命の書と魂の書
小町は語る。なにがあって此処へ来たのか。
抑も此処の噂を小町に聞かせたのは、彩華だった。
日課の神社へのお参りを済ませたあと帰路につきながら、彩華は徐に切り出した。
死者に会える本を集めた不思議な図書館がある。其処には日本中、或いは世界中の死者の本ばかりが集まっていて、その本を開けば死者に会うことが出来る。
死んだ人などに会ってどうするのだろうかと、そのとき小町は思っていた。会えたところで、また共に生きていけるわけでなし。二度も別れる羽目になるだけではと。
けれど彩華は、笑って言った。
『でもあたしは、こまが会いに来てくれたらうれしいよ?』
彩華が小町につけたあだ名を愛らしい声に乗せて。屈託のない顔で。そんな寂しいことを言うのだ。
『彩が喜ぶなら会ってもいいけど……』
『ほんと? 絶対だよ!』
会うにしても寝たきりのおばあちゃんになっていたら難しいんじゃないかなんて、暢気なことを思っていた。
それに、そのとき小町は全く気付かなかったが、彩華は自分が会いに行く側になることを想定していなかったのだ。
その理由を、小町は翌日に思い知ることとなる。
『――――舞園彩華さんが亡くなった』
突然の訃報。
昨日まで他愛ない話をして笑いながら過ごしていたのに。
何故、どうして、死ぬようなことが。
納得出来ずに、小町が担任教師である加賀教諭へと詰め寄ると、加賀は辺りを憚る素振りをしてから、そっと耳打ちをした。
『ああ、里見は確か彼女と仲が良かったな。混乱するから周りには言わないでおいてほしいんだが、どうも彼女はストーカーに付き纏われていたらしいんだ』
混乱する小町の耳に、加賀の仄暗い声が響く。
頭を殴られたような衝撃がして、放課後の校舎を賑わせる生徒たちの声が、ひどく遠い世界の音に聞こえた。
『……なに、それ……どうして……』
ストーカーに悩まされていたなんて、知らなかった。
友達だと思っていたのに。なにも聞かされてなかった。
そう思いかけて、ふと気付く。
昨日の不思議な図書館の話は、彼女なりの精一杯のSOSだったのではないかと。不審者につけ回されていて、いつ見張られているとも知れないときに「ストーカーに悩んでいる」やら「変な人に付き纏われている」などと直接的な言葉を口にしたら、その場で襲いかかられるかもと危惧した可能性はないか。
そう思い至ったとき、小町の心を深い絶望が支配した。
同日夜のネットニュースで彩華の死が触れられていた。毎日お参りしている神社の石段から落下し、首の骨を折って死亡したと報じられていた。
お参りなら、あの日もいつも通り一緒にしたのに。どうして改めて向かったのかもわからなかった。
「私が気付いてあげられなかったから……だから彩は……」
俯き啜り泣く声だけが、図書館の空気に染み込んでいく。
小町は暫く泣き続け、最後に一つ大きな溜息を吐くと、漸く顔を上げた。
「すみません……いきなり身の上話なんて始めて……」
「いえ」
聞かれたのは名前だけだったのに、唐突に泣き出すわ自分語りをし始めるわでさぞ迷惑をかけただろうと思って言えば、白菊は相変わらず穏やかな微笑を浮かべたままだった。
「少しでもお客様のお心が楽になるのなら、いくらでもお話くださって構いません。紅茶もどうぞ。気が休まりますよ」
「はい……」
少しぬるくなった紅茶を飲み、ホッと息を吐く。
沈黙が流れる中、コツリと靴音が舞い込んできて、小町はふと顔を上げた。
音のしたほうを見れば、黒服に身を包んだ背の高い男性がいた。
やわらかい印象を受ける白菊に対し、黒服の男性は、鋭利で静かな雰囲気がある。上背は白菊よりも十センチ前後高く、肩幅もある。短く切り揃えられた髪も、一切の光を通さない闇のような瞳も、余分な皺のないブラックスーツも。全てに隙がない。
「ありがとう、黒藤」
黒服の男性は無言のまま白菊に一冊の本を渡すと、小町に一瞥をくれてなにを言うこともなく立ち去った。
小町の目の前に、黒いハードカバーの重厚な本が置かれる。表題らしき文字は金の箔押し。手触りはエンボス風の加工がされているのか、それともそういう素材なのか細かな凹凸を感じる。
タイトル部分に書かれている名前を見て、小町は無意識に唾を飲んだ。
「舞園彩華……」
著者名ではなく題名として、人の名前が書かれている。しかも、こんなにも立派な装丁の本に。これが歴史に名を残すほどの著名人なら、まだわかる。けれど彩華は、一般人だ。芸能人と見紛うほどの美少女ではあったが。
「あの……此処には亡くなった人の本が集まるんですか?」
「いえ、少し違います」
白菊はそう答えてから、小町の背後に並ぶ書棚へと視線をやった。本のことを語るときの、白菊の癖なのだろうか。
「此処には、全ての人の本があります。黒い表紙が命の書。そして、白い表紙が魂の書です。死者のみが持ちうるのは、魂の書のほうですね」
「白い表紙の本もあるんですか? それなら、どうしてこっちが死んだ人に会える本なんですか?」
「それは、本の性質が違うためですよ」
白菊は小町の前に鎮座する本を見、静かに語る。
「命の書は、その人が生まれてから死ぬまでを記したもの。魂の書は、死後のことが綴られるものです」
「死後……って、死後の世界でのこと、とか……?」
「いいえ」
曰く。魂の書とは、その人が残したものが綴られる本。
何月何日に葬儀が行われた。家族の誰それが、故人を想って涙を流した。或いは、凄惨な事故や事件で亡くなった場合は、献花台にたくさんの人が訪れた。芸能人なら特別追悼番組が組まれた。
そういった、死後その人に関わる出来事が綴られていくのだそう。
「ですので、ご本人の情報そのものは命の書のほうに綴じられているのですよ」
「そう、なんですね……」
改めて、小町は彩華の本を見下ろしてみた。厳かな仕草で手に取り、表紙をじっと見つめる。思い返せばこの図書館に入ったときに見えた書棚は、鍵盤のように白黒の本が詰まっていたように思う。
「それで、ええと……どうすればいいんですか?」
「本を手に取り、あなたの心を真実のまま語ってください。故人に伝えたい想いを、真っ直ぐに綴るのです」
「……わかりました」
両手で本を拾い上げて、厳かに目の前に構える。黒い表紙に金の箔押しで刻まれた名前を見つめ、小さく息を吸った。
「彩華……会いに来たよ。約束したでしょ? 彩の言ってたこと、わたし、全然重く考えてなかった……こんなに早く約束を果たすことになるなんて……彩がどんな目に遭ってたかなんて、わたし、想像もしてなかった……っ」
涙が頬を伝い、制服のスカートに落ちる。
ふわりとどこからともなく優しい風が吹いて、小町の涙を拭った。顔を上げれば、カウンター席の隣に淡い光を纏った親友が困ったような笑みを浮かべて座っていた。まるで、一緒に喫茶店へ来たかのような仕草で其処にいるのを見て、小町は更に涙を溢れさせた。
「彩ぁ……」
「こま、泣きすぎ」
笑って言いながら、彩華が指先で涙を拭う仕草をする。
淡い光が弾けて、現実と夢が混じり合って見える。
「会いに来てくれてありがと。約束、守ってくれたんだ」
「あ……当たり前じゃない……でも、でも……ほんとにこんな早くなるなんて思ってなかったんだから……!」
「うん……あたしも、死ぬつもりなんかなかったんだけどね。アイツが思ってたよりクズだったみたいでさ」
彩華は、怒りと悔しさを滲ませた顔でそう強く吐き捨てた。小町もこれほど激しい感情を露わにするところは滅多に見たことがなく、思わず面食らった。
「彩……」
「……ごめん。こまに怒ってるわけじゃないから」
そう言いつつも、彩華の表情は依然険しいままだ。薄い唇を強く噛みしめている。もし生きていたなら、血が滲んでいただろうほどに。
「こま。いまからあたしが言うこと、信じてくれる?」
いつになく真剣な表情で問われ、小町はこくりと頷いた。
そして――――彩華の口から語られた真実に、小町は言葉をなくして呆然と彩華を見つめた。
「……それ、ほ、本当、なんだよね……? あっ、えっと……彩の言葉を疑ってるんじゃなくて……なんて言うか……」
「わかるよ。あたしも逆の立場だったらそう思ったし」
けれど、彩華は小町に「冗談だよ」とは言わなかった。
彩華の言葉が、頭の中で何度も反響する。鐘の中に閉じ込められて、思い切り打ち鳴らされたような気分だ。目眩のような、意識がフッと遠くなる感覚がして、小さく首を振る。
「信じるよ。彩のいうこと。だって疑う理由なんてないもん。……本当、もっと早く気付いてあげられたら良かった……」
後悔でただ落涙する小町の手を、彩華の両手が包む。
「いまからでも出来ることはあるよ。……ねえ、こま。あたしの最期の願い、叶えてくれない?」
小町は力強い眼差しで彩華を見つめ、頷いた。
それからは、退館の時間が来るまで、別れを惜しむように、夕陽に染まる放課後の教室で帰り難く残り続けたあの日のように、思い出を語り合った。
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