第3話

 月曜日の朝、週末の良い天気は嘘のように朝から曇天となった。妙に強く生暖かい風が吹いており、間もなく雨が降り出しそうだった。私は傘を手にマンションのエレベーターを降りた。きっとこの雨で多くの桜が散ってしまうんだろうな、そんな少し寂しい気持ちを抱いていた。

 マンションの入り口を出てから、会社への道は角を3回曲がる程度の単純な道だった。唯一、往路が一部緩やかな坂道になっているのが夏場は厄介であった。今はまだ汗をかいたりする心配はないので大丈夫だが、これが平坦だったらと何度思ったことだろう。むしろもっと痩せて健康的であればこんな坂道なんの問題もないのかもしれない。そう思っているうちに件の坂道までやってきた。

 この坂道の上には小さな郵便局がある。いつも私の中でゴール地点と位置付けられている郵便局だ。大きな郵便局ではないためいつも営業時間と私の時間が合わず、行き帰りで表の扉が開いているのは見たことがない。会社で発生した郵便物も私の場合は専ら近くの郵便ポストへ投函で済ませてしまっている。郵便切手や収入印紙の類は事務の小城(おぎ)さんが補充してくれているのを知ってはいるが、この郵便局に来ているかは不明だ。ちょうど会社からこの郵便局と同じ距離感で夜まで営業している大きな郵便局もあるのだ。私も不在票での受け取りなどはその大きな郵便局で行っているため、この小さな郵便局は坂道の終わりを告げてくれるだけの存在なのであった。

 郵便局を過ぎて数分が経過した頃、空からぽつりぽつりと雨粒が落ち始めた。そして間もなく、雨粒の数は増え、しっかりと雨が降り始めた。持っていた傘をばさっと広げる。やれやれ会社に着くまでは耐えてくれると思ったんだけどな。予想が外れたが、持参した傘のおかげで大事には至らなかった。

 会社にはだいたい始業の30分前くらいには到着するようにしている。別にそういう決まりがあったり、そうしたことを強制されているわけでもないが、個人的にそう決めているのだ。今となっては基本的に平日はその行動で固定化されている関係で、何も意図せずとも8時半には会社に到着する。

 会社に着くと、そのまま自分のデスクに向かい鞄を脇の鞄置きにそっと置く。そして、ポットに水を入れて電源コードを繋ぐ。これはこの後インスタントコーヒーを入れるためだ。ポットは私よりも先に会社に到着して気が付いた者がセットしてくれている場合もあるが、基本的に私がセットしていることが多いように思う。帰りは誰かが気を利かせてお湯を捨てておいてくれるので、当番性ではないものの自然とON/OFFが保たれている。

 お湯が沸くまでには少し時間が必要なので、その間にPCを起動する。ついこの間リース期間を満了し、新しいものに交換されたばかりだ。そうこうしていると徐々に会社も人が増えてにぎやかになってくる。人が増えると言っても、合計で15人程度の小規模な会社だ。たかが知れている。だが、この1週間は朝に人一倍元気な挨拶をする者のおかげで朝がより一層にぎやかに感じるのであった。

 

「先週1週間は人事の方で会社のこととかいろいろ教えていただいてね。今週からはフロントの方に合流してもらった、仕事を紹介しつつ教えてあげてください。えっと、じゃあ、そうね。今週1週間は遊佐(ゆさ)くんのところにお願いする予定になってたから、朝艶くんをお願いします。」


 社長がそう言うと、遊佐さんが「私が遊佐です」という感じにさっと手を挙げて朝艶の注意を引いた。なるほど、朝艶くんはまずは模範的な社員の遊佐さんが面倒を見るのか、と最適解のようなものを感じた。

 私の勤めている会社は乱暴にまとめると不動産屋である。この名称による分け方が正しいのかもやや疑問が残るところではあるが、遊佐さんが率いるのが営業1課、林(はやし)さんが率いるのが私の所属する営業2課である。営業1課は主に法人営業やルート営業を担当しており、顧客も法人が多く、取り扱いの金額も大きい。一方で私の所属する営業2課は個人営業がメインである。一般的に賃貸物件を探すために不動産屋を訪れた際に案内してくれる人たちの課だと理解してもらうのが一番手っ取り早いだろう。


「来週はうちの課に来るからね。」


 林さんが私に小声でそう言った。1週間でいろいろと見学して回る予定のようだ。といっても営業1課と営業2課のほかには、人事や事務関係をひとまとめにしたサポート課があるだけだ。新卒の新入社員がいきなりサポート課に回ることはないだろうから、おそらく営業1課か2課のどちらかに配属がされるのだろう。

 遊佐さんがまず関与するなら、きっと朝艶も1課に行きたいと思うだろうな。それほどに遊佐さんは仕事のできる男であり、人当たりも良い。営業先からの評判も高く、それでいて嫌味がまったくない。冗談も飛ばしてくれるし、常に周囲に気を配ってくれている。年齢は私の4つ上であり、男の子と女の子が1人ずついるお父さんでもある。

 社会人一発目から遊佐さんを手本にできるなんて朝艶は幸運だなと思った。そう思うと同時にどこか寂しさにも似た感情が一瞬よぎったような気がした。しかし、あまりに一瞬だったため、その存在にすら気づかず業務は開始したのであった。


「では、これからこちらとこちらの物件を実際に見に行ってみましょう。」


 私はそう言うと、物件の情報をファイルに入れ、管理会社へと電話をかけた。4月も2週目に差し掛かると個人の物件探しは途端に落ち着く。それでも私だけで1日数件は対応が求められるほどに問い合わせはある。地域密着型を売りにしている関係か、この地域の不動産屋であればここという一定の市民権を得ているようだ。

 幸いなことにこれから訪問予定の1つ目の物件は現況空室であり、鍵も物件に設置されているタイプのようだ。加えて、会社から歩いてすぐのところだった。

 あいにく雨はまだ降っていたが、お客様を連れて外に出た。世間話にも似た地域の紹介をしながら物件を目指す。少し距離がある場合は社用車を利用したり、人によっては会社で用意している自転車で回るなんてこともある。お客様用の自転車は電動だが、我々社員の使う自転車はそうではない。そのためなかなかに修羅の道なのである。

 1つ目の物件に到着し、管理会社に聞いた場所に置かれているボックスのキーを回す。そうすると、物件紹介用のマスターキーが中に入っているのだ。管理会社によってはすごく簡易な箱に鍵をかけているだけの場合もあったりして、物理的に破壊されかねないとも思うのだが、それについて我々が口出しをすることは特にない。何か業界の中に不文律のようなものがあるのかもしれない。

 見学する部屋を開錠し、持参したスリッパを用意する。そして、一緒に部屋を見て回るのだった。今回のお客様は少し時期がずれて、来月からこちらに単身赴任予定の男性で、今日は物件を見学後に異動予定先に挨拶に行くのだそうだ。会社からの補助もあるとのことで、一人暮らしとしてはやや広めな物件をお探しということであった。

 今見に来ているのはアパートタイプの物件であり、次に見に行くのはマンションタイプの物件であった。お客様に自由に中を確認いただいている間に私は2つ目の物件の管理会社へ電話をした。先ほど会社で電話をしたときは担当者が別件対応中とかでつながらなかった。次こそ出てくれと思いながら、なかなか途切れないコール音に願った。


「はいはい、浅沼管理(あさぬまかんり)の時田(ときた)です~。」

「あ、時田さん~、お世話になってますTOKU不動産の安岡です。」

「あ、安岡さん!お世話になってます。いかがされましたか~?」


 先ほど電話した件についてまだ引き継ぎされてなかったのかという点はさておいて、馴染みの担当者の時田さんに電話が繋がってほっと一安心だ。軽い世間話の後に管理者コードを教えてもらいマンションへの入室の手はずも整った。

 外はなお雨が強く降っていたが、少し晴れやかな気持ちのまま次の物件へとお客様を連れて向うのだった。


 無事にお客様との物件見学を終えて、見積書を発行し、説明の後、お見送りをした。その場で即決とはいかなかったものの、会社の担当部署に見積書を提示して一応の確認をとってから申し込むとのことだったので、ほぼ確定なのだろう。我ながら2件目のマンションはセキュリティ面、間取り、設備面となかなかに上等なものだった。それでいて家賃は比較的良心的だった。確認が取れたら早めに連絡をもらうように言っておいたし、今日中に連絡がくれば問題ないだろう。この辺りは早い者勝ちだったりするので、意外と冷や冷やするポイントでもある。


「安岡さん、お疲れさま~。安岡さんって、意外と面倒見良いのね!」

「お疲れ様です。ん?何のことですか?」


 突然吉野さんが話しかけてきた。先ほどのお客様対応のことを言われているのだろうか。特段何か目新しい対応をしたような記憶もなかったのだが。


「違う違う。朝艶くんのことよ。安岡さん、酔い潰れてた朝艶くんを家まで送って介抱してあげてたんでしょ。」


 確かに私は酔った朝艶を自宅まで見送りはしたが、朝艶は潰れてはいなかったし、介抱と言える介抱を私は施した覚えはない。勝手にグラスに水を注いで飲むように促したのが関の山だ。


「いや、別に介抱なんて。そんな大したことしてないですよ。朝艶くんも酔ってはいましたけど、潰れてはなかったし。」

「そうなの?でも、朝艶くん、とっても感謝していたわよ。朝艶くんって実はお酒があんまり強くないんですって。でも、歓迎会を開いてもらった手前断れずいっぱい飲んじゃってふらふらになってたって。」

「そうなんですか。普通に元気そうに見えましたけどね。」

「そこはやっぱりラグビー?サッカー?アメフト?の力じゃないかしらね!」

「でもまたなんで吉野さんがそんなことを。」

「さっき安岡さんが外に出た後に、遊佐さんたちの班が先週の花見会の感想を軽く訊いてたのよ。それの流れで安岡さんの話が出たのを私がたまたまキャッチしたってわけ(笑)。」


 即座にたまたまキャッチしたわけではないことを察した。吉野さんはこの会社でも古株で社内の情報通である。ただでさえ人数が少ない会社なので、秘密が保てる環境でもないのだが、吉野さんの情報はプライベート面までも網羅していることが多い。それだけ彼女は話しやすタイプの女性であり、今回のように彼女の方からざっくばらんに話しかけてくれることが多いのだ。

 自分のした行いを前向きに褒めてもらえるのは気恥ずかしいところもあるが嬉しいものだ。知らない尾ひれはついているがとりあえずは見過ごすことにしたのだった。


「そういえば、今は遊佐さんたちの姿は見えないですけど。」

「遊佐さんさっそく午後からお客さんのところへ朝艶くんを連れて挨拶に行くんだそうで。安岡さんが戻ってくるのと入れ違いくらいに出て行ったわよ。ついでにお昼でもっていう感じかしらね。」

「はぁ~、さすが遊佐さんはいろいろ早いですね。」

「どちらにせよ年度替わりで先方の担当も変わったりしてるかもしれないから行く予定ではあったらしいわね。置いていくわけにもいかないから連れて行ったっていうのもあるんじゃないかしら。」

「なるほど。遊佐さんのそういう細やかなところが受け継がれるといいかもしれないですね。」

「そうね~、だけど来週は2課の番なんだから、他人事じゃないのよ!」

「そうでしたね。きっと林さんが上手いことやってくれるでしょうね。」

「え?」

「え?」

「あれ聞いてないの?朝艶くんの面倒を見るのは安岡さんよ。」

「え、何も聞いてないですよ。」

「あら(笑)もしかして秘密だったかしら。余計なこと言っちゃったかも。ま、じゃあ人事からの伝達ってことで(笑)。」

「えええ。私が朝艶くんの面倒を?」

「いいじゃない。介抱までしてあげたんだから、仕事の面倒だってお世話してあげなさい。朝艶くんだって安岡さんに懐いてるみたいだし。」

「そんなに密に話したりはしてないですよ。」

「だめよ。上司の決定でもあり、人事の決定でもあります(笑)。」


 思わぬ角度から思わぬ指示を聞いてしまった。まさか、自分の課の方針まで把握しているとはさすが吉野さん。それより、そんな重大なことがあるならもっと早くに伝達してくれよ林さん。

 そう思うと、緊張からか責任感からか少しだけ鼓動が早くなるのを感じた。来週のスケジュールを確認し来客予約を確認する。既に何件か予定が入っている。

 これに帯同してもらう感じで教えるって感じでいいのかな。自分が教えてもらったときはどうだったかなと過去の記憶を遡る。私が入社したときは部長の仙崎(せんざき)さんが教えてくれたのだった。私の課にいるメンバーは4人なのだが、私以外のメンバーで林さんはさておき、残り2人については林さんが教育を担当していたため、今回こういう場面を私が担当するのは初めてのことだ。

 先崎さんとの在りし日を思い出すが、さすがに20年も経つとシステムも変わっているし、そもそもの運用みたいなものもだいぶ変わっている。やるからにはしっかりしたものを伝えてあげたい。遊佐さんみたいにはできなくても、2課もちゃんとしているということを伝えないとメンバーにも申し訳ない。

 やはりそうした責任感からか鼓動はますます早くなるのだった。

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