後編 エメラルドグリーンの夏

 タツマの性格はよく知っている。イジワル野郎だ。私が出会った人間の中でタツマは一番根性がひん曲がっていた。

 きっとヨハンが悪いわけではない。あの林にアズールといるときにタツマがやってきたのだろう。それで、猫に興味を持ったタツマにアズールは無理矢理連れて行かれた。

 だけど、タツマはなぜあの林に足を踏み入れたのだろう。そのとき脳内にピシッとヒビが入るように思いついたのは、タツマを連れてきてしまったのは私ではないかという考えだった。

 ついこの間までタツマが興味を持っていたのは私だったのだ。タツマが私をいじめるために後をつけていたとしたら、それであの林にたどり着いて、猫のことを知ったのだとしたら……。すべてが私のせいだと思った。アズールを連れ去られたのも、ヨハンに悲しい思いをさせてしまったのも、全部私の落ち度だった。

 じめじめと湿度が高い夕方で、遠くの空は不気味に赤くなっていて血がにじんでいるような色をしていると思った。ほんのりと土の匂いが鼻まで上がってきていた。近いうちに雨が降りそうだった。私はヨハンが言っていた神社に足を向けた。

 本殿の裏側にタツマたちは陣取っていた。アズールは前足に紐をくくりつけられ、欄干に繋がれていて、しきりに紐を噛んでいる。ミャーミャーと鳴くのが可哀想で心が痛んだ。

 どうして誰もアズールを助けようとしないのだろう。タツマがそんなに恐いのだろうか。いや、タツマは恐い存在だとは思うけれど、それでも……こんなに多くの人間が集まっているのに、ここにいるやつらは誰一人として子猫を哀れむ心がないのだろうか。いつもいじめられているとき取り巻きたちの顔はあまりよく見ていないから、私は一人一人の顔を覚えてるわけではない。

 私は改めて周囲にいる同級生たちの顔を見てみた。なんだが、誰も彼もがぼんやりしたこけしみたいな顔をしている。きっとはっきりした意思がないのだろう。だから、やつらは人間の顔を保つことができず、みんなみんな同じようなこけし顔になっているのだ。

 いじめられるのがいいか、引きこもるのがいいか、それともこけしになるのがいいか……どれも選択としてはいまいちだ。

 私はタツマを見た。周囲をグシャグシャにするとてつもない力を持ったタツマキと相対した。どうにでもなれと破れかぶれになっていたところもあったかもしれない。それを勇気と評してくれる人もいなかったけど、私は大切なもののために嵐の中に飛び込まなくてならなかった。

「子猫を返してくれ」

「ヨハンが俺にくれたんだ。お前に返してくれと言われる義理はねえ」

「その子は僕とヨハンが育てていたんだ。大切にしてきたんだ! そんなふうに雑に扱うのは許せない。返してもらう!」

 私はこのとき人生で一番大きな声を出したかもしれない。威嚇というほどタツマには効いていなかったが、彼はふっと態度を変えた。

「俺のお願い聞いてくれるならいいぜ」

 タツマが私に突っかかることなくすんなりと会話に応じてくる。しかし、タツマはまたあの健康的な笑い方をしている。私をいじめ始めた日とまったく同じ表情を。

 いじめの神様がいるとしたら、タツマとうり二つの顔をしているに違いない。タツマの顔はこけしに見えないのは、タツマは嫌なやつだけど、自我がはっきりしているのだ。それはもう我がままな神様レベルに。タツマの表情から無理難題をふっかけられるであろうことは想像がついた。

「蝉って食べられるらしいんだ。お前ここで食って見せてよ」

 タツマは足元に転がっていた死にかけの蝉をこちらに蹴ってよこした。ギャッギャギャッ……と蝉がわずかに身をよじっている。もう飛べないのに茶色いハネをバタバタさせて地べたをのたうち回る。

「手は使うなよ。ひざまずいて、口だけを使って食うんだ」

 私はなかなか動けなかった。こめかみに流れる汗が暑さからくるものか、それとも冷や汗なのかわからない。

 全身に汗をかいていた。心臓は危険だ逃げろというように早鐘を打っていたし、私も逃げられるものならタツマに背中を見せて逃げたかった。

「僕が蝉を食べたら、アズールを返すって約束してくれ!」

 胃がひっくり返りそうなのを我慢して、私は精一杯の強がりで叫んだ。

「はいはい。約束してやるよ。お前がちゃんとケジメつけたらな」

 タツマは私の決意などどうでもいいようで、早くしろと言うように顎をしゃくる。タツマは、ケジメの意味を知ってて使っているのだろうか。規範や道徳を軽視している彼がケジメという言葉を口にしたことに気持ち悪さを感じた。

 私は吐きそうになるのをこらえて、膝を折り地面に口を近づけた。目前でジジジッと蝉が断末魔をあげている。蝉の黒い腹が上下にうねうねと動いていた。

 うっ……と躊躇したその瞬間、タツマに首元を踏みつけられた。唇に硬い感触がぶつかり、ブチッと蝉の体が潰れる。口の中に苦みが広がった。

「オエェッ! 蝉を食えって言われて本当に食うやつがいるかよ! アハハハハハッ!!」

 タツマは大喜びしていた。私は涙目になりながら地面から頭を起こし、袖で何度も口元を拭った。押し潰してしまった蝉に申し訳なく思った。私たちのことに巻き込まれなければ、もう少し長生きができたかもしれないのに。ごめんなさい。でも、私にはどうしても……蝉の命と自分のプライドを引き換えにしてでも、守りたいものがあった。

「……ゲホッ、これでアズールはっ」

 タツマはケラケラ笑いながら取り巻きたちにアズールを繋いでいる紐を外すように指示をした。そして、アズールの首根っこをむんずと掴んで私の前に掲げてから「おらっ、返してやるよ!」と叫び、遠くに投げた。アズールの小さな体が放物線描いてボールのように飛んでいくのを私はぽっかりと口を開けて見ていた。

 世の中には信じられないようなひどいことをする人間がいるのだと私は身をもって体験した。蝉も猫も人間もタツマにとっては同じなのだ。等しく平等な扱い、それがいいとは全然思わなかったが……。

「お前、今後ヨハンと仲良くするの禁止な。守らなかったら、今度は猫殺してやるから」

 私はヨハンやアズールを守れる人間になりたいと強く思った。だけど、具体的な方法はなにも思いつかない。そのときはただ奥歯を噛みしめることしかできなかった。

 アズールが投げられた直後、激しい夕立が降り始めた。タツマたちは蜘蛛の子を散らすようにあっという間にいなくなった。雨がぐっしょりと私の体を濡らす。私はうずくまっていたアズールを抱き上げて家路についた。

 濡れて帰ってきた私の腕に猫が抱かれていることに母はいい顔はしなかった。だけど、母はすぐに私のためにお湯を沸かしてくれて、アズールのことは見ていてあげるから早くお風呂に入ってきなさいと言ってくれた。温かい湯船につかっていると今日の出来事がワッと思い出されて、水面にボタボタと涙が落ちた。

「お父さん、お母さん、一生のお願いです。オモチャもなにもいらないので、猫を飼わせてください」

 その日、父が帰ってくるのを遅くまで待って私はひたすらに両親に頭を下げていた。初めからこうしておくべきだったのだ。膝の上で拳を握りしめ、泣きながら頼み込んだ。

 小学生の私が早くちゃんとした大人になりたいと思い始めたのはこの頃だったのかもしれない。


 子猫のアズールは私の家の飼い猫になった。英語教室アズールには変わらず英語を習いに行っていたが、ヨハンがレッスンに顔を見せることはなくなってしまった。ヨハンのお母さんである先生になにがあったのか聞かれたけど、詳しくは答えなかった。家で黒猫を飼い始めたから気が向いたら見に来てくれと伝えてもらえるよう頼んだ。

 ヨハンと会えないまま夏は過ぎていった。夏休みが明けて、学校がまた始まる。不幸なことに私へのいじめも再開した。プールの授業が終わると肌をさらす機会が減り、周囲にいじめを感づかれる可能性が低くなるためタツマは夏の間だけ、いじめを休止するようだった。そのことに気がついたのは次の夏にいじめが止み、秋になるとまた始まったからで、本当にタツマは愚かなのに悪知恵が働くやつだとほとほと呆れた。

 タツマは性格以外は非の打ち所がない男だった。秋には各小学校から陸上成績上位者のみを集めた陸上競技の地区大会があったのだが、タツマはそこで優勝していた。六年生になってから、タツマが私立の頭のいい中学校を受験すると風のうわさで聞いた。その結果がどうなったのかは残念ながら私は知らないが、勉強もできるやつだったので問題なく受かったのではないかと思う。

 ヨハンは相変わらず学校には来なかった。アズールがさらわれたあの事件が起きてから、ヨハンは自室からもなかなか出てこなくなってしまったらしい。彼の母親は気丈な人だったが一度だけ私の前で、このままだったらあの子どうなっちゃうのかしらね……とこぼしたことがあった。私は母に頼んで英語教室のレッスンに行く回数を限界まで増やしてもらった。ある日、心変わりしたヨハンがひょっこり顔を見せてくれることを願って、私は教室に通い詰めた。

 六年生の三学期に入る前、私はまた引っ越しをすることが決まった。引っ越ししてしまう前にヨハンに一目でも会えないかと英語教室が終わってからたびたびヨハンの部屋の前まで行って、扉を叩いてみた。だがヨハンは出てこなかった。

「アズールは元気だよ。アズールも引っ越しで連れて行ってしまうから、一度様子を見にきなよ」

「…………できないよ」

 扉越しの会話はいつも私ばかりが喋って、ヨハンは言葉少なだった。

 ごめんよ、僕に怒ってるの? それとも僕が怒ってると思ってるの? アズールはまだ好きだろ? 会ってやってよ、ねえ、ヨハン、ねえ……。

 ヨハンの顔を見なくなってから一年以上が経っていた。すぐに会いに来なかったのに、今さらよりを戻そうとする私にヨハンはどう接していいのかわからなかったのかもしれない。でも、私だって、どうしたらいいのかわからなかったのだ。引っ越しが決まってからようやく重い腰を上げて、ヨハンと向き合おうと思えたのだ。なぜなら、この機会を逃せば二度と会えなくなってしまうと子どもながらにわかっていたから。

 小学生のときはわからないことだらけだった。いや、人生がわからないことだらけなだけか。大人になった今でも、あのときどうすればよかったのかの答えは出ていない。結局、わからないまま手探りで進んでいくしかないのだ。

 私はヨハンに手紙を書いて、彼の母に託した。その手紙には次の家となる場所の住所も書いておいたのだが、彼からの返事が来ることはないまま数年が経ち、私たち家族はまた居を移した。

 夏がくるたび、ふとした瞬間にヨハンのことを思い出す。何年も何年も、私の中で夏といえば花火でもプールでもスイカでもなく、一人の少年と黒猫のイメージなのだ。

 黒猫のアズールはあれから十四年間、私とともに生きた。アズールが死んだ日、あの夏の思い出を知るものがいなくなったことが寂しかった。年月を重ねるたびに淡くなっていく夏の記憶が、アズールが死んだ年は一層遠くに行ってしまったきがした。悲しくてたまらなかったが、アズールを最後まで看取れたことは私にとって誇りだった。アズールを守りきったことでヨハンとの友情も守れたと思った。

 アズールも死んでからずいぶん経ち、私の仕事も落ち着いてから休暇を利用してヨハンが住んでいた家まで訪ねてみたことがある。あの立派な洋館は変わらずにそこにあったが、住んでいたのは知らない老夫婦だった。どうやらヨハン一家も私たちがあの土地を離れてからしばらくしないうちに引っ越しをしたらしい。

 それを教えてくれたのは、小学校時代の同級生の男で私はよく覚えてはいなかったが、タツマの取り巻きの一人だったらしい。私が道を歩いているときに向こうから声をかけてきて、話したいことがあるからと居酒屋まで連れて行かれた。

 昼間からやってる居酒屋もあるのだなと思ったのだけど、話をよく聞くと私に話しかけてきたその男が店主をやっているのだという。

 営業時間外だが、食事でも酒でも好きなものを好きなだけ提供すると太っ腹なことを言い出したので、私は訝しんだのだが、その男に悪い企みはなかった。

 ずっと私に謝りたいと思っていたとビールを飲んでいるときに告げられた。

 ビールの苦みと同時に蝉を口にしたあの日が脳内にフラッシュバックする。たぶん、この男もあの場にいたのだろうと私は理解した。

 小学生のときの過ちを本当に悔いていると言って、男は頭を深々と下げた。震える声で申し訳ありませんでしたと告げられても、私は居心地が悪いだけだった。そもそも私はこの男のことを覚えていないのだから、謝罪をされてもあまり心に響かない。これがあのタツマであればいくらか胸もスカッとするのかもしれないが、タツマならば絶対に謝罪などしないし、きっと私に悪いことをしたとも思っていないだろう。道徳を気にしない人間ほどこの世は生きていくのが楽そうだと男の白髪交じりの頭頂部を見ながら思った。

 私は男にヨハンの行き先を知らないか、尋ねた。どこに行ったか詳しいところまでは男は知らなかったが、ヨハンが日本を離れ遠い外国に引っ越したことは教えてくれた。

 私はもう一つ、タツマのことも聞いてみた。彼の人生はどんな調子なんだい、と。

 男はバツの悪そうな顔をしていた。その顔を見ただけで私にはタツマが成功してなに不自由なく暮らしていることを察した。

「まあ、そういうものだよね」

 ビールを飲み干し、息を吐き出しながら言った私の言葉に同級生だった男は黙った。私は深刻そうな彼の顔を見て笑ってしまった。彼はもうあの神社のときのようなこけしの顔をしていなかった。正しく人間の顔をしていて、この顔なら覚えていられると私は思った。

「あはは、私は幸せだよ。だから、君も気にせず幸せでいなさい。過去は変わらないのだから、今を楽しんで」

 私が短い旅で手に入れたものは、それで全部だった。けれど、訪ねる前よりも幾分か私は良い気分になっていた。

 ヨハンは遠くに行ってしまったようだし、私をいじめていたタツマは天罰が当たることもなくのうのうと生きている。客観的に見れば、あまり喜べない情報しか私は手に入れられなかったのかもしれない。だけど、私はそれでも行ったかいのある良い旅だったと感じたのだ。


「お父さーん、いつまで書斎にこもってるのー? お母さんがスイカを切ったから、食べましょって!」

 今年、小学五年生になる娘が階下から声を張り上げて私のことを呼んでいる。この間、家で犬を飼えないかとおねだりしてきた。私は犬より猫がいいと思ったけれど、娘の意思を尊重してやりたかったので、ちゃんと世話をするならいいよ、生き物を飼うのは大変だし最後まで責任を持って育てなくてはいけないよと答えた。自分が小学生のときに聞かされたのと同じ台詞を言っていて、なんだか変な感じがした。

「もうっ、お父さん遅い! スイカぜんぶ食べちゃうところだったよ」

「ごめんごめん」

 縁側に妻と娘がスイカの乗ったお盆を挟んで座っている。私は娘の隣に腰かけた。まだ反抗期とやらは始まっていないので、嫌がられることはない。

「いまね、お母さんと犬の名前を考えてたの。お父さんはどんなのがいいと思う? スイカって名前はなしね、いま却下したところだから!」

 シャクリと瑞々しいスイカにかぶりつきながら、ちょうど提案しようとしていた案を先回りで潰され、私は言葉に詰まった。

 アズールのときはほとんどヨハンが名前を決めたようなものだった。娘の名前も妻がこれがいいと出してきたものにいいね、と言って同意した。振り返ってみると私は誰かに名前をつけたことがなかった。

「ええ……そうだなぁ、お父さんは……」

 そのとき夏の風がスッと吹き抜けていった。庭に生えた青い草の匂いが鼻腔に到達すると同時に私はあの緑色を思い出す。エメラルドグリーンのまさに宝石のような美しいあの眼を。

「ヨハン……なんて名前はどうかな」


終わり

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エメラルドグリーンの夏 棚霧書生 @katagiri_8

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