1 尾行者
ビックカメラの不調和なメロディが7・8番線ホームに轟いた。商業主義を拒むかのように列車は池袋駅から走り去った。
狭隘なコンクリートの渓谷を転がってゆく。純白のシャツに紺のジャケットをはおる坂之上純は、疲労を軽減しようと体重を吊り革と分担した。二十四歳の純は仕事で移動中だった。飲み干したレッドブルの缶を握りつぶした。徹夜明けでも頭脳の切れ味を多少は保たせてくれと祈った。
大塚駅に着いた。ホームと車輌のあいだで利用客が交換された。比較的マシな発車メロディに安堵した。そしてドアが閉まる一秒前、純は先頭車輌から飛び降りた。
尾行を振り切るためだった。より正確に言うと、つねに尾行されることを想定し、公安の隠語でいう「点検」をおこない安全を期すためだ。
都内の大学を卒業した純は警視庁へ入庁し、幼少期以来の夢を叶えた。今年からは公安部に配属され、国家体制を揺るがす敵との戦いの最前線に立っている。政権転覆を企てる団体、国際的なテロリスト、外国政府の工作員といった厄介な連中が相手だ。油断すれば命取りになる。そしてその賭け金は自分の生命だけではない。
細長いホームで雨上がりの清冽な空気を肺へ送り込んだ。降りたばかりの乗客がエスカレーターで一階改札口へ流れ落ちるのを眺めた。大塚駅は線路に挟まれた島式ホーム一本のみで、上下線同時に列車が到着したら身動きに困るほど狭い。だから尾行者がいないか「点検」するのに適している。
四か月前、大阪のあべのハルカスで爆破事件がおきた。その八日後には東京ビッグサイトで。さらに類似の事件が横浜中華街、東京ディズニーランド、江戸川区花火大会と続いた。だれしも確信した。ターゲットはアルファベット順に選ばれていると。そして先週、十五回めの犯行が大阪城ホールでのロックバンドのライブ中になされた。「O」まで来たから次は「P」だ。
当該のテロリストは犯行の予告や声明を幾度となくSNSへ投稿している。それらはすべて猫が加工された声でしゃべる猫ミーム動画だ。そして自らを「コピーキャット」と称した。十五回連続の爆破テロで信頼が奈落の底まで落ちた公安警察は人員を拡充しており、下っ端の純も駆り出された。
純は歩きだした。リュックサックを前に抱えたサラリーマンが内回り側に立っている。ベンチでうとうとする七十代のおばあさん。ベビーカーを押してエレベーターを待つ女。それぞれフレームに収めて脳内でシャッターを切り、画像を保存した。純は逆監視の訓練を積んでいた。だれひとり例外扱いしない。赤ん坊を連れたテロリストがいてもおかしくない。むしろそういう偽装と疑うべきだ。
池袋方面の端まで観察してから足を止めた。アイフォンをいじるふりをしつつ、ちらちら視線を百八十度に配った。自動販売機の向こう側でさっきの四十歳前後のサラリーマンが飲み物を選ぶのが見えた。右手に黒い傘を持っている。
内回りの列車が来た。男はまだ迷っている。ドアが閉まり、出ていった。男は乗らなかった。缶コーヒーの銘柄にでもこだわりがあるのか。それとも元々外回りに乗るつもりで間違いに気づいたのか。
誰しも電車を乗り違えることはある。初めて利用する駅だったりすると特に。たまたまそういう利用者に出くわしたのかもしれない。
だがそれはこちらの願望だ。偶然のめぐり合わせであってほしいと。尾行などされるわけがないと。
都合のいい願望は捨てろ。
男は太い眉と細い目が吊り上がっている。『あまちゃん』というドラマに出ていた俳優に似てるので、純は男を「蟹江」と反射的に名付けた。一種の記憶術だ。
内臓まで凍結しそうな数秒が過ぎた。
蟹江がリュックサックを捨てた。傘をもって大股で接近してきた。
純は唖然とした。
なんてこった。逃げないのか。交戦になってしまう。
コピーキャットは単独犯なのか複数犯なのか判明していない。週ごとに十五回にわたってテロを実行できるマンパワーゆえ複数犯と目されてるが、あくまで憶測にすぎない。判明している限りでは、手法はすべて小型のドローンから手榴弾を落とすというものだ。犯人は人間でなくAIであるとの珍説まであり、警察でもそれなりに有力視されていた。とにかくコピーキャットのプロフィール欄は空白のままだ。
先週の大阪城ホールでのテロではついに死者が出た。コピーキャットは一線を越えてしまった。これまではただの愉快犯だと冷笑する向きもあったが、その楽観主義は厳しく批判された。コピーキャットは一万六千人の頭上で爆弾を落下させる憎むべき敵だった。
純はジャケットの下からテーザー銃を出した。安全装置を外して構えた。
「止まれッ!」
テーザーは電極を圧縮窒素で射出し、相手を高圧電流で麻痺させる低致死性兵器だ。弾丸を発射する拳銃は勿論のこと、警棒などで攻撃するより人道的な対処法と言われる。フレームは黄色いプラスチックでおもちゃのように見えるが、銃刀法により一般人の所持は禁じられている。有効射程は約十メートルあり、相手が傘で戦うなら制圧は容易だ。
公安の任務は市民に紛れての情報収集であり、本来武器は携行しない。武器を完璧に隠して行動するのは難しい。刑事警察、いわゆる普通のお巡りさんに職務質問されるリスクもある。公安警察の本分は、ジェームズ・ボンドみたいな色男が暴れ回るスパイ映画の対極にある。
しかし純は許可を得ずにテーザーを持ってきた。先週のテロで死者が出たのが大きい。よからぬことに巻き込まれそうな胸騒ぎがした。純だけでなく警察全体が神経過敏になっていた。
そして悪い予感は的中した。
大胆不敵に蟹江はテーザーの射程内に踏み込んできた。濁った目から判断するに、アルコールや薬物の影響があるかもしれない。
破れるほど純は唇を噛んだ。
どうする気だ。傘一本で銃相手に勝てるとでも?
蟹江が黒い傘を振り上げた。バーベルを持ち上げるように力んでいる。そのいきみ具合で普通の傘ではないとわかった。
思わず純は身構えた。五体が砕けるほどの衝撃が左肩を襲った。鉄パイプか何かが仕込まれている。痛みを感じてる余裕はないが、もちろん痛い。上腕骨が折れたかもしれない。打たれる前にトリガーを引いたが外れた。
予備のカートリッジが銃把に装着されている。しかし左手が動かない。皮肉にも麻痺したのは自分だった。ワイヤーが伸びているカートリッジを歯で噛んで外し、予備を嵌めた。左腕をだらんと垂らしながら右手のみで撃った。
電極が蟹江のワイシャツの胸に刺さった。改造傘を振り上げていた蟹江は棒のように全身硬直して真後ろへ倒れた。
客が騒ぎ出した。外回りの列車が到着し、ホームが混雑した。純は舌打ちした。目立ちすぎだ。これは公安の仕事じゃない。課長にどれだけ叱られるか。
無論、蟹江がコピーキャットであれば大手柄だが。
すぐ拘束しないといけない。しかし手錠がない。
左耳に嵌めたイヤホンのボタンを、テーザーを持った右の親指で押した。暗号化されたアプリで公安部の池袋の拠点を呼び出した。
女の声がした。同期入庁の織田円華だ。
「どうかした?」
「大塚駅で『点検』してたら男に襲われた」
「嘘でしょ」
「相手は鈍器をもってたけどテーザーで制圧した」
「大丈夫なの」
「大事には至ってない。それより応援にきてくれ。ひとりじゃ厳しい」
「わかった。五分でいく」
仰向けの蟹江が改造傘に手を伸ばしたのでトリガーを引いた。バチバチバチと音がして蟹江は呻きながらまた棒になった。釣り上げられた魚みたく跳ねた。まるで拷問だ。この世に「人道的な兵器」など存在しないと悟った。
くたびれきったチャコールグレーのスーツを着た中年男は、だらしなく口を開け真上を凝視している。滑稽味を帯びた姿からは何を考えてるのかわからない。巧みにSNSを使いこなすコピーキャットの人物像にそぐわない。警視庁公安部のプロファイリングによると、仮にコピーキャットが複数犯だとしても、主犯格は二十代から三十代の女ではないかと分析していた。
コピーキャットはおもに週末を狙う。次は「P」だ。パシフィコ横浜、プランタン銀座、お台場パレットタウンなどPから始まる施設はテロを恐れて営業停止している。全国のパルコ、プリンスホテル、プラネタリウム、ポケモンセンターなども同様に。野球のパ・リーグも全試合の中止を検討しているそうだ。
純は深く息を吐いた。
この四か月、日本列島を覆っていた暗雲が晴れるとよいのだが。
僕がミニスカでアイドルに!? 灰色熊 @okikouzou
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