第2話
普段と変わらぬ土曜日の朝を迎えた。さすがに昨晩はいつもより酔っていたようだ。やや体に残る酒を感じながら、いつにも増して重い体を起こす。そしてすぐに昨夜のことを思い出した。記憶がなくなるほど酔ってはいない。だから、はっきり覚えている。
あの後、私は朝艶を連れて会社の倉庫に戻り、ブルーシートやその他の備品もまとめて片づけた。その間、朝艶は何かあてもなく喋っていたが、酔いが回っていたためそばのベンチに座らせていた。片付けが終わり、朝艶にも帰宅を促したところ、少々一人にするのが不安な酔いの回り方だったため、しょうがなく朝艶が一人暮らしをするアパートまで見送ったのだった。幸いなことに私の自宅と会社までの間に朝艶のアパートはあり、少しだけ遠回りをする程度の道程で済む見送りだった。
朝艶の部屋は1階にあり開錠を促して、朝艶を部屋に半ば押し込むように入らせた。引っ越してきたてというような生活感のない家で、未開封の段ボールのそばに敷布団が敷かれていた。
「安岡さん~、なんで俺の家に~?」
「朝艶くんがヘベレケで危ないから見送ったんだよ。」
「そんな~、ご迷惑をおかけしてすいません~今、お茶でも。」
「いいから、いいから。スーツ着たまま寝たらしわになるぞ。ちゃんと着替えて。」
「ありがとうございます~。じゃあ。」
少し目を離して振り返ると朝艶はスーツに加えてシャツまで脱いで下着姿になっていた。ここは体育会系出身者ということだろうが、そういう姿を人に見られることになんの抵抗感もないのかもしれない。一方の私は、同性でありながらもそうした付き合いのようなものが全くと言っていいほどなかったため少々面食らってしまった。
「ってもう脱いでたのか。」
「服脱ぐのは得意なんです~。」
「なんだそりゃ。」
なぜ自分自身が動揺しているのか私にもわからなかったが、食器棚に置かれたグラスに勝手に水を注いだ。
「ほら、ちゃんと水を飲んどかないとこれからしんどくなるぞ。」
「ありがとうございます~。安岡さんっていつも優しいですね~。
「ほっといて道端で居眠りなんてされちゃあ困るからな(笑)。春とは言え、夜は寒いしな。」
「俺はもうパンツ一丁で寝てますけどね~」
「風邪引くぞ!」
朝艶は私がグラスを手渡すと、ぺこりとお辞儀をしてゴクゴクと一気に水を飲み干した。そうか、普段は上の肌着も脱いで寝るのか、などと私はよくわからないことをふと考えた。私がいるからそこは遠慮してちゃんと服を着たままにしてくれてたんだなと体育会系出身者ならではの気遣いを感じていた。
家にも届けたし、水も飲ませたし私の任務は完了だろう。
「じゃあ、帰るからちゃんと戸締りするんだぞ。」
私はそう朝艶に声をかけ、廊下を玄関の方へ向かった。玄関扉の前で、先ほど脱いだばかりの靴に足を入れ、かかとの部分を抑えようとしゃがもうとしたとき、後ろから大きな何かに包まれるような感触が全身を覆った。
「今日はありがとうございました~。えへへ~。」
「ぬわ!びっくりした!酔いすぎだ(笑)!」
「ありがとうございました~」
朝艶は私を後ろから抱擁しお礼を言った。体はすぐに離れ、振り返ると酔いのせいかなお顔の赤い朝艶がにこにこへらへらしていた。これが体育会系出身者の距離感の近さなのだろうか、別れ際のハグとか外国じゃよくあるみたいだし、最近はそういうのも若者の中で浸透しているのだろうか、そんなことを思いながら靴を履き直し、ちゃんと戸締りをするように再度促してから部屋の外に出た。
部屋の扉をゆっくりと締め、アパートの外へ向かって廊下を歩きだしたところ、かちゃりと内鍵をしっかり閉める音が聞こえた。よし、これでひとまずの任務は完了だなと思いながら、敷地の外へ出た。
やはり気温は下がっており、肌寒かった。頬を撫でる春の夜風が妙に冷たい。私はその時、自分の心臓がかなり大きく脈打っていることに気が付いた。突然後ろから抱擁されて驚いたのがなお残っているようだった。我ながら小心者だなと思いながら、私は昨晩家路に着いたのだった。
そんな昨晩の出来事を思い出すとまた胸のあたりにじわっと得も言われぬ感覚が広がった。そんなに驚異的な体験だったのだろうか。自分でも形容しがたい状態を振り払うように私は立ち上がりカーテンを開けた。まぶしい陽光が部屋に差し込んだ。今日も良い天気だ。
私は未婚ではあるが一人暮らしをしている。特段実家が遠方という事情もない。なんなら10年ほど前までは実家から会社に通勤していた。しかし、片道1時間ほどの満員電車や、会社が新設した軽微な家賃補助制度、そして妹の結婚という様々な要因が相まって実家を出ることにしたのであった。その結果、今では会社まで片道徒歩15分ほどという便利なところに居を構えている。妹の結婚については、私の早とちりな部分もあり、てっきり実家に引っ越してくるものと思いきや、別で新居を構えたということで、今では実家には高齢の両親と、母が9年前に友人から譲り受けた「ルン」という名前の中型犬が住んでいる。幸いなことに両親は健康で、父は毎日ルンと散歩に出かけているようだ。
妹家族も実家から近いところに住んでおり、私も帰ろうと思えばすぐに帰られる距離にいる。そのため盆や正月に限らず、よく実家には帰っているので、双方に特段心配はないようだ。最初、ルンを迎え入れたときは、息子ながらに両親に寂しい思いをさせていたのではないかと思った部分もあったが、ルンが来てからは両親のルンに対する溺愛ぶりを目の当たりにして、それは杞憂に終わった。今でも、覚えたてのスマホを用いてメッセージアプリにルンの写真が送られてくる。カメラを制御できていないのか、ルンを制御できていないのかは不明だが、いつもたいていぶれている写真な点には目をつぶっている。
さて、今日は天気も良いので洗濯をしよう。そう思い、洗濯カゴの中に積まれた1週間分の服を洗濯機に放り込んだ。世間一般の一人暮らしの人々は洗濯についてどのタイミングで行っているのだろうか、この疑問はいつも土曜日の朝にわく疑問の1つだ。やはり週中で1回は洗濯機を回しておいた方がいいのではないか、この回答もいつもわいてくる。月曜日に脱いだ衣服と金曜日に脱いだ衣服では放置期間に開きがあるので、その間に雑菌等がカゴの中で増殖しているのではないかという問題なのだが、結果的に洗濯機内で洗剤により滅菌されているという認識でいる。そのため、洗ってしまえば問題ないという非常に自分に都合の良い解釈でこの問題を解決させているのだが、毎週同じ疑問を抱くということは、どこかその強引な解決策に疑念があり、納得していない部分もあるのだろう。今度、同じ一人暮らしの朝艶に訊いてみよう。あれ、そういえば朝艶の家には洗濯機がなかったような。そもそも朝艶はそんなに細かい感じがしないので、どちらかというと洗濯のタイミング論についても私と同じ説を支持してくれるのではないか。などまた突然朝艶のことが頭に思い浮かぶのであった。
投入量についても目分量で適当な洗剤を計量用の蓋に一度出して、それを洗濯機の投入口に注いだ。同じく柔軟剤についても適当に軽量され、投入口に注いだ。柔軟剤はその時々の気分で安くなっているものをチョイスしている。最近は春の季節商品として販促されていた桜の香りというものを利用している。正直、柔軟剤の有無によって至る結論の違いはよく分かっていないが、なんとなくいつも投入している。確かに、洗いあがったときにふんわり香っている感じはある。しかし、いつも乾くとその香りも消えているような気がするのだ。
そんな結果は変わらない小さな疑問を繰り返しながら、洗濯機のスイッチを押した。がたがた動き出す洗濯機を後に、すぐ横にある風呂場へ移り、シャワーを出した。お湯になるまでの少しのタイムラグの間に着ていた部屋着を脱いだ。いつもこれも洗濯機に入れてから、運転開始ボタンを押せばいいのではとこの時に気づく。そして、いつも一時停止を押して、ふたを開け、再度脱いだものを入れてから再開ボタンを押して、風呂場に戻る。そのころには温かいお湯がシャワー口から出ているのだ。
少し熱いと感じるくらいのシャワーを浴びると、より全身が目を覚ますような感覚になる。この血流の促進が休日の一日のスタートを知らせるルーティンのようになっていた。
シャンプーを手に取って、一旦手に広げてから髪の毛を洗う。これも昔は手に取ったシャンプーを髪の毛にダイレクトに持っていっていたが、通っている床屋のおばさんが、一旦手で伸ばしてからの方が良いとアドバイスをくれたので、それ以来一旦手に広げてから髪の毛を洗うようにしている。しかしこれについても、別に泡立ててからもっていってるわけではないのだから、あまり違いはないのではないかという疑念も抱いている。しかし、その道のプロの床屋が言うのだからきっと何かしら違いがあるのだろう、と特にそれ以上深く思慮することもなく一旦手で広げてから髪の毛を洗うようにしている。
週末何か予定があるかと言われるとそんなことはなく、いつも家事をしたりテレビを見たりするうちに時間は流れていく。今日も録画していたテレビを見ながら過ごそうかななどと考えていた。
そういえば日用品を買いにも行かないと残りが少なくなっていたことも思い出した。スーパーはたしか10時開店だったはずなので、シャワーから出て少し時間がある。たまには少し外を散歩でもして、その道すがらスーパーに寄るということにしたのだった。
シャワーを終え、トースターに食パンをセットしてから出来上がった洗濯物を抱えてベランダに出た。気持ちのいい春が吹き抜けていく。花粉さえなければきっと多くの人がこの季節をもっと好きになるだろう。そんなことを考えながら、せっせと洗濯物を干していく。洗濯物を干すところまでは比較的好きなのだが、そこから取り込んで畳むのが億劫だ。最近は専らすぐ着るものたちコーナーを室内に設けて、朝そこから発掘して着ていくというスタイルを採用していた。こういうところが一人暮らしの特権かも知れない。周りを気にしなくても良いという気楽さを感じる。
洗濯物を干し終えて、すっかり焼きあがって時間の経った食パンをトースターから取り出す。焼き上がりから少し放置した関係で表面がより固くなっている。個人的にはこれくらいぱりっと固い方が好きなため結果オーライである。食パンを食べながらテレビで天気予報をチェックした。今日は一日良い天気とのことで、洗濯物への心配が一つなくなった。
皿を洗うのが面倒だからという理由で食パン置きにされていたキッチンペーパーを丸めて捨てて、外出の準備のために洗面台へ向かう。歯磨き粉もなくなってきたなと、自分の記憶力を頼りにしたメモに歯磨き粉のことを記す。洗濯洗剤と歯磨き粉と、ティッシュと、果たして今日は完璧にミッションをこなすことはできるだろうか、ちなみに今のところは負け越している。
動きやすいようにスウェットを履いて、Tシャツを着て、なんだか少し楽しくなってきた。散歩なんて、いつでもできるのに普段は全くしないので少しワクワクしている。この後やっぱり歯磨き粉を買い忘れることなんて知る由もなかった。
自宅のマンションを出て少し歩くと川が流れている。川と言っても、両岸と川底をコンクリートで固められた大きめの用水路と言ったところだが、もともとの川の名前がそのまま引き継がれ、川として存在していた。川沿いにはたくさんの桜が植わっており桜並木ができあがっている。ちょうど見ごろということもあって、まだ午前中の早めの時間にも関わらず、たくさんの人がシートを敷いてお花見を始めていた。
夜の桜と違い、日中の桜も見事なものだった。薄いピンク色の花びらが陽光に当たって輝いている。時折吹く風にさらわれて花びらがひらひらと舞っているのも風情がある。そういえば、昔観たアニメか何かで桜の花びらが舞うスピードは秒速5センチメートルだなんて言っていたような気もする。あのアニメの登場人物たちは最後結ばれたんだっけか、なんてことを思いながら春を感じた。
普段は目にも留めない木の枝や、その下に据えられてるベンチ、公園の看板、自転車の侵入を止めるためのパイプ、改めて見るとなにもかもが新鮮に感じる。ペットを連れて花見に来ている家族もいる。そういえばルンは今年も花見に連れ出されたのではないだろうか。昨年は桜の木の下で父と一緒に写っているルンの写真がメッセージアプリで送られてきていたような気がする。母もそうだが、父もルンを溺愛している。最初はペットを飼うことについてかたくなに反対していた父だが、気づけばルンに傅いており、いつも「ルンちゃん♪ルンちゃん♪」とちゃん付けで呼んでいる。我ながら少し情けないが、それでもこんなに楽しそうな父親をこの年になっても見られるのは幸せなことだと思うのだった。
ボール遊びをしている子供たちの横を過ぎて、ひときわ大きな桜の木に行きついた。木の幹にプレートが設置されており、この木だけ作で包囲されている。花見客も周知されているのか不文律なのかは不明だが、この木の下だけは空けていた。道行く人たちは皆この木の下で足を止め、各々スマホで撮影したりじっくり眺めたりしている。それほどに立派な桜の木なのだ。きっと何かしらの伝承なんかがあるのだろう。そういうのを調べてみるのも面白いかもなとふと思った。見事な桜を前に、私も少し立ち止まって眺めていた。穏やかな春の陽光と舞い降る桜の花びらが素晴らしい光景を創り出していた。
「桜の~咲く~春の~」
ふと耳に幻聴のようなものが聞こえたと思い周囲を見渡すと、とても細身の男性とも女性ともいえない中世的ないでたちをした人がギターを弾きながら歌を歌い始めた。とても綺麗な容姿で、その中世的な見た目からまるで春の妖精のようだった。声も男性とも女性ともとれる声で、どんどんと聴衆の群れは大きくなっていた。人を惹きつけるとはこういうことかと舌を巻いた。
散歩に出かけなければ素晴らしい桜を見ることも、この歌も聞けなかったのかと思うと、外に出てきて良かったなと思うのだった。
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