It is happening again

柚木呂高

It is happening again

“問題は、われわれは生きている人間とともに生きねばならないということである”

――ミシェル・ド・モンテーニュ


 顔面の半分も潰れて鮮血淋漓、にも関わらず楚々たるを崩さず、随分美人な怪我人だと思った。頭部と脊髄を損傷、手足は無事だが反応がない。きれいなネイルが血で濡れていた。術後も意識は戻らず彼女は様々な機械に繋がれて延命されている。左手の薬指には小さいがダイヤモンドの指輪がはめられていて、大切に手入れされている様子が、相互に愛しているそして愛されていることの証左となっている。そんな可憐な女性がこのように仰々しく包帯を巻かれて機械やチューブと繋がっている姿は慣れない人にとってはひどく痛々しいものと映るだろう。

「サブロゲーションプラン対象の患者になるかなぁ。意識もいつ戻るかわからないし、親族の方が見えるまでには用意しておいてね」

「すでにスキャンは終わっているので近い素体の用意と頭部パーツのプリントが完了次第、面会用の部屋の準備ができます」

 窓の外には雨が降っている。朝だというのに外は暗く、水玉がより大きな水玉と惹かれ合って、その重さでガラスを滑って落ちていく。暗いガラスには私の姿が仄かに映し出される。看護師服を身に纏った清潔な私。ストレスとメンタル不調を抱えたままそれを服の中にきれいに収めている私。愛し愛される状態が続いているとはどんな気持ちなのだろうか、心の拠り所がある人間は中身も洗浄されているものなのだろうか。もう一度患者の女性に目を向ける。包帯に巻かれた顔にもはや表情などない。


「妻が事故に遭ってここに搬送されたと聞きました! 彼女は無事なんですか!? 会うことはできますか!?」

 きれいに分けられた濃い茶色い髪に、引き締まった顔、最高品質の生地ではないが、身体に合ったオーダーメイドのスーツ、身だしなみに気を使い、生活の質を良くしようと努力する、そういったタイプの男性が慌てた様子で入ってきた。左手の薬指には彼女と似た指輪。なるほど、容姿の面でも理想的な夫婦だったのだろうというのを感じさせた。私は彼を落ち着かせて名前を聞き、奥さんの代替部屋に案内した。

 そこにはきれいなままで器具もつけられず、ただ清潔なベッドで横になっている。まるで何事もなかったかのように眠っている奥さんは事故などなかったかのように瑞々しかった。

「何事もなかった? 怪我はひどいって聞きましたが、胴体より下が問題なのでしょうか」

「落ち着いて下さい。奥さんはサブロゲーションプラン対象となっています。現在目の前にいるのはシミュラークルボディと呼ばれる奥さんにそっくりな機械人形です」

「人形!?では妻は、本物の妻はどこに居るんですか!? 会わせてもらえないのですか?」

 落ち着きを見せるための端正な服が錯乱する様子は些か滑稽だった。ただ、それだけに切羽詰まった彼の気持ちを表していると言えるだろう。彼は今しも私に掴みかかりそうな勢いで迫ってきた。

「どうか落ち着いて下さい。大変申し上げにくいのですが、奥様は顔面部の損傷が激しく、また意識も戻らないため、集中治療室に隔離されております。サブロゲーションプランというのはそういった重症の患者さんの痛々しい姿をご家族に見せずに、この機械人形を置くことによって心にワンクッションを設けることができるのです。恐らく実際の奥様をご覧になったときの精神的ショックは想像を絶するものになるでしょう。そういったご家族様の心的ダメージをケアすることがこのプランの意義するところです」

「でも、こんなのでは見舞いに来た意味がない。触れて、声をかけて、応援することすらできないじゃあないですか。」

「シミュラークルボディはご本人様と五感を共有しています。話しかければ本人の耳に届きますし、手を握ればその手の優しい包容、その圧力、体温なども伝えることができます。離れながらにして奥様を励まし、寄り添うことができるのです。勿論本体である奥様が行動すればシミュラークルボディは反応して同じ動作を行います。現在は昏睡してらっしゃるので、動きはないですが、毎日声をかけてあげて、そのぬくもりを伝えてあげて下さい。奥様が目覚めれば、旦那様に包容を返してくれるかもしれません」

 私は仕事で身につけた、打ち拉がれた者に対する心を緩和させる声の抑揚、手足の仕草を使って彼をなだめた。彼は少し落ち着きを取り戻したように静かにうなずき、シミュラークルボディのその手を取り握りしめた。

「真弓頑張って。明日は灯花も連れてくるから」

「それでは藤堂四郎さん、私、藤堂真弓さんのサブロゲーションプラン担当の看護師の藤島連と言います。主治医は伊藤悟です、病状の説明などは私でもできますが、詳しいことをお聞きになりたい場合は主治医に気軽にお尋ね下さい。これから奥さんの治療やご家族のケアに全力を尽くさせて頂きますね」

 自分でも惚れ惚れする柔らかい声、相手の傷口に染みていくような優しさがにじみ出ている。たとえそれがプラスティック製だとしても相手にその違いなどわからないのだ。私の心はどこか浮かれていた。四郎さんの眉間のしわに水玉を垂らしたら、鼻筋にきれいな線が引かれるかしら。


 人間というのは得てして健康という奇跡に甘んじている。歩けなくなったとき初めて、朝起きて散歩に行くことの奇跡、幸福を知ることになる。目が見えなくなったとき初めて、スマートフォンでくだらないSNSの投稿を流し見していた奇跡に気づく。それは当事者でなくともそうだ。近しい人間の健康の喪失は周辺の人間に健康の奇跡を思い起こさせる。

「ママ、寝てるの?」

 五、六歳くらいの少女が四郎さんに手を繋がれながらシミュラークルボディを見て言う。シミュラークルボディは体格は規格のものを選ぶが、頭部は患者の健康時の姿を完全に模している。今や機械人形と人間の容姿の間には不気味の谷はない。

「ああ、灯花、声をかけてあげて」

 少女は四郎さんの手からするりと抜け出て、ベッドに駆け寄ると恐る恐る胸に頭を乗せる。

「どくんどくんってしてる」

「え」

 四郎さんは面食らったように言って、私を見る。私はそれが当たり前のこととしてただ優しく頷くだけだ。

「ママ、はやくよくなって」

「ここに居るママは、本物のママじゃないけれど、本物にもちゃんと声が届いているから、灯花はママを沢山応援してあげて」

 灯花ちゃんはこの真弓さんが本物なのかどうなのかわかったのかわからないのか判然としないが、シミュラークルボディに静かに抱きついている。小声で四郎さんが私に話しかける。彼は相変わらず身体にあった綺麗なシルエットの服を着ている。

「正直な話、目が覚める確率はどれくらいなんでしょうか」

「大変辛い話になりますが、先生の話では明日目が覚めることもあれば、何年後になるかわからない、という状態だそうです。どうか希望を捨てず辛抱強く励まして上げて下さい」

「怖いんです、娘も自分も事故にあえばいつこうなってもおかしくない。そう考えるとたまらなく怖い。お金が必要ならいくらだって用意します。代わりに傷を負って助けられるなら助けてあげたい。けれど、たまらなく、無力なんです」

 部屋の明かりは人の心境も知らず煌々と照っており、あけすけに明るい。木目を基調とした床が清潔な室内で温かい家を思い起こさせる。どれもこれも、このシミュラークルボディの綺麗さも四郎さんの懊悩と比較すると馬鹿みたいに楽観的だった。私は仕事特有の優しい声を作って、彼を慰める。

「無力なんかじゃありません、孤独が人を殺すことがあるのです。愛してくれる人が居る、待っている人が居るから人は戻ってこられるのです。」

 また眉間にしわが寄っているよ、和らいだ苦悩が新しい苦痛を呼ぶように四郎さんは考え込む。そして「ありがとうございます」と弱々しく口の中を捻った。

 弱っている人間が好きだ。普段涼しい顔で過ごしている、悩みもなさそうなポジティブな人間の弱っている姿が好きだ。そして私は弱っている人間を優しくしてあげるのが好きだ。重症の人間や死に慣れてくると、健康の奇跡などどこか薄れていく。私の不安定な日常への倦怠が、心のなかで渦巻く幸福な人々への仄かな胆石のような嫉妬が、心のなかでじくじくと痛むたびに人に優しくしたいと思える。そこには刹那的な優位性が存在している。

「真弓、また来るからな。もし僕らがいない間に目を覚ましたら連絡を下さい」

「はい、もちろんです」

 いじらしいものだ。


 四郎さんはそれからも欠かさず娘の灯花ちゃんを連れて毎日来た。毎日十八時頃、病室に来て、手を握って、今日の出来事を話しかける。暗い話や愚痴はなくなるべく明るい話題だ。この時間に来れるのは余程ホワイトな会社なのだろう。もしくは無理して退社してきている? しかしそうだとしたらそんなに毎日続けられることではない。いずれ社内から信頼を失って解雇される可能性だってある。それほど奥さんが大事なのだろうか、顔も潰れてかつての美しさは見る影もなく、動けない奥さんを愛する理由がわからない。幸福な家庭というのは、生活が崩れても愛はそのままの熱量を保っていられるものだろうか。私が見てきた限りでは、愛もエントロピーの法則には逆らえない。疲弊し感情は乱雑化し、いずれ愛は熱を失う。この家族もきっとそうなるだろう。きっとそうなって欲しい。

「ママ、今日も寝てるね」

「そうだな、疲れているんだよ。でも灯花の話はちゃんと聞いてくれているよ」

「幼稚園で今日清良セイラくんがボールを貸してくれたんだけど、わたしボールいらないから砂場に置いて行ったの、そしたら清良くんがそれを片付けて先生に褒められてた。わたしが片付けてたらわたしが褒められたのかな。パパお腹すいた」

「ああ、わかった、今日はもうごご飯にしようか。看護師さん、今日は帰ります。またよろしくお願いします」

「はい。ご安心下さい、しっかりお世話させていただきます」

 子供は正直だ、見舞いに来ても飽きたらその気持をはっきりと伝える。大人は情やなんだと周囲の目を気にして決してそういった不義理な理由でその場を離れない。誠実さの区切りを付けない限りは自分が薄情者になったと思ってしまうのだろう。私はそんなこと気にしないのに。私がここを離れないのは仕事だから。情ではない。人間が誠実であろうと努力する姿は、上辺を繕う所作に似て、私はむしろ浅薄さを感じる。その浅薄さに人間的な非合理性を見て嬉しく思う。私はこの仕事に向いている。


「看護師さんこんにちは!」

 灯花ちゃんがこちらに駆けて来て挨拶をした。仕草から懐かれているのがわかる。

「こんにちは灯花ちゃん、幼稚園は楽しかった?」

「おうた歌ったよ! 一番大きい声で歌えましたって褒められた!」

「すごいわね、将来は歌手になるのかな」

「テレビ!? 出たい!」

「灯花ちゃんならきっと出られるよ」

「うん!」

「こら灯花、ママにもちゃんと報告するんだよ。すみませんどうも」

 少し遅れて四郎さんも病室に入ってくる。少しずつだが、こちらも私に少し打ち解けてきた様子が伺われる。

「いいえ、灯花ちゃん可愛らしいですね」

「看護師さんのこと好きみたいで、最近は妻に会いに行くのと看護師さんに会うのどちらも楽しみにしているようです」

「私も灯花ちゃんが好きですから嬉しいです」

 これは本当の気持ちだ。子供に好かれるのは気分がいい、純粋に人を見て素直に反応するのだ。それだけ私のペルソナが強固に機能しているということの証左にほかならない。幸せな家庭が窮地に立たされて、その余裕ぶった態度が崩れるところが見たいという欲求が仮面の隙間から漏れ出ないように注意を払って仕事に臨んでいる。確かに、余裕ぶった態度が崩れない人間も居る。そういう人間は外見を気にしすぎる傾向があり、人から見られた際の自分というものに固執して情というものを何処かに置き去りにしている人間。それはそれで人間らしくて良い。どちらに転んでも私には喜ぶべきことだ。

 二人は今日も奥さんのシミュラークルボディに話しかける。私が言ったように、手を握ったり、抱きしめたりしながら今日あった出来事を話したり、励ましの言葉を送る。素直な家族だ。良い家族なのだろう。なんの問題もなく、幸せに暮らしていた家族。家に帰れば奥さんと娘の温かい抱擁が待っているような絵に描いたような生活をしていたのかもしれない。私は孤独な自分の生活を思い起こして、その比較の中に影を感じた。幸せな家族の乱れは私の影が薄まるような思いで気分がスッとする。

 奥さんの手を握る四郎さんの眉間のしわ、心做しか和らいでいるように思う。エントロピー。この状況に徐々に慣れてきているのだろうか。足を運ぶ回数が減り始める頃合いだろう。いつまでも毎日来るわけには行かない、彼らにも生活があるのだから。彼らを眺められなくなるのはさみしい。立ち上がって奥さんと灯花ちゃんを眺める四郎さんに私は近づく。四郎さんの手を取って愁眉を込めた表情で彼を覗き込む。

「大変ですよね、私にできることがあれば何でも言って下さい。四郎さんのためになりたいんです」

 四郎さんは少し驚いた顔をしてから急いで取り繕ったように視線を外した。手は握ったまま振りほどかれる気配はない。お互いの手のぬくもり、汗からは仄かに性的な香りがする。しばらくそうしていたあとに、灯花ちゃんが「パパ帰りたい」と言ったので、四郎さんは「また来ます」と言ってお辞儀をして去って行った。私は一人残された部屋で、しばらく窓の外を眺めたあとに奥さんのシミュラークルボディを一瞥した。私の仕事の喜びは一時の渇望を満たすことはできても、恒常的にある心の渇きを癒やすことはできない。家に帰って、猫を撫でているときだけ、私は心が無になる。そのときだけは私は私以外のものを慈しんで生きることができる。四郎さんをもっと近くで見たい。


「偶然ですね、こんなところで会うなんて」

「あら、四郎さん、本当ですね」

 病院から少し離れたスーパーで買い物をしていると四郎さんがいた。当然のことだ、意図的に場所と時間を合わせたに過ぎない。四郎さんをもっと見ていたかった、彼は私の心の影を薄める仄暗い心の悩みを抱えている。彼を近くに感じたい。

「せっかくの御縁ですから良かったらお茶でも如何ですか、看護師さん」

「藤島連です、藤島で結構ですよ。ええ是非お誘いお受けします」

「それでは藤島さん行きましょうか」

 向かったのは四郎さんの行きつけというスーパーから少し歩いたところにある喫茶店で、店内は十席程度あり、暗いウッドの色が清潔感と高級感を出している。豆の香りが入ってすぐに鼻腔をくすぐり、特有のリラックスした気分になった。私達は窓際の四人がけの席に座ると、四郎さんのオススメというオリジナルブレンドのプレスを注文した。しばらくして出てきたコーヒーは酸味の薄い濃厚な味だった。ドリップではなくプレスで淹れているため豆の油が残り濃厚で香り高い。

「お店でプレスで淹れている店なんて少ないでしょう。ドリップのほうが技術がいりますしプロっぽいですもんね。でもたまにはこういうワイルドなプレスの味が恋しくなるんです」

「確かに家で淹れるにもドリップかエスプレッソのサイズで挽いてもらうことが多いですから、プレスのために粗挽きで注文するのことは少ないですし、珍しい飲み方ですわね」

 私達はそう軽く言葉を交わしたあと、しばらく無言でコーヒーを啜った。気まずい沈黙と言えなくもない時間だったが、私はこの時間を確かに楽しんでいた。心が複雑に動いて、感情が乱れる直前の凪の時間。ここから波がさざめき出すのを神経を尖らせてその波紋の始まりを指先で感じるこの瞬間がたまらなく良い。先に口を開いたのは四郎さんだった。

「妻のことは、不安でしょうがないんです。意識が戻らなかったらどうしよう、残された私達はどうなってしまうのだろう、妻はどう感じているのだろう、ただ眠りの中にいるのか、それとも何かを感じながら横になって動けないのか、とか、色々考えて睡眠時間が減ってしまっています」

「お気持ちお察しします。ご家族のことですもの、不安になるのは当然です。しかも家を支える奥様のことですから尚更。現状は意識がないので眠っているような状態です。意識不明でも夢は見るようです、言葉や手を握るなどの外的刺激は、彼女に家族の夢を見させるかもしれません、そして帰って来たいと思うことがあるかもしれません。すみません、でもこれはポジティブな可能性の話であって、そうでないこともあります」

「看護師さん、藤島さんがお休みのときにすらこんなことを相談して申し訳ないです」

「私は仕事だろうがプライベートだろうが、四郎さんが心配なのは変わりませんよ」

「それは何故ですか」

 ずいぶんストレートに質問するものだ。私はこの家族の終わりまで見たいのだ。だから答えは一つでしかない。

「家から離れたスーパーで待ち伏せするような感情をご存知ですか。正直に言うのは少し恥ずかしいですね」

 そう言うと四郎さんはすこし困惑した様子になりながらも、それを受け入れるように口角をほんのりと上げた。コーヒーをしきりに飲んで瞬きをしている。

「それは、実はそうではないかと、少し自信過剰になって考えたことがあります、藤島さんの接し方はその、親身と言うか、より親しみを込めた行動が多いように感じておりました、ですが私には妻が」

 そこで言葉を切って少しの沈黙が流れる。妻がいる? あんな状態の人間でも? そう考えているのだろうか、そしてそれは余りにも情に悖る、不謹慎だ、などと思っているのかもしれない。自分の中で生まれた感情に反発しているのだろう。自身のアンビバレンツな状態に一時停止をしているのか。

「私は奥さんを応援しています。けれど、同時に四郎さんのそばにいて、元気付けさせられたら、本当に嬉しいんです。たまにでいいのです、一緒にいさせてもらえませんか」

 そう言って彼のテーブルに置かれた手を握る。性欲に潤んだ女の上目遣い。蓄積された愛情、思い出、そういったこもごもが彼を奥さんに繋ぎ止めるだろう。しかし、ときとして下半身が強い欲求を持って今だけを例外にすることがある。人間の三大欲求の一つは偉大なその地位を誇って、理性と欲望を混同させる。窓の外を歩く人間は多くが前を少なくは足元を見て歩いている。生きていくことは窮屈だ。私は無責任を以て通りの全ての人間に優しくしたい。優しくすると私は良いことをした気になれる。優しくされて嬉しくない人間など居るのだろうか。誰かのいっときの救いになりたい、そうして私を崇めて欲しい。それが何も失わずできるのだから面白い。真に聡い持つ者は相手に不足したものを自分の身から切り落として相手に与えることができるが、そうでない人間は親身になるというおためごかしで自分の優しさを強調し、何も失わずに相手を丸め込もうとする。私のやり方はそういったものだ。そしてその先の無責任による破滅で身を焦がして欲しい。その心が焼ける香ばしい匂いで私の心の鼻腔をくすぐって欲しい。私という爪痕が人の心の中に生まれる。そうやって私は自分を残していきたいのだ。四郎さん、私を見て、問題が問題のまま転がっている状態で私に甘えて。テーブルの手は微動だにしない、私の少し高い体温が彼の冷たい手に熱を伝えているのがわかる。まるで侵食するようだ。

「藤島さん、家にお送りしますよ。お互い疲れているようだ」

 そう言って四郎さんは立ち上がった。コーヒーはとうに飲み終えていた。私はがっかりした、こういった善人こそが私の蜜を吸うのに相応しい筈なのに。不覚ながら悔しさに泣きそうになっていると、四郎さんは私の手を握って立ち上がらせた。

「さあ、行きましょう」


 あとの話は簡単だ、私を家に届けると彼は私を押し倒した。私は性の喜びを存分に堪能して、四郎さんが私から離れがたくするために丁寧に奉仕をした。それだけだ、それだけで十分なのだ。彼のペニスは私を覚えてしまった。それはときに倫理観よりも強い信号を送る。


 私の灰色の日々は彩りを取り戻した。とは言っても性欲を満たしたことによる目のチラつきによるものではあるが。孤独に年齢を重ねることの焦燥感、毎日のルーティンの中に埋没して平均化されていく感情、持つ者への妬みの余り心臓が膿んで嫌な臭いの汁を出す。そういった日々が少しまばゆいものに変わっていたのを感じていた。そして四郎さんは私に会うために病院に通い始めた。私は灯花ちゃんがいない日は病室の隅、監視カメラの目の届かない場所で彼にフェラチオをしてあげた。四郎さんは強く私の頭を抑え付けて絶頂に達するのだ。互いが互いを支配しようとしているのを感じる。だが彼ができるのはせいぜい腕力で私の口をペニスに押し付けることくらいでしかない。寝たきりの奥さんの居る病室でこんなことをして罪悪感はないの? きっとある。あるからどうしようもなく勃起してしまうのだ。病室はお菓子でできた家みたいに甘くて太りそう。その中でシミュラークルボディが黒い点のように存在して、私達の行為に付加価値を与えてくれる。善悪の問題ではない、それが如何に快いか、天秤はバランスを取っているときよりも傾いているときのほうが大胆になれる。そしてその大胆さは人の欲望を開放し、真の歓びに導いてくれるものだ。

「藤島さんと一緒にいると、ホッとします。心の伽藍洞が暖かいもので照らされるような感覚になるのです。確かに僕たちは肉体的一線を越えてしまったけれど、だからこそ伝わる体温があるのです。その温度に僕は感謝している」

「それはこちらも同じです、私達はお互いに渇望していた部分を埋め合っているようですね、私も自分の無色の日々が四郎さんによって色づき始めました」

「僕らは相性が良いかもしれないですね」

「ふふ、そうですね」

 病室の外で会うときはそんな会話もしている。私は本気にならないように気をつけなければならない。私が見たいのは彼との家庭や生活ではなく、彼が可哀想な妻をどうするか、そのときにどのような人間的葛藤が生まれるかだ。

 灯花ちゃんはますます私に懐いてくれた。呼び方も看護師さんから連ちゃんに変わっていた。子供は罪悪感などない。喋って動いてかまってくれる私に純粋に好意を寄せてくれる。懐いた子供は猫みたいで私も無心になれる。


 いつもの帰路で芝生のそばでカラスが集まっている場所があった、嫌な光景だと思って横目に通り過ぎようとすると、そこには猫の死骸がある。私はカラスをカバンを振り回して追い払い猫に近づいて見てみると、それは確かに私の飼い猫だった。外出を自由にさせていた私が悪いのだが、こんなこと一度もなかった。よく観察すると頭部に殴打のあとがあり、その身体の周りにも細かい傷がいくつもついていた。カラスにはさほどやられていなかったが、誰か人間が意図的にやったのは間違いなかった。最近猫を狙って殺して回るガキが居るという噂だったが、きっとそいつにやられたのだろう。なんだってこんな目に遭わなければならないのだ。私は泣きじゃくりながらタオルで猫を巻いて家に連れて帰った。どこの誰かもわからない人間に私の家族を殺されるなんて到底許すことはできない。けれど、復讐するにもその対象が不明なのでは私の憎しみの矛先はどこに向かえば良いのかわからない。今は心がぐちゃぐちゃで眼の前の猫にごめんねと呟くことしかできないのだ。無力感。生命は簡単に壊れてしまう。けれど私達は生活の上で常に危険の前を歩き続けなければならない。嫌だ、一人にしないで欲しい。


「飼い猫が殺されてしまって、家族を失った気分です。悔しいとか、憎いとか、そういうものよりも心が沈んで、もう何も考えられないのです」

 私は喫茶店で四郎さんにそう告白していた。完全に無意識だった。そんなに誰かに聞いて欲しかったのだろうか。誰かに慰めて貰いたかったのだろうか。そんな弱みを見せて良いのだろうか。弱みも相手を繋ぎ止める手段になるのだろうか。いや、そんなことはもうどうでもいい、私は黒い心の慰みを半ば忘れかけていた。ただ、純粋に四郎さんに助けを求めてしまっていた。

「仕事を休んで、藤島さんの家で、あなたが元気になるまでいますよ。灯花も連れていきます。一人でいたらきっと心を病んでしまいます。大丈夫そばにいますから」

「え!?」

 身体だけで繋ぎ止めていると思っていたからこの提案には心底驚いた。それに大事なはずの仕事まで休んで、奥さんのこともあるのに。この人は欲望に溺れても善人であろうとしている。自身を切り落として相手に与える善意である。私は泣いてしまった。心が裸になってしまったのを感じる。無防備な涙を前に四郎さんはただそっと手を握ってくれた。体温が私の手を暖める。戻れないかもしれない、という考えはほとんど目の端でチラついただけで霧散してしまう。私は自分の涙とともに彼に溺れてしまった。


 四郎さんと灯花ちゃんのいる我が家の生活は驚くほど温かだった。生きていく歩みの中で善き人であろうとする人間達による、善良な家族像。私は今までの人生でついぞ手に入れることのできなかった、ずっと嘲笑し、敵視してきたその生活の中で、居心地の良さを感じている。安らぎ、骨が溶けてしまいそうになっている。

「ああ、馬鹿みたい。こんなの上辺だけでしかないのに」

 それでも私は引力に逆らえない水のようにこの生活に流れ広がり浸ってしまっていた。奥さんが目覚める可能性は、わからない、一生あのままであることもありうる。だったらこの生活、ずっと続けることだってできるのではないだろうか。けれど、この生活を続けたいと四郎さんに伝えることは憚られる。「奥さんは助からない、介護を諦めましょう」と言えなかった。それは今天秤から外れている奥さんを再びその盆に乗せることになるからだ。そうなったとき彼はなんと答えるか、私は恐れていることに気づいた。どうかずっとこのまま宙ぶらりんのままでいさせて欲しい。自分が生きていると言うことを認められる快さを、受け入れ続けられているという安心感を、どうかずっと私に下さい。


 いつまでも彼を休ませるわけにはいかない。私達はもとの生活に戻った。しかし変化したこともある。私が彼の家に行ったり、彼が私の家に来ることが頻繁になった。そして、ああ、ついに、病室に来る機会が減っていった。私は内心ほくそ笑んでいた。冷えていく人間の心のあり方に。善き夫であろうとする人間も体温の伝わり方が変われば愛する相手も変わっていく。灯花ちゃんが眠っているときは私達は身体を重ねた。何度も何度も重ねた。このまま混ざり合って一つの人間になればきっとお互いの体温が乖離せずに済むのに。

「何を考えていたんですか」

「ううん、何でもないんです。ただ、猫が死んだとき、一緒にいてくれてありがとうございます。あれがなかったら私は潰れていたかもしれないから」

 四郎さんの手が優しく私の髪を撫でる。

「してあげたいと思ったことをしただけです」

 善人め。妻を捨てて不倫をする人間らしい善人だ。私は彼の胸に手を当てて体温を感じる。

「ありがとう」


 ある雨の降る日、窓の外の水滴が他の水滴と合流して滑り落ちていくのを眺めていたら、四郎さんと灯花ちゃんが久しぶりに見舞いに来た。灯花ちゃんは最初の頃とは違って奥さんに話しかけなくなっていた。返事のない人形に言葉を投げかけることに飽きてしまったのだろう。灯花ちゃんはただ、シミュラークルボディに抱きついて静かにしていた。四郎さんもまた奥さんに話しかけなかった。雨音が、私達を子宮に連れ戻す。その心地よさに灯花ちゃんは寝息をたて始めた。四郎さんは私の手を引いて部屋の隅、いつもの場所に連れて行くと、私をしゃがませた。四郎さんはこうするとき、いつも奥さんに背中を向けている。現実を直視しないようにしているのだろうか。そうしている間だけでも罪悪感が薄れるのか。私は彼に奉仕をする。私もまたこうしている間彼を支配していると感じることができる。お互い安心できるのだ。

 彼のペニスの向こう側、ベッドを見て私は目を見開いた。シミュラークルボディが灯花ちゃんを軽く抱きしめるように左手を彼女の背中に回し、右手で愛おしそうに頭を撫でている。私の手が止まり、視線がそれていることに四郎さんはすぐに気付いた。どうか振り向かないで、そっちを見ないで。四郎さんは振り返るとズボンをサッと上げて、急いで奥さんのシミュラークルボディの方に駆け寄った。なんて情けない姿。

「真弓!」

「四郎?」

 私は先生に連絡して、奥さん本人の治療室に向かわせた。奇跡的な意識回復。人の心が離れて、飽きて、移ろい行くとき、新しい愛が育まれる直前に戻ってきて、この患者は私から全てを奪っていく。キレイに整えられた爪、清潔な服、艶のある髪の毛、欠点である潰れた顔もじきにもとに戻るだろう。四郎さんはチラリと私に目を向けて、強めに首を振った。

「真弓、良かった、目が覚めたんだね、灯花、ママが起きたよ、ホラ」

「ママ~?」

 シミュラークルボディは安心したように二人を抱きしめると、再び仰向けになって、静かになった。

「真弓? おい、どうした!?」

「安心して下さい、眠っただけです。意識を取り戻しましたからこれからはどんどん良くなると思いますよ。おめでとうございます」

「そうなんですね、ありがとうございます、良かった、本当に良かった」

 そうして、彼は私に近づくと小声でこう言った。

「私達の関係は終わりです。お互いに不都合になったはずです。藤島さんもよくわかってらっしゃるでしょう」

 そして愛おしそうに機械人形の頭を優しく撫でる。善人? ああ、そうだ人間というのはそういうものだ、一人の人間が与えられる愛には限度がある。誰かを一人愛すると、誰か他の人間への愛を諦めなければならない。彼は取捨選択のできる善人である。私の見たかった人間性だ。私が常に人間に見てきた無責任だ。だから悲しむ必要はない、今回もうまく行ったと喜ぶべきなのだ。見たいものを見れたのだ、自分自身の心が引き裂かれるところを。それを裏切る人間を。外はいつの間にか雨が止んでいて、虹が架かっていた。ハレルヤ。

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