第4話

 その1週間は連日天気が悪くほぼ毎日雨が降っていた。その関係かお客様の数も少なく、幸いなことに資料作成に時間を割くことができた。念のため林さんに確認したところ、吉野さんたらおしゃべりね(笑)などと笑いながら、やはり朝艶の担当が私であることが正式に伝えられたのだ。

 雨のおかげでメンバーたちも社内にいることが多かったため資料作成のためのヒアリング等にも協力してもらうことができた。自分のしている業務を客観的に見てまとめていくのは意外と大変な作業だったが、自分のしていることを改めて整理することができて良い機会となったかもしれない。

 金曜日の夜になんとか準備を終えることができた。これで来週からの迎え入れ体制は整ったと言えるだろう。天気とは対照的に少し晴れやかな気持ちで帰路に就けそうだ。

 パソコンの電源を落として、ジャケットを羽織ろうと立ち上がった時だった。


「安岡さん、すいません。」


 振り返ると、遊佐さんがすっと立っていた。


「お疲れ様です。」

「お疲れ様です。安岡さん、この後予定とかありますか?」

「いえ、特にはないですけど。」


 こういうとき、本当に予定がないので言い訳のようなものは当然用意されていない。加えて、遊佐さんからこのような形で話しかけられることは滅多にないことだ。いや、初めてのことかもしれない。


「もし、良かったら場所を変えて少しお話しできませんか?」

「え、あ、はい。大丈夫です。」

「ありがとうございます。すぐに支度をしますので、少しだけお待ちください。」


 そう言うと、遊佐さんは自席の方へ戻り帰り支度を始めたのだった。

 それから遊佐さんと会社を出て、駅の近くの個室居酒屋に入ったのだった。


「すいません、突然物々しい雰囲気でお声がけしてしまって。」

「いえいえ、遊佐さんとこうした場面は初めてだったので少々構えましたが(笑)。」

「私もどう話しかけようか悩んだのですが、変に絡みにいくのもと思い、平常運転で話しかけさせてもらいました。」


 あれが平常運転だったのか、と少し首をかしげたくなった。遊佐さんは意外といつもの人当たりの良い雰囲気は創り出したものであって、平常運転のときは静かで少し鋭い感じの方なのかもしれない。


「いえいえ、とりあえず、何かオーダーしますか。」

「そうですね、何をお飲みになります?」

「まぁ、居酒屋ですし、ビールで。」

「ビール二つっと。」


 遊佐さんはいつの間にか注文用のタブレットを手にしており、ポチポチと入力を始めた。別の課とは言え、上司にオーダーをさせてしまうだなんて、遊佐さんの顔色をちらりと窺ったが特に何も思ってなさそうだった。

 初動のオーダーを済ませると、即座にビールとお通しのきんぴらごぼうが運ばれてきた。せめてもの罪滅ぼしということで、おしぼりを遊佐さんに手渡した。遊佐さんは彼にお礼を言いながらおしぼりで手を拭いて、机の上に置き直した。

 そして、お互いにビールを手にしたのだった。


「1週間お疲れ様でした。」

「お疲れ様でした。」


 非常に珍しい2人組で静かに乾杯がなされた。


「遊佐さんとこうして2人きりで飲むのって初めてですよね。」

「そうですね。確か10年前くらいにお昼を食べに一緒に出たことはありましたね。あれもたしかたまたまタイミングが重なったというような感じだったかと思いますけど。」


 私は遊佐さんと2人で昼を食べに出たことなどすっかり忘れていたし、その話をされても全く思い出せなかった。


「そんなこともありましたね。」


 大して覚えていないが、遊佐さんが間違っているとも思えなかったので軽率に同意してしまった。


「ところ、お話とは…」


 小心者な私としては何か悪い話ではないかと実は気になっていたのだった。


「朝艶くんのことです。」


 遊佐さんはさらりと、それでいてはっきりとそう言った。私はその一言を聞いたとき、どきっと自分の心臓が跳ねるのを感じた。


「朝艶くんが…。」

「来週から朝艶くんが2課に行くことになってますよね。吉野さんから聞いたのですが、その担当が安岡さんだとか。」


 この会社で吉野さんの耳に入ったことは須らく全社周知されるようだ。


「はい。その予定です。それで…」

「私の記憶する範囲では8年ぶりの新卒ですし、それだけでも目新しい。」


 8年ぶりだったのか。遊佐さんは本当になんでもしっかりと把握している。


「なので、しっかり大切にしていきたいというのが会社の考えでしょうし、そのために情報共有をしておきたいと思いまして。」

「あ、そういうことですね。びっくりしました。もう辞めたいとかそういう話なのかと。」

「今のところ彼からそういった話は出ていません。」

「良かった。」

「しかし気になる点はいくつかあります。」

「え。」

「もちろん、退職に絡むような話ではないのですが。」


 遊佐さんはそう言いながらもどこか表情に曇りがあるような気がした。


「安岡さん、朝艶くんの入社についてご存知でしたか?」

「あ、いやそれについては全然。」

「私も彼の入社については何も聞かされていませんでした。」


 これについては正直驚きだった。そもそも人数が少ない会社で誰も把握していないというのも不思議な話だが、それでも役職者以上にはなんらかの連絡があってもいいはずだ。そして、人事の吉野さんがこうした情報を秘匿し続けられるはずもない。


「加えて、選考をしたというような話も聞いていません。なんならそもそも新卒の募集をかけていたころすら把握していませんでした。」

「遊佐さんにも全く話がないなんて。」

「実はごくまれにある中途選考の話なんかは私のもとにすぐ来るんですよ。そもそも、書類選考の場なんかは役職者以上であたっていることが多いですし。」

「そうなんですね。」


 ここ数年での中途入社者は主に派遣のスタッフの方ばかりだったように思う。


「でも、朝艶くんの話は全くなかった。すべて社長の独断によるもの…かどうかも実際のところは分かっていません。吉野さんに少し探りを入れてみたのですが、それも空振りで。というより、吉野さんも知らなかったような印象すら感じます。」

「はぁ…でも、特に人間性に問題があるとかそういうのは個人的には感じないですけどね。」

「それは私も同感です。彼はとても快活で、それでいて礼節もほどほどにしっかりしています。個人的にはとても営業向きだと思っていて、彼が望むのであれば1課での受け入れについては前向きです。」


 遊佐さんは1週間の受け入れでそこまで考えているのか。であれば、朝艶はかなり好印象を与えたということだろう。


「ただ…」


 遊佐さんは含みを持たせてぽつりと呟いた。

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あさきゆめみし 寛ぎ鯛 @kutsurogi_bream

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