第7話

 宿泊施設や飲食店への出勤と朝一番からレジャーを楽しみたい観光客らの車で海沿いの国道は混雑していた。その中でそこだけが空白地帯になっている元ドライブインの駐車場にライトグリーンのアルファロメオが入ってくる。

 にがなと蜜柑がダイビングショップのドアを潜ると呑気な電子音が鳴って、カウンターの中にいた大室が呑気な顔をこちらへ向けた。


「なんだ、またアンタらか……」


 ダイビングの仕事はやんわりと断って、相手もそれを納得していた。それが今度は朝っぱらから何の用だ。しかし、そんな疑問の表情を浮かべた大室の顔は次の瞬間、蜜柑が発する警察官の雰囲気を感じて強張こわばった。


「……まだ、何か?」

「いえ、このウエットスーツが気になりましてね」


 刑事の気配を隠そうともしない蜜柑の迂闊うかつさに舌打ちをこらえながら、荼は中古のウエットスーツが吊るされたラックに歩み寄る。蜜柑はそれとなく入口を塞ぐ位置に立つ。椅子を立った大室がカウンターから出てくる。


「先日、この先にある橋の工事現場で遺体が発見されたのはご存知ですか?」

「いいや」

「貴方も行ったことがあるスナックの常連客が、崖から突き落とされたんですよ。今朝、その犯人が自首して来たんです。犯人はそのスナックのママさんでした」

「……へぇ、それで?」

「その件で、貴方にも少しお話をうかがいたいんですよ」


 久恵が自首したと聞いて安堵の表情を浮かべる大室に、荼は微笑みかけた。


「本当の犯人は貴方でしょう。大室さん」


 荼が吊るされたウエットスーツの袖をつまんで裏を見ると、黒いゴムの生地には何筋かの長い傷跡が平行についている。岩に当たって擦れたようなものとは明らかに様子が異なる、それは人が爪を立てたような痕跡だった。


「貴方は恐らく、貝を取るか何かで海に潜っていたのでしょう。そこで被害者の近藤氏と高津久恵が揉み合うのを見た」


 そしてその結果、近藤雅紀が海に落ちた。頭部の外傷はその時についたものだが、しかしその時点で被害者はまだ生きていた。恐ろしくなった久恵が良く確認もせずにその場を去ったのを見た大室は、近藤を殺して高津久恵を脅す事を思いついた。

 肩を押さえて海に沈められ、窒息の苦しさに藻掻いた近藤が引っ掻いて付けたのがこの傷だ。


「俺は、知らねえよ」


 大室はしら・・を切ろうとするが、その顔に浮かぶ表情は既に犯行を自白しているも同然だった。荼が一歩進めば大室が一歩後退あとずさり、その後ろには蜜柑が立ち塞がっている。


「近藤氏の死亡が発覚せず行方不明になってしまえば、殺人の事実を知るのは高津久恵と貴方だけとなる。そうすれば彼女は一生、貴方の言いなりだ」


 DX大橋の建設は国も絡む大工事だけに、周辺住民―――特に海に関わる生業なりわいを持つ者からの理解を得るための説明会が何度も行われている。その工程や日程を知っていた大室は、ケーソンに砕石が投入され、コンクリートが注入されれば犯行を隠せるという確信があったのだろう。


「遺体をケーソンに隠すアイデアは良かった。しかし、砕石投入を目前にして台風が来た。残念でしたね。そして……」


 また一歩、荼が間合いを詰めると大室が下がる。一切の表情を動かさない荼に対して、追い詰められる大室の顔は怒りに紅潮している。


「ここ最近の観光客を狙った連続強盗事件。それも貴方の仕業だ。古流空手坂崎流、大室拓馬」


 その瞬間、大室が動いた。荼に正対していた身体を半身に構え、飛び掛かると見せ掛けて後ろへ飛び、そこにいた蜜柑に手を伸ばす。虚を突かれて棒立ちだった女刑事の細い首に陽に焼けた太い右腕を巻きつけ、締め上げながら「動くな」と獣のように歯をむき出しにした。


 海水浴やマリンスポーツを楽しんだ後で、車を使わず歩いてホテルへ戻る観光客が襲われた現場は、この国道沿いの遊歩道に集中していた。

 時刻は辺りが暗くなる夕方とは言え、相手に抵抗されたり手こずって誰かに目撃されるリスクを考えれば、金品を奪うにも普通は何かしらの武器を使うものだ。しかし、観光客を襲った強盗は素手での犯行だった。

 犯人は腕に覚えのある格闘技経験者という、荼の予測は正解だった。


「無駄な抵抗をするな、逃げられないぞ」

「いいや、俺は逃げる。この女の首をへし折られたくなかったらそこを動くな」

「チャーさん……」


 右腕を背後から固められて身長一五〇センチ足らずの体は身動きも取れず、丸太のような腕に締め上げられた蜜柑が、弱々しく呻いた。


「助けて、下さい」


 蜜柑の潤んだ瞳が荼を見詰めた。歩数にしてほんの三、四歩の距離を置いて、荼がそれを見詰め返す。大室が力を込めれば、その頸椎けいついはいとも容易く折れてしまうだろう。その細い体では、おそらく自分の三倍も体重のある男を振り払う事はできない。


 しかし、荼は首を横に振った。


「イヤですよ、どうして僕が。それに、君はそんなにか弱く・・・ないでしょう」


 フン、と荼が鼻で笑った。愛情を欠片も含まないその言葉と仕草を見て、蜜柑のこめかみに怒りのマークが点灯した。


「イジ……!」


 パンプスが跳ね上がった。鋭く振り上げた蜜柑の足の甲が、肩の上にあった大室の顔面にパァンと乾いた音を立てた。


「ワル‼」


 首に絡んだ腕がわずかに緩む、それだけで十分だった。腰を落とながら身体を捻り、腕を抜け出すその動作で掌底を鳩尾みぞおちに叩き込む。

 武術太極拳世界大会で三年連続優勝中。前後に開いた脚をペタリと床につけた姿で、佐藤蜜柑は「フン!」と鼻で息をついた。


「普通は助けるでしょう、可愛い後輩を!」


 思わぬ反撃にあった大室が、たたらを踏んで数歩下がる。そして、すぐに体勢を立て直したその手には、大振りのナイフが握られていた。

 海中で貝を剥がすのに使われて、ギザギザになった刃を振りかざした大室が蜜柑に向かって突進する。こちらも立ち上がった蜜柑が、それを迎え撃とうと構えをとる。


「自分で言うもんじゃない、そういう事は!」


 跳ねるように軽やかなサイドステップで蜜柑の前に入った荼の右拳が、振り上げた大室の右肩を打つ。体の回転を止められて棒立ちになったその鼻下、顎先、喉への雷光のようなコンビネーションは、的確に急所を突いて殺人犯の意識を刈り取った。

 大室が膝から床に倒れ込む。一秒未満のあいだに四発を打ち込む脅威のハンドスピードを目撃した蜜柑は、目を丸くして息を呑んだ。


「これが、伝説の格闘技“バリツ”……」

截拳道ジークンドーだ」

「“アチャー”って言わないんですか」

「もう、絶対に言わない」



◆ ◆ ◆



 大室拓馬を逮捕した荼と蜜柑が署に戻ると、それを迎えた戸張は半泣きのような顔になった。

 高津久恵を犯人として報告した後に真犯人がいました、などとならなかった事は非常に喜ばしい。それを未然に防いでくれた荼に対してはどれだけ感謝してもしきれない。しかし、一度は免れると思っていた高級寿司店での奢りの話が復活したのは、持病の通風と同じくらいに痛かった。


「スシスシお寿司、スシオ寿司」


 そして、この件に蜜柑が絡んで離れようとしないのも戸張には痛恨事だった。

 この空気を読まない若い女刑事は、コンビを組んだ荼だけが報酬を受け取る事に納得せず、それが通常の業務だという正論にもまったく耳を傾けず、獲物に噛みついてグルグルと回転するクロコダイルのように駄々をこねた。


「では、こうしましょう。課長がチャーさんに、チャーさんがあたしに奢る。これで“痛み分け”です」

「ひとりだけ痛くも痒くもない者がいる。なぜ僕が佐藤刑事にご馳走しなければならないんだ」

「あたしに冷たくした罰です。傷つきました」

「それはチャーが悪い。それでいこう」


 これぞ妙案と手を打つ蜜柑に、荼は異星人を見るような目を向けた。言葉は通じても、まったく意思が伝わる気がしなかった。

 しかし、もはやダメージが減れば何でも良いと考えた戸張がその案に乗った。



◆ ◆ ◆



 その夜、名店“藤代”のカウンター席で、課長の戸張が口に入れたのは、かっぱ巻と干瓢かんぴょう巻とお通しの小鉢のみだった。

 その隣に座る荼は、自分の隣に座る蜜柑が中トロやウニ、イクラなどの高価なネタをスナック菓子のように口に放り込むのを見て啞然あぜんとしていた。


「もっと味わって食べたらどうだ」

「味わってますよ。美味しいですよ」


 早食いはともかく食べ方は綺麗だ。そんな蜜柑の世にも幸せそうな顔を見ると、荼もそれ以上の小言は言えなかった。それは店の大将も同じなようで、矢継ぎ早に繰り出されるオーダーに「あいよ!」と愛想良く応えている。


 ふと、荼からの視線に気がついて、蜜柑の食べる手が止まった。怪訝そうにする先輩刑事の顔をチラリと伺うと、湯呑みのお茶を一口飲んだ後輩刑事は、意を決したようにフンと息をついた。


「チャーさん、いつ帰ってくるんですか」

「半年後か、一年後か。研修とは言っても事実上の出向ですから、期間に関しては何とも言えませんね」

「あの……あたし、待ってますから」


 磨き上げられたカウンターの木目をじっと見ながら、蜜柑が呟くように宣言した。酒は頼んでいないのに、頬はほんのりと赤らんでいた。


「何を?」

「何をって……」


 キョトンとする荼の鈍感に、今度は蜜柑が啞然とする番だった。どうやらこのヒトの観察力と洞察力は犯罪捜査にしか発揮されないのだと思うと、心に開いた亀裂から湧き出してきたのは怒りだった。


「次に帰って来たら、またお寿司ご馳走して下さいって事ですよ!」

「イヤですよ。どうして僕が……」

「大将、大トロと甘鯛とブリね」

「あいよ! 今日はノドグロも入ってますよ!」

「じゃあそれも!」

「佐藤くん、いい加減に……」


 怒りを食欲に相転移した蜜柑が食べる。その食べっぷりに気を良くした大将がここぞとばかりに披露する匠の手さばきを、ゾッとした顔の荼はただ見ている事しかできない。


 澄まし顔が常態化している荼が困るのを見て、大いに溜飲を下げた戸張は、実にビールが美味かった。だがそれと同時に、ふたりの部下の不甲斐なさと不器用さに、いたたまれない気持ちにもなった。


「なあチャー、俺だけ先に帰っていいか?」

「駄目です課長、いてください」

「ふむ、それはお願いか? ならばプリーズと言ってみろ」


 なんて上司だ、と荼は奥歯を噛み締めた。

 しかし、ここで蜜柑と二人きりになる事態だけはどうしても避けたい。ニタニタと笑う戸張に頭を下げるために、荼は渾身の力を振り絞った。


「………プリーズ」


 左に座る上司は、勝ち誇るように追加のビールを注文している。右に座る後輩は、もはやこちらを一顧だにせず「アワビ、伊勢海老、シャトーブリアン」と、滅びの呪文を唱えている。


―――次の休暇はここへは戻らない。そうだ、スイスへ行こう。


 その翌日、朝一番の便で荼はイギリスへ帰って行った。

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ケーソンに消ゆ マコンデ中佐 @Nichol

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