バイト先は異界の旅館で人外客をもてなすことになった〜迷い込んだその先は、“この世”じゃなかった〜
赤坂英二
旅館へようこそ
夏が始まる
あの山の先には、別の村がある。
あの水平線の先には、別の大陸がある。
では——あの交差点を曲がった先に、「異世界」があるとしたら?
それに気が付かぬうちに踏み入れてしまったとしたら?
人間も、妖怪も、幽霊も、異次元人も、
お互いの立場も何もかも忘れて、ただこの場所で癒される。
そんな理想郷のような場所が、あそこにあるとしたら?
そんな場所が、あなたのすぐそばにあるとしたら——。
忘れられた路地を抜けると、そこに“黄昏館”はある。
この旅館では、人間も幽霊も、妖怪も、心をほどいて泊まっていく。
そして今日、新しいバイトがやってきた。
不可思議旅館 黄昏館へようこそ。
夏の大学。
「ジリリ!」
真夏の学校にチャイムが響く。
「はい、今期はここまで。来週までに期末レポートを提出してください」
教授の声はもうすでに彼らの耳には届いていない。
教室の後ろに座る彼にも。
石坂慧は、十八歳の大学一年生である。大学と同じ町で生まれ育ち、小さいころから祖父母と暮らしている。両親はすでに他界しており、一緒に過ごした記憶はない。
「バイトしようかな」
そう思っていた。
自分の家までは自転車で数十分。実に通いやすい。
「夏休みか……」
自転車に乗りながら、ぽつりぽつりと独り言をつぶやく。
誰にも聞かれず、風を感じながらこうする時間が好きだ。
胸いっぱいに空気を吸い込むと、植物の緑と土の香りと磯の香りが気持ちよい。
青空には入道雲がすくすくとその体を広げ、寝転んでいる。
夏休みが始まる高揚感もあって、いつもよりも自分の視野が広くなっている気がし
た。
「ただいまー」
慧は汗を拭う。
家に帰ると、テーブルの上に一枚のチラシがあった。
「旅館のバイト?」
ポストに入っていたらしい。
「黄昏館……? こんな旅館あったかな」
旅館のバイトなど、特に興味はないが、他に興味のあるバイトがあるわけでもない。このまま新しいものを探すのは面倒である。
どうせ夏の間だけのアルバイトなのだ。
これも何かの縁だろうか、
「応募だけでもしてみるか」
それが、全ての始まりだった。
数日後、慧は例のチラシの旅館へ出発した。
夏の暑い風を体中で感じながらペダルをこぐ。
チラシに記載されている地図を頼りに進んでいく。
徐々に変わっていく町の景色、人の気配が消え、次第に緑が多くなってきた。
同じ町でもひとつ曲がるところを変えれば、全く違う土地になるのだ。
(こんなところに旅館が……?)
そしてある小さな交差点を曲がったところで漕ぐ足を止めた。
「……ここ入ってくの?」
狭く、暗いトンネル。
一瞬、足が止まるを前に足が止まる。
妙な胸騒ぎがした。引き返すなら今だ。
だが——なぜか、ペダルをこぐ足は止まらなかった。
トンネルを抜けた瞬間、慧は息をのんだ。
まるで世界そのものが変わった感覚。
左手にはどこまでも広がる青い海。異様なほど青く、静か、飲み込まれてしまいそうだ。
右手の丘の上には、異世界めいた風格の旅館。
まるで世界に浮かんでいるように、世界と切り離されているような、感覚がある。
絵にかいたような花々が咲き乱れる美しい庭。しかしその花は風で揺らされることが無い。
黄昏館——そこは、まるで現実と異界の狭間に存在するようだった。
「見事だな」
ふと声に出してしまった。
目を奪われた。
心なしか太陽の光も優しい。
まるで楽園のようだ、そう感じた。
しかし……何かがおかしい。例えば旅館の窓、あそこから何者かがこちらを見ているような気がした。
すると、横からヌッと何かが視界に入ってきた。
「わぁ!」
「あらら、そんなに驚かないでくださいな」
そういって声の主はケタケタと笑った。
恐らく還暦をすでに迎えている、バンダナを額に着けた女性だった。
「すいません。大きめの犬か何かだと思って」
その人物は犬なら大型犬だが、人にしてはずいぶんと小柄だった。
「お泊りの方ですか?」
「あぁ、いや、これを見て来たんです。バイトの募集ってチラシを」
慧はチラシを女性の前に出す。
「おや、まぁ!」
女性は目を大きく開き驚いた表情を見せた。……がすぐに微笑む。
まるで最初からすべてを知っていたかのような、余裕のある微笑み。
「では中に入って働いている人に伝えてくださいな」
慧は言葉を失う。なんなんだ、この感じは……⁉
大きな引き戸の前に着いた。
ここが旅館の入り口。
大きい引き戸には木彫りで細やかな装飾が施されており、立派だった。
(お客さんじゃないけど、ここから入っていいのかな)
しかし入る場所はここしかわからない。
ゆっくりと戸を開く。
しかし、
「ガラガラ!」
その動作に似つかわしくないほどの音が鳴った。
慧は旅館内に歩みを入れた。
中に入ってまた驚いた。
外見は古かったのに、中はそれを微塵も感じさせない造りとなっていた。
高めの天井は解放感抜群。
赤茶色のカーペットが地面に敷かれ温かみを与える。
古い洋館の特徴を持っているが、木材を用いた柱や梁といった造りは日本家屋、和であることを感じさせる。
洋と和が融合しているこの場所は、荘厳で非日常を感じながらも落ち着くものになっている。
訪れる者に、
「この旅館に足を踏み入れたが最後、日常には戻れないかもしれない」
そう思わせる貫禄がここにはある。
*作者より
1話読んでいただきありがとうございました!
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