旅館に向かって

「ただいまー、あっつー」



 慧は汗を拭う。



「おかえり、早かったね」



 慧の祖母が奥のキッチンから姿を現す。



 エプロンを着けている、奥からは炒め物の良い香りがする、お昼ご飯を作っていたようだ。



「うん、今日は講義一つだけだったから」



「これで夏休みかい?」



「うん、そうだよ」



 リビングのソファにカバンを置いた。



 テーブルにある一枚の紙を手に取った。



「これは? 旅館のバイト?」



 テーブルの上に置かれたチラシを見つけた。



「そうそう、ポストに入ってたんだよ」



 リビングでテレビを見ていた祖父が答える。



「黄昏館か、意外と近所だな。こんな所あったんだ」



「新しくできたのかね。夏だけのバイトだし、ちょうどいいかなと思ってね。とっといたんだよ」



 応募は現地に直接赴くというものだった。



 旅館のバイトなど、特に興味はない。



 しかし他に興味のあるバイトがあるわけでもない。このまま新しいものを探すのは面倒である。



 どうせ夏の間だけのアルバイトなのだ。



 もっと言えば最悪アルバイトが見つからなくてもよいと思っている。



 慧はチラシをぼんやりと眺める。



 これも何かの縁だろうか、



「・・・そうね。応募だけでもしてみようかな」





 

 

 数日後、慧は例のチラシの旅館へ出発した。



 夏の暑い風を体中で感じながらペダルをこぐ。



 チラシに記載されている地図を頼りに進んでいく。



 徐々に変わっていく町の景色、次第に緑が多くなってきた。



 同じ町でもひとつ曲がるところを変えれば、全く違う土地になるのだ。



 そしてある小さな交差点を曲がったところで漕ぐ足を止めた。



「・・・ここ入ってくの?」



 その先は少し薄暗いトンネル。狭く、車が入れるほどの幅はない。



 慧の胸に不意に不安が訪れる。



 この先に本当に目当ての旅館はあるのだろうか。



(まぁ、見て確かめるまではね)



「・・・よし!」



 トンネルの向こうに見える微かな明かりへ、ペダルをこぐ。



 外から見るよりもそのトンネルは長いように感じた。



 このまま一生出られなかったりしてなどと思いながら目の前の光に向かってどんどん進んでいく。




「!」



 トンネルを抜けると、そこは別世界があった、と、慧は感じた。



 左手には青い青い海、一本道の周りは背の低い緑の植物が茂り、様々な花が咲いている。



 そして右手の高い所には、まさに旅館と思しき建造物がじっと腰を下ろしていた。



「あそこだな」



 そこから自転車で上り、入口らしき場所へたどり着いた。



 一輪の自転車がポツンと停められている。



「ここから入るのか」



 同じように、その置かれた自転車との横に自分の自転車を並べた。



 この先にある旅館にドキドキと胸が強く鳴る。

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