高を括っていた。収入のほとんどは家族への仕送りに回し、自分には暮らしに必要な最小限の金を残した。こぎれいな格好はしたくてもできないのもあった。

 健吾自身は、”あけぼの”の将来性を確固とするために全力投球をした。食にまつわる価値観が近い顧客との掛け合いが楽しかったし、サラリーマン時代のワイシャツとネクタイという縛りから解放されて、自分次第という仕事が気性に合い、顧客を獲得するという達成感は得難い経験だった。

 

 移動販売は曜日と時間ごとに場所を変えていた。北三条通り公園の12丁目には、毎週木曜日の午前11時ごろに寄るようになった。スピーカーホンで「円山の自然食品専門店”あけぼの”が来ましたよ」というテープを流すと、主婦たちが数人マンションや、民家から出てきた。

 ”あけぼの”の移動販売を始めた1995年当初は冷やかしが多く売れ行きは今一つだった。特に冬は車の駐車が不自由なことがあり、販売を休止せざるを得ない。春の再開時は、再び開拓精神をもって挑まなければならなかった。おのずと販売層が増えていく地域と撤退する地域が整理され、冬の営業が可能な場所も見つかり、軌道に乗ったのは2000年頃からだろう。

 中央区のこの地域は専業主婦が多い。大手のスーパーは離れた場所にあり、日常の買い出しは夫婦で週末にまとめ買いをするという若い夫婦が多かった。

 専業主婦の大滝真由と高井雪子が二人連れだって販売車に顔を出すようになったのは安定した移動販売ができるようになってからだ。

 ”あけぼの”が木曜日というのは喜ばれた。何かしら足りないものが出てくるころだからだ。北三条通り公園での販売は、”あけぼの”の品物の信用が高まるにつれ売れ行きも伸び、週末店舗の方に顔を出す客も現れた。

 信用を高めたのは健吾ひとりの力ではない。客の中に何人か、食の安全に拘っている客がいて、その口から、品物の良さや信頼が他の客へ伝わって行く、いわば口コミが功をなしたのだ。

 買う、買わないだけではなく、立ち話も重要で、その地域の客層や、経済観念、経済力、家族構成、全てが移動販売の品揃えに影響を与える。暢気でおおらかに見える神村の、軽い調子の奥で真剣な分析がされていた。


 雪子は、引っ越してきたばかりで子どもがいない、真由には男の子と女の子が一人ずついるというのも、立ち話で仕入れた情報だ。

移動販売を始めて5年目の7月末の水曜日、開店前に真由と雪子が買い物かごを下げてやってきた。

「急に家でママ友とランチすることになったの。あけぼのさん、何か簡単で美味しいお薦めのものってあります?」

 真由が本格的に買おうという姿勢でやって来たのは初めてだ。いつもはエプロン姿で、日光浴がてらお喋りをして小さな菓子の一袋や、無農薬の果物を1個、2個買っていく程度だった。

 雪子は梅干しやみそなどの調味料を買っていく。知っている製造会社で、此処のこれは美味しいのよと真由にすすめていることもある。見たことがあるものから買っていて、この頃は、健吾の勧める食品を買うようになっていた。

「大滝さん。ラッキーかも。簡単で美味しいものありますよ。かぼちゃのニョッキ、どうですか。このミートソースの缶使って」

 神村は冷凍庫のニョッキを指さして見せた。ミートソースの缶を真由の前に置き、ミニトマトと、胡瓜、ラデッシュを並べる。

「今朝のもぎたて無農薬野菜。少しいびつだけど味は間違いありません。ワンプレートにすると色合い、いいでしょ」

「凄い。あけぼのさん、センスいいですね。決まりです」

 ニョッキ一袋は量が少なめだった。健吾がジャガイモのもあるというと二袋を買った。

「助かったわ。メニューまで考えてもらって有難う。雪ちゃん、私仕込みあるからお先に失礼するわね」

 真由は買い物かごを下げて、雲一つない日差しの中、サンライズマンションのエントランスへ小走りで帰っていく。

「お料理頑張ってね」雪子が声をかけると小さく手を振って応えた。

 ほかに二人、13丁目の寺の前の民家の主婦と、14丁目の河合書房の奥さんが来ていた。河合書房の奥さんは、長い髪をポニーテールにしており、メガネを掛けて化粧っ気がない。学校の先生風で雪子たちと同年代だ。真由が買ったニョッキの食べ方を健吾に聞いている。

「思ったより簡単そうだから今夜うちの人に作ることにします」

 真由と同じように、付け合わせの野菜と、ソースの缶を買っている。もう一人もほとんど同じものを買い、河合が帰る時一緒に販売車を離れた。

 雪子は、この辺りでは今夜の換気扇から似たような匂いが噴き出るんだと思うとおかしくて一人で笑った。

「ニョッキ全部売れたのですか?」

「えっ?奥さんも今夜はニョッキにしますか。たしか一つ残っているはず」

「いいえ。いっぱい売れたな、と思って」

 雪子は、リンゴ酢と胡瓜を買った。

「夏は酢の物ですね」

 健吾は雪子が買ったものを袋に詰めながら、演劇は興味あるかと訊ねた。

「どうしてですか。あけぼのさんは演劇にも関係しているの?」

「いや、僕が個人的に応援している劇団があるんです」

「意外ですね」

「大学時代の仲間に誘われて、協力しているんです。9月に公演があるので、チケット任されてしまって。もしよければ2,3枚貰ってくれませんか」

「おいくらですか」

「お得意様は無料です。大滝さんや旦那様と一緒に来てください」

「うちの人はいかないと思います。そう言うの好きではないので」

 あっという間に雪子の表情が変化した。柔和な笑顔が緊張の塊のようにこわばった。健吾から受け取った袋を両手で握りしめて少しずつ後ずさりしている。

「高井さん。大丈夫ですか」

 健吾は、今の話の何が原因で雪子が顔色を変えたのかがわからなかったが、気分が悪いのはわかった。演劇の話が原因ではないだろう。真由に関係あるはずはない。旦那様か。

「まだ先の話なので、今度大滝さんと相談して、何枚か貰ってやって下さい」

 何気ない口ぶりに笑顔で言ってみる。雪子は少しの間に数メートル下がっていた。エントランスの自動ドアが開いた音で自分を取り戻したのか、頭を下げて小走りでマンションに入っていった。

 しばらくの間、雪子の緊張した顔や動作が頭を離れなかった。何回か話しているが、おとなし気で、優しい話し方をする落ち着いた女性だと思っていた。どちらかと言えば真由より雪子の方に心惹かれている。雪子のお陰で、調味料は売れ行きが伸びた事が関係しているわけではない。今日までは単純に、好みの女性だという程度だった。

 観劇に誘ったのも、お客さんの接待というほどのことでもない。女性たちと一緒に行けたら面白いなというくらいのものだった。

 販売車を片付けながら、雪子の尋常ではない変化に興味をひかれている自分が、お調子者のようで嫌だったが、旦那と何かあるか、という点だけは胸の奥底にしまい込んだ。

 想像が膨らんで、店舗に戻った時は、どうやって運転していたのか自覚がないままで、苦笑いして反省したほどだ。


2000年9月

 雪子と真由が座席にいるのを、舞台の裾から再度確認した。素人劇団”椅子m”の公演にやっと来てくれた。

 初日から座席をくまなく見るのが習慣になっていた。5日間の公演中、あと2日、あと1日と毎日数えた最終日だった。席数100ばかりの小さな会場の真ん中に並んで座っている。

 チケットを巡って雪子の意外な一面を見た次の販売の日、真由にも持ち掛けたのだ。真由は雪子と二人で行くと言ってくれた。会場は、琴似の地下鉄駅のあるビルの地下のホールで、札幌市内の大小様々な劇団の発表やピアノのコンサートなどに使われていた。

 9月になって、真由とは話せるのに雪子と公演の話はできなかった。総菜や調味料の話しかできずにいた。真由には「子供のことがあるからいつ行くとは言えない」と言われており、毎日、首を長くして客席を探すことになった。打ち上げの日だとしても、公演がはねた後、二人を夕食へ誘う心づもりでいた。


      

 

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