第6話
「チャーさん、高津久恵が自首して
翌日の朝、D署の
これから強盗事件の捜査に出ようとしていた刑事たちがざわつく一課の中で、省庁ならびにお偉方の意を受けた県警本部長のプレッシャーから開放された課長の
「すまなかったなあ、チャー。せっかくの休暇に骨折り損をさせてしまって」
近藤雅紀を殺害した犯人が名乗り出たとなれば、DX大橋の事件はめでたく解決。そして、犯人を特定したのでも、ましてや逮捕したわけでもないのだから、荼との間に交わした高級寿司店“藤代”での
しかし荼は、ふたつの心配事が同時に片付いた上司の機嫌に付き合う素振りも見せず、隣でそわそわとしている蜜柑に顔を向けた。
「高津久恵の取り調べは君が?」
「はい。あたしと高橋さんで」
温厚で丁寧な取り調べで知られる一課のベテラン刑事の名前を聞いて、荼はひとまず安心した。昨日の久恵の憔悴ぶりを思うと、
荼の送った目礼に、ごま塩頭の老刑事が軽く手を挙げて応えると、待ちかねたとばかりに蜜柑が喋り始めた。
「
同僚に連れられた近藤が、初めて店を訪れたのがおよそ半年ほど前だった。その場で久恵を気に入ったのだろう、さほど酒が強いわけでもない近藤は二日と開けずに店に通うようになり、必ずカウンターの席で何くれと無く久恵に話し掛けるようになった。
これは昨日、ダイビングショップを出た荼と蜜柑がすでに裏を取っている。観光客で賑わうといっても小さな町だけに「セピア」付近の他の飲食店で聴き込みをすると、店の常連はすぐに見つかった。
彼らに写真を見せると全員が「ああ、この人」と表情を曇らせる程度に、被害者は店では顔の通った客だった。そして他の常連たちの間では、いつも久恵にしつこくしている近藤を苦々しく思っている者も多かった。
「それが先日、ついに……その、関係を迫られたそうで……」
近藤は店に通うだけに留まらず、店の外でも会うことを久恵に求めるようになっていった。久恵の母親が病気を患っているのを知っていた近藤は、店で高い酒を飲むだけでなく、封筒に入った現金を手渡すようになったが、久恵はそれを断ることができずにいた。
それまでもそれとなく、あるいは露骨に関係を求めても
「久恵さんがこれまでに渡されたお金も返して、近藤と付き合うつもりは無いと断ると、口論から揉み合いになったそうです」
その場所は、DX大橋の建設現場付近にある海沿いの遊歩道だった。事件の二日前といえば大型の台風が接近している最中で、天候も荒れ始めている。普段であれば人通りのある遊歩道に観光客の姿はなく、久恵に突き飛ばされてガードレールに当たり、体勢を崩した近藤はそのまま崖の下へと転落していった。
「恐ろしくなった久恵さんは、辺りに誰も居ないのを見て、そのままその場を去ったそうです」
「なるほど」
そう話し終えた蜜柑は、しかしまだ何か釈然としないような顔をしている。そして、それは荼も同じだった。
「大室拓馬については?」
「大室はこれまで何度か来店した程度の客だったそうです。それが一昨日になって、久恵さんが行った殺人を目撃したと」
大室は、それまで人に連れられて何度か来た程度の客だった。そんな男が準備中のスナックにずかずかと入って来たかと思えば、開口一番「あんたが人を殺したのを見たぞ」と凄んだので、久恵は動揺せずにはいられなかった。
黙っているのと引き換えに金を要求してくる大室の勢いに負けて、久恵はその場にあった現金をすべて渡してしまったらしい。
これが冷静であったら、相手のカマかけや証拠の有無を疑う事もできたかも知れない。しかし、殺人現場を目撃されたという事実に動転した久恵にそのような発想は浮かばず、金を渡した事で結果的に犯行を認めてしまったと気がついた時にはすでに後の祭りだった。
「その翌日に僕らが店に行って、観念したというわけだね」
「はい、そんな感じです」
高津久恵は、近藤雅紀が崖の下に落ちた時、誰にも見られなかったから逃げた。恐らく明確な殺意は無かった。金の弱みにつけこんで交際を迫る近藤を、久恵が快く思っていなかったのは確かなことでも、殺そうとまで思っていなかった。もし周囲に誰かがいたのなら、助けを求めた可能性もあったのだろうと荼は思う。
しかし事故は起きた。面倒な男が崖から転落して、助けを求められる者は周囲になく、自力で助ける事もできない。そして、仮に助けられたとしても、今度は突き落とした責任を問われる事になる。
人間は弱い生き物だ。このまま事実が
「しかし、これで一件落着だ。捜査本部も立てずに事件発生から二日で解決となれば、私も本部長に面目が立つよ」
そう小躍りせんばかりの戸張の横に立つ蜜柑は、俯いてじっと何かを思案している。何か物足りないという顔で「大室は、どこで犯行を目撃したんでしょうか?」と首を傾げる相棒を見た荼は、やはり内心でこの後輩の勘の良さを認めざるを得なかった。
能天気で騒がしくて子供っぽい。しかし、その見た目に反して
「大室氏には高津久恵の供述の裏付けも含めて、任意で話を聞こう。脅迫の件は問題だが、基本的に民間人には目撃した殺人を通報する義務はないからな」
肩に伸し掛かっていた重荷を下ろして身軽になり、背中に羽でも生えたかのような足取りで「本部長に報せてくる」と言う戸張を、しかし荼は引き止めた。
「そう慌てる事もないでしょう。大室氏に話を聴くのは僕にやらせて下さい。佐藤刑事をお借りしても?」
「それは構わんが……何だチャー。昨日は休暇だなんだと渋っていたのに、そんな事をしても“藤代”は奢らんぞ」
「いえいえ、そんなつもりは毛頭ありませんよ」
部下の下心を疑う戸張にニコリと笑顔を見せた荼は、蜜柑に軽く頷くと「行くぞ」と目線で促した。それは、ふたりでこの件に決着をつけようという、相棒に対しての合図だった。
「何ですかチャーさん、そんなにあたしとドライブしたいんですか。しょうがないなぁ〜。あと“藤代”って何ですか。あたしもお寿司食べたいです。スシスシオスシ」
しかし、その気持ちは蜜柑には届いていなかった。
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