第2話 おいていかないで!
自称「料理に嫌われている」私としては、まったくもって料理に自信がない。
10歳のクリス少年が我が家へ里親として来た翌日、「知足」という言葉を辞書にもたないグッピーを思いつつ、クリスが何をどれだけ食べるのだろうか、ということで頭が一杯だった。
とりあえずの朝食はトースト2枚にオレンジジュースとミルクで乗り切った。
食事の心配の前に、近所の学校への転校手続きが最優先だった。
朝一番にクリスと学校へ行き、転校手続きを済ませ、彼を一日学校へ預けた後、夕食の買物に行けば良い、という段取りだった。
ところが予定は変更を余儀なくされるものである。
転校手続きに行くと、クリスが転入する予定の5年生は、その日は社会見学で一日中、出払っているから、転校手続きは出来ても、実際にクラスに入れるのは翌日からだというのだ。
新米ママは里子になってまだ24時間にもならないクリスと、その日一日をどう過ごして良いのか困った。
学校からの帰り道、近所の植物公園に立ち寄って散策をすることにした。
12月初旬だったが、雲一つない青空に惜しみない日差しを浴びていると、暑さを覚えてくるほどだった。
小さな植物公園だったが、木々の生い茂った丘陵を利用しているので、ちょっとしたハイキングのような感じだった。
クリスはイヤホンで音楽を聴きながら、私より数メートル先を早足で歩いていた。日は長いし、別に特別会話をしなくてもいいか、と思いつつ、こちらも散策を楽しむことにした。
歩いていると外国から取り寄せた珍しい木や花の説明をそこここに見かけて、ちょっとばかり読んでみようかと足を止めた。
次の瞬間、クリスが目の前に飛び込んできた。
「僕をおいていかないで!」
クリスの発言に当惑した。数メートル先を歩いていて、耳にイヤホンをしていたクリスがどうして私が止まったことに気づいたのか、そしてほんの一瞬立ち止まったことが、どうしておいていくことにつながるのか、まるで見当がつかなかったのだ。
「おいていかれそうなのはこっちよ。この木の説明を読もうと思っただけよ」
と答えた。
クリスは半信半疑な顔をして、イヤホンを耳に戻すと、また私の先を歩き出した。
理解しがたい行動を確認するために、しばらくして、再度歩を遅めてみた。
すると、またもやクリスが素早く戻ってきた。
間違いなかった、彼はおいていかれることに不安を抱いていた。
けれど、主導権を握ったかのように、私の前をさっさと歩いていくクリスが、なぜそう思うのだろうか?
家に戻った頃には小腹も空いてきて、ランチに良い時間だった。
クリスに、ランチを作るからキッチンにいる、用事があったら呼んでくれ、と話した。
キッチンに入った途端、クリスが叫んだ。
「僕をおいていかないで!」
キッチンに入った私は、クリスの視覚から突然消えた状態だった。
クリスの発言にまたもや当惑した。私の居場所も理由もきちんと伝えた直後のことだ。
理由は分からないなりに、クリスの過去と何らかの関係があることだけは確信した。
キッチンに駆け込んできたクリスの目を見て言った。
「あなたをおいていったりしないわ。必要があってどこかへ行く時は、どこへ何の理由で行くのかちゃんと伝えるからね。理由なくしておいていくことは絶対しないから安心して」
クリスの目は不安で一杯だった。それ以上の言葉も、安心させることも出来ない自分が小さく思えた。
クリスの不安の理由が分かったのは、クリスのソーシャルワーカーに事情を説明して、相談した時のことだった。
クリスは小さい頃、母親に「ここで待っていてね」と言われて、スーパーの駐車場でおきざりにされたのだ。その後も、父親のガールフレンドから「待っていてね」と言われて、おきざりにされたのだ。
胸が苦しくなった。信じていた母親、あるいは母親的存在からおきざりにされた恐怖と悲しみがどれほど深く彼を傷つけてしまったのか、クリスの切願するような声を聞けば分かる。
ソーシャルワーカーが付け加えた。
「だから、クリスは母親役である女性を信用しないし、敵視しているの。
ちょっと大変かもしれないけれど、頑張ってね」
その言葉が呪文のように、私の心を束縛した。
その後の展開は、ちょっと大変なんてものではなかった。グッピーとクリスの胃袋を心配するよりはるかに難問だった。
それでも泣いて、笑って、また明日、頑張ればいいか。
泣いて、笑って、また明日 夢野 翼 @Love-Song
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