最後の日
それから数日後、今日は慧の夏休み最後のバイトの日である。
一つ一つの仕事。明日からこれらをすることが無いと思うと、全ての作業に気合が入る。
本当はいつもこのくらい気合をこめてこなさないといけなかったのだろうが、今日が最終日だけに力がこもってしまうのは致し方ないと、慧は自分を許した。
遂に慧の最後の時間。
時間というものは確実に前に進んでいく。
待ってはくれない。
この点においては、どんな存在よりも無慈悲である。
慧が旅館を発つ時が来た。
「ありがとうね」
「お世話になりました」
「それじゃ慧君、またね」
女将は小さく手を振り、慧に頭を下げた。
彼女のかんざしが光る。
旅館の仲間たちがみんな見送ってくれる。
「女将さん、アスカさん、ケイコさん、津軽さん、カゲロウさん、コロちゃんズ、ター坊……ありがとうございました」
慧は大きくお辞儀する。
慧は女将の力を見ることなくここを去ることになった。
(どんな魔法を持っていたんだろうか)
津軽のバンダナに隠された三個目の瞳、あれの意味を知ることもなかった。
(どんな力だったんだろう)
女将が創ったというコロちゃんズ達も秘密に覆われたままだった。
ター坊もなぜ五つ尾だったのだろうか。
思えばほとんどが謎のままだった。
短期間のバイトだから知らなくていいと思っていたことを慧は少しばかり後悔した。
女将は再び礼をした、
「じゃーねー!」
アスカは大きく手を振る。
「俺目の前にいますよ」
ケイコは小さく控えめに手を振る。
津軽は慧に採れた野菜を手渡した。
カゲロウはハンカチをひらひらと振った。体をミラーボールのようにキラキラと光らせている。
なぜミラーボール調なのかは、慧にはわからない。カゲロウの感性だろうか。
コロちゃんズとター坊は各々の両手を一生懸命パタパタと振る。
皆、見送りに個性が溢れている。
少々大げさにも見える見送りに笑いながらも旅館を後にした。
「そうだ」
慧はまた一つ不思議なことを思いつく。
「どうして、このトンネルはあの旅館に繋がっているんだろう。あの旅館のある世界はいったい何だったんだろう」
振り返った先には黄昏色の茜空。まだまだ暑い夏の季節。鳥たちが空を飛んでいく。
どこかもの哀しい雰囲気。
「ホント、不可思議な旅館だったよ…」
「おかえり」
「ただいま」
祖父がリビングでくつろいでいる。
「今日でバイトは終わりか」
「そうだね」
「また他の旅館でバイト探すか? チラシ入ったらとっておこうか?」
今回の経験を活かして、そういう選択肢もあるかと慧は思った。
「いや、探さない」
確かに旅館のバイトは楽しかったと思っている。
この経験が活かせることもあるだろう。
でもそれはあの旅館だからで、他の旅館でもそうとは限らない。
それにこの良い思い出は、あの旅館でだけで十分だ。
大切にしておきたいと思った。
「そうか」
祖父は特に気にするようなそぶりもなく、テレビを見ていた。
「明日はゆっくり寝てよう」
「慧」
部屋に戻ろうとした慧を祖父が呼び止めた。
「ん?」
「良い顔になったな」
そう言って彼はニヤリと笑った。
「…いつもと同じだよ」
恥ずかしさから顔を逸らしてしまった。
両親が亡くなって以降、ずっと祖父母に面倒を見てもらってきた、育ててもらってきた。
彼らが一番慧のことを見て来た人物であることは間違いない。
その祖父にそんな風に言われるとは思いもしなかったので、慧は驚いた。
「生き生きとしてるな」
慧の中の何かが再び動き出したのだろうか。
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