魅惑の少女 誘惑の吸血鬼

神宮 雅

第1話


 まるで、夢の様だった。目の前に広がる光景が。耳元で囁かれる魅惑の声が。鼻腔を擽る甘い匂いが。舌の上に広がる痺れる感覚が。指の一本一本に絡みつく指が。全てが、夢の様だった。

 目の前の少女の顔が離れてゆく。物足りない。追いかける様に伸ばした顔が、いつの間にか解けた指に止められる。暖かい唇とは違い、程よく冷たい指の腹に、思わず舌が伸びる。だが、その前に指は離された。

 まるで、夢の様だった。寧ろ夢であって欲しかった。夢であれば、これ以上に幸せな事などないのだから。

 窓から差し込む月光が2人を照らす。少女の瞳は宝石よりも美しく輝き、残酷なまでに美しい三日月を更に残酷に映し出していた。その口元は、ただ優しく微笑んでいた。

 まるで、夢の様だった。この時間が一生続けば良いのにと天に祈る程、幸せな時間だった。再び近付く少女の顔に、今の願いを取り消した。僅かに開かれた唇から覗く鋭利な牙が、夢を現実に変えてくれるから。

 まるで、夢の様だった。だった。それは過去で、未来で、今の話。夢に夢見た夢の様な現実の話。少女と少女の夢物語の備忘録。

 ──夢と願った御伽話。


ーーーーーーーーーー


 メリーは孤児だった。赤子の頃に捨てられた、親の顔も苗字も知らない、珍しくもないありふれた孤児の1人だった。

 ただ、彼女には力があった。他の人が持ち得ない特別な力が。その力は誰も知らない。孤児院のシスターも、神父も、彼女本人でさえ、気付きもしなかった。だからメリーも他の兄妹同様、口減しの為に神父に売られた。元々、金銭に余裕は無かったのだ。いずれ、そうなる運命だった。

 金銭に余裕が無い。そう記述したが、実際は孤児達を養える程度の金は問題無く調達出来ていた。国からの補助金に、信徒からの御布施。近隣住民による食材の提供や、孤児達にも出来る仕事の斡旋。それなのに何故、口減しをしたのか。

 神父は神父であって、善人では無かったからだ。

 補助金は、建物の修繕やライフライン、孤児達の生活用品で大半が消え、残りが神父の手元に残る。それは、孤児院としては好待遇な方だった。

 信徒からの御布施に関しては、半分近くは教会本部に送金されるが、残りは神父の懐に入り、そこからシスター達へ給金が支払われる仕組みだった。

 近隣住民からの食材提供のお陰で補助金は浮き、手伝い程度の仕事で孤児1人の1食分の給金が神父に渡されていた。

 大金とまではいかないが、神父の懐にはそれなりの額が納まる仕組みだった。だが、神父はそれだけでは満足出来なかった。

 最初は生活用品を削り、次に食費を。それでも満足出来なければ孤児の給金を。最終的にはシスターへの給金を渋り、送金の額を誤魔化した。

 それなりだった金は、やがて大金となった。それでも、神父は満足しなかった。だから、孤児を売った。欲した者達に、欲した人材を。裏で、表で、偽りに偽りを重ねて売り捌いた。

 メリーもその中の1人。だが、メリーは心の底から喜んだ。孤児院に残った血の繋がらない兄妹達の為になれたのだと。これで、孤児院が続けられるのだと。それが嘘だとも知らずに。

 売られ先は、学の無いメリーでも知っている程の有名な貴族の屋敷だった。その事に幼心にも驚いたが、それ以上に喜んだ。貴族はお金持ち。きっと、孤児院にお金をたんまり入れてくれる。だがその金は全て、神父の懐に入り、意味も無く溶けるだけだ。

 貴族の名前はミストウルフ。大昔に霧の森に棲む大狼を討伐し、今も尚、武人の家系として名を馳せている、獣の名を冠した大貴族だ。だが、学の無いメリーはそんな事は一切知らず、ただ凄い貴族という認識でしか無かった。

 噴水やガゼボがある大きな庭。それよりも遥かに大きく、今まで見た建物よりずっと高い屋敷。どこからか香ってくる花の香りは、孤児院に飾られた赤い花しか知らないメリーにとって、とても胸が躍る香りだった。

 兄妹の為とはいえ心の奥で、なんで自分が。と憎んでいた感情は、すぐに消し飛んだ。本心から売られて良かったとすら思った。そして、これからここで働ける事を誇りに感じた。

 メリーは、自分よりもずっとずっと大人で、召使なのに自分よりもずっとずっと良い服を着ている女性に連れられて屋敷の中に入り、ある一室に入れられた。

 絵本の中ですら見たことの無い、煌びやかな部屋。そこには、メリーと同い年位の少女と、その父親らしき男性が、豪華なソファの上で座って談笑していた。

 メリーは男性達を見て、この屋敷の当主とその娘なのだと理解した。そして、孤児である自分が、自分を買ったお貴族様の前である事を理解し、その場に膝を突くと床に額を付けた。

 彼女が出来る、最大限の敬意を示す行動だった。それを見て、男性は和かに頷いた。隣の少女は、メリーに対して興味すら抱いていなかった。

 品も知性も感じられない無様な土下座。これがただの平民であれば、男性は首を刎ね落としていた。だが、そうしなかったのは、メリーが少女であり、孤児だったからだ。だったからこそ、心に広い男性は怒りを鎮める様に笑みを浮かべながら頷いたのだ。

 男性は、自分の事をご当主様とメリーに呼ばせる。そして、メリーを買った理由を伝えた。

 隣にいる娘の専属の下女として、同い年のメリーを買った。そう、メリーに伝えたが、それは建前だった。

 男性の本来の目的は、メリーを娘の影武者として。そして、側仕えを装った護衛として“教育”する為に買ったのだ。幼いメリーが貴族に買われる理由としては、とても健全で優しいものだろう。それが例え、メリーにとって死んだ方がマシだと思える位に地獄だったとしても。

 買われたその日が、メリーにとって一番幸せな日になるだろう。温かい水で身体を流し、綺麗な服に身を包み、暖かい食事を腹が満たされるまで食べ、自分しか居ない部屋で洗われ干された毛布に包まり眠る。孤児院にいた時は出来なかった事が、満たされなかった心が、メリーの頬を濡らした。

 翌日から、メリーの教育は始まった。午前は座学。初日という事もあり、先ずは語学と歴史、礼儀作法を徹底的に叩き込まれた。メリーは地頭も悪くなく、勉学を学べる事に喜びを感じており、教師である女性に早い段階で好かれた。女性が言うには、ティアラ……メリーの雇い主となる当主の娘より真面目で飲み込みが良く、教え甲斐があるそうだ。

 午後は地下室での訓練。こちらも初日という事もあり、最初は基礎的な体を作る為に肉体を苛め抜いた。元々、肉体労働や孤児院での手伝いをしていたメリーにとっても、その訓練は過酷なものだった。人によっては過酷なんてものでは無い。少女にやらせるものですら無い。だが、メリーは弱音を一つも吐かずに喰らいついた。だからだろう。訓練官の男性に気に入られ、訓練後に角砂糖を一つ渡された。その角砂糖はメリーにとって、とても甘く幸せな味だった。

 訓練後は温かい湯を張った桶とタオルで汗を拭く。孤児院では中々出来ず、出来たとしても冷たい水。それは、冬場であっても変わらなかった。

 その後は食事の支度。だが今のメリーには、貴族の食事を作らせる為の技術も信用も無い。野菜の皮剥きすら、素材が駄目になるからと、料理長はやらせようとしなかった。だから、ただ見てた。邪魔にならない端の方で、台の上に乗りながら。

 とても、嬉しかった。彼らの元で料理が学べる事が。こうして、基礎を学ばせてもらえる事が。メリーはとても嬉しかったのだ。その表情に、料理長の男は鼻を鳴らして外方を向いた。

 調理の見学が終われば、作られた料理の毒味を兼ねて食事の作法を学ぶ。今まで食べた事の無い贅沢な食事。ティアラと同じ背格好に育てる為、食事はティアラと同じ物、同じ量を食べなければいけない。それは少女にとって、死んでも良いと思える位の贅沢だった。

 勉学に訓練、礼儀作法に調理。孤児院の出では、死んでも学ぶ事が出来ないものばかり。ただの平民ですら、大半は学ぶ事は出来ない。メリーは自分の境遇を恨んだ事は無かった。だが、幸せだとも思わなかった。だが今は、とても幸せだと感じている。

 翌日も、その翌日も。勉学に訓練、作法に調理。少女であるメリーの体は、それでも壊れる事は無かった。頑丈な子だと、メリーに関わる者は関心し、喜んだ。


 一月が経った。長い様で短く、やはり長い一月。少女の存在は、屋敷の者達にとって当たり前となっていた。その頃には、メリーも雇い主である当主が如何に凄い人物であるのか理解していた。

 雇い主であるティアラとは、時折顔を合わせる程度で、まだ真面に話した事は無い。当主に関しては、そもそもメリーが顔を合わせられる立場の人では無い。

 メリーは頭を抱えた。買われた理由とは違う生活を送り、ただただ、幸せで贅沢な暮らしに慣れてしまうのではないかと。だが、その悩み自体もまた贅沢。メリーは悩みを心の内に仕舞い込み、既に日課となった勉学に励む為に、教師である女性の元へ向かった。

 何に使うか分からない部屋が数多く並ぶ中の一室。いつも通り、孤児院の玄関よりも大きく、枚数の多い扉。最初の頃は、全体重を掛けて引っ張らなければいけなかったその扉を、軽く体重を掛けて引き開ける。その部屋の中には、いつもと違いティアラが居た。勿論、教師の女性と共に。

 メリーは思わず息を呑んだ。緊張の所為では無い。怖気付いた訳でも無い。目の前の少女に、同い年の少女に、雇い主の少女に見惚れたのだ。

 ティアラもまた、メリーに見惚れていた。最初に来た時は薄汚く、痩せ細り、知恵も知識も無さそうな家畜だった少女が、身嗜みを整え、健康的な身体になり、活力のある可愛らしい同年代の少女に見えたから。

 そんな2人を見て、教師は固まってしまう。驚いた訳では無い。今日からティアラと共に机を並べる事を、メリーに伝え忘れていた事を思い出し、固まっていた。

 教育したとはいえメリーは未だ子供。そして、令嬢であるとはいえティアラもまた子供。粗相に癇癪を起こし、少女の首が飛んでしまうかもしれない。そう考えた教師の女性は顔を青褪める。だが、その考えとは裏腹に、少女達は互いに恥じらい、互いに言葉を交わし合い、距離を詰めた。

 授業も終わり、午後になると、少女達は別れを惜しんだ。教師の女性が落ち込む少女達に、明日から一緒に授業を受ける事を伝えると、少女達の顔に花が咲いた。

 訓練の方も一月が経った事により内容が変わった。前までは、訓練という名の体力作りだったが、素手や暗器を利用した武術の指導に入っていく。孤児であったメリーにとって、対人戦闘は切っても切り離せない物。武術の心得は無くとも、人体の急所や関節の理解は同年代の平民の少女よりも豊かだった。そして、少女であるが故に、飲み込みも早かった。天賦の才とまではいかないが、育成次第では秀才と呼べる程の才能があると、訓練官の男性はメリーを評価した。

 訓練における一番の変化は、時間短縮だった。今までなら、夕食前まで訓練を受ける筈だったが、その時間は半分となり、残りの時間は給仕見習いの為に地上に出る事になる。

 屋敷の隣にある、給仕や従者が住まう別館。孤児院よりも大きく豪華な建物であり、ここに来た頃はその別館すら貴族の使用する館だと、メリーは思っていた。当主の召使である者達が何故、この様な豪華な屋敷に住んでいるのか。それは、当主がそれだけ金や権力を持っているのだと、周囲の貴族達に見せつける為だ。と、教師の女性から聞いていた。

 別館の前には、メリーを待つ1人の女性がいた。女性はメリーを見ると鼻を鳴らし、付いて来いと言わん視線を送って屋敷に入っていく。

 当主が住まう屋敷と遜色無い綺麗な内装。メリーは女性に付いて行くと、1つの部屋に通された。

 そこは、給仕達の仕事着……給仕服専用のクローゼットだった。女性はメリーに合うであろう給仕服を数点見繕い、メリーの身体に当てて着せる服を選ぶと、メリーにこの場で服を脱いで着替えろと命令した。

 メリーはその言葉に素直に従い、恥ずかしげも無く自身の身体を女性に見せ付けながら、給仕服を身に付けた。女性の頬は若干赤く染まっていた。

 女性がメリーに対してここで着替えろと言ったのは、新人に行ういつもの嫌がらせだった。この屋敷で働く少女達の通過儀礼と言って良い。女性もここに来た頃、当時の先輩にやられて一悶着を起こしていた。

 この屋敷で働いている者達の殆どは、当主よりも爵位の低い貴族の子供。プライドだけは高い子供が、自分と同程度……場合によっては、自分よりも格下の相手の目の前で、命令されて服を脱ぐ。それは、途轍も無い屈辱。しかも、座学や習い事ばかりで贅沢三昧の少女達の身体は、そこで働く者達にとって笑いの見世物だった。今回も、先に自分だけだらしない身体を拝んでから、他の者に見せて共に笑おうと策略していた女性は、今回だけは他の者に見せるつもりは無かった。

 女性はメリーを連れて、給仕や従者が休憩している広間に向かった。当たり前だが、この館は女の園。男児の姿は何処にも無い。男児は男児で、別館が用意されている。

 広間では、十数人の給仕達が机を囲んで茶を嗜んでいた。女性はメリーに名乗る様に命令すると、メリーはその場に一歩踏み出し、平民の挨拶を皆にした。その仕草に、その場にいた給仕達は血相を変える。何故、貴族の職場に平民が紛れ込んでいるのか。と。

 口調は穏やかだが、苛烈さが滲み出た物言い。それでも、メリーは気にする事なく、挨拶を終えて女性を見る。女性は、メリーの生まれに興味を持たずに、その場にいる給仕達に宣言した。

 これは自分が面倒を見る。と。それが、給仕の女性の最初で最後の権力行使だった。その事は、この場にいる誰も、メリーでさえも知らない。

 皆、大変喜んだ。平民の相手などごめんだ。と。損な立ち回りを回避出来た。と。女性は、そんな少女達を見て、馬鹿な奴らだと心の中で嘲笑った。

 女性はメリーを連れて広間を出ると、初日だからと屋敷の案内と仕事の内容の説明に時間を割いた。基本は屋敷全体の掃除。それに加え、庭の手入れや接客、調理に治療に裁縫と、様々な仕事を複数の組で入れ替わりながらこなしていくのだと、メリーに教えた。

 ただ、女性はただの給仕では無く、複数の組を仕切る給仕長の1人。固定の組に属するのでは無く、手の足りない組の手伝いに、帳簿や人員の管理といった数多くの仕事を熟す立場である。本来なら、何処かの組にメリーを入れる決まりなのだが、女性はそれでも自分の元に置くと他の長に駄々を捏ねた。結果、メリーの仕事量が増える事になった。

 案内を終えると、教養を知る為の試験が行われた。文字、歴史、算術。どれも、給仕として働く為に必要な知識だ。だからこそ、新人に試験を行い、必要最低限の教養を身に付けるまでの教育方針を立てる為に、試験を行う。この試験には、貴族だの平民だの関係無い。ただ、当主の為、自身の家の為の試験であり、例外は無い。その説明を受けたメリーは、真剣に試験に取り組んだ。

 結果は好成績。教師の女性から教鞭を賜るメリーにとって、当たり前の結果だった。寧ろ、分からない箇所があった事を恥じた程だ。

 逆に、女性は心底驚いた。平民である少女が、何故ここまでの教養があるのかと。それと同時に、大当たりを引いたと内心喜んだ。

 その後、メリーは料理の修行の為に屋敷に戻る。最近は、皮剥きや皿洗いなどの雑用を任される様になり、厨房の人達と話す機会も増えた。だが、基本メリーが行く時間帯には当主達の食事は作り終えているので、作っているのは従者用の物だ。

 その後は食事と作法。いつも通りの毒味を終え、いつも通りの贅沢な食事を摂る。──筈だった。何故か、食事の場にティアラと夫人の姿があり、今後は一緒に食事を摂る様にと申し付けられる。その日から暫くの間、メリーは食事に味を感じなかった。


 あの日から1年が経った。長く、長い時間。少女の体が見違える程成長するには、十分な時間。メリーもティアラも、共に背髪が伸び、少女と呼ばれる時期もそう遠くない内に終わるだろう。

 メリーは当主の思惑通り、ティアラと同じ背丈に育った。だが、遺伝子の問題か、将又激しい運動の所為か、女性特有の肉を付けるティアラと違い、メリーの肉付きは芳しく無かった。それだけならまだ良かった。問題はそこでは無く、メリーの顔にあった。ティアラの、美しさの上から苛烈を貼り付けた長く切れた瞳とは違い、メリーの瞳は、あどけなさの中に可憐さを散りばめた丸く大きな瞳だったのだ。

 正に、正反対。化粧ではどうにもならない違いに、当主は頭を悩ませた。

 何故か。整形の技術はある。影武者であり使い捨ての駒でしかないメリーに掛ける情も無い。あるのはただ1つ。下心だった。

 当主にとって、夫人は良い妻だった。ただ、妻として良いだけで、女としては好みでは無かった。別に、それでも文句は何1つ無かった。メリーが居なければ。

 当主以外にも、メリーの容姿に下心を抱いていた者はいる。夫人も、その中の1人だった。自分とは正反対の、自分の理想に近い容姿。もし娘であれば、今の娘よりも可愛がっていた。しかし、娘でないからこそ、欲が生まれた。平民で、給仕で、自分に逆らえない少女だから、欲が生まれてしまった。

 ティアラもその1人。素直で、可愛くて、自分と同じ物を学んで、同じ物を食べて。まるで姉妹の様に1年間暮らしていたメリーに、姉妹間で抱く事のない感情を抱いていた。もし、メリーとティアラが姉妹だったとしたら。腹違い、種違いだったとしても、姉妹だったとしたら。ティアラはメリーを単純に可愛がっていただろう。

 教師の女性もその1人。勉強熱心で地頭も良く、最初に出会った時とは見違える程美しく育ったメリーに、独占的な気持ちを抱いていた。毎日の授業を楽しみにしながら、特別な授業を妄想して夜を過ごし、いつの日か、ティアラの存在が邪魔に感じる様になっていた。

 訓練官の男性もその1人。男児ですら根を上げる訓練をやらせても、一切自分の事を嫌いにならないメリーに、単純に惚れていた。手合わせする時に触れる肌。隣で休憩している時の汗の匂い。乗馬中の腰使い。全てが訓練官の男性を魅了し、狂わせた。

 給仕長の女性もその1人。あの日、メリーの裸体を見たその日から欲情に萌え、素直にその欲情に従い、意味も無くメリーを何度も着替えさせた。時には、わざと給仕服を汚し。時には、逆に自分の給仕服を汚して、着替えを手伝わせ。時には、親睦と称してタオルで汗を拭いてやったりもした。

 唯一、料理長だけはメリーに欲情を抱かなかった。欲情では無く、父性を抱いていたからだ。料理長は、メリーの事を本当の娘の様に内心思いながら、日々の生活に幸せを感じていた。もし、彼が本当にメリーの父親であったなら。そうで無くとも父親に名乗りをあげていたら……。

 いつ、何処で、誰がメリーに手を出してもおかしくは無い状況だった。だが、当主に雇われた、当主の所有物であるという理由があったから、誰も手を出さなかった。

 だから、当主が誰よりも早くメリーに手を出した。

 最初は、そんなつもりは無かった。部屋に呼び、メリーを買った本当の理由を話し、その為の教育を進める事を伝えるつもりだった。だが、メリーと2人きりになった途端、当主の理性は失われてしまった。

 肉体的にも立場的にも抵抗出来ない少女の体。理性を取り戻し、我に返った当主はメリーを怖がらせてしまったのでは無いかと、嫌われてしまったのでは無いかと、涙を流して謝罪した。当主としてあるまじき姿。本来であれば小娘1人に見せる物では無いのだが、当主はそれでも謝罪を辞めなかった。

 そんな姿を見ても、メリーは顔色を一切変えなかった。それどころか、行為中……行為以前から、顔色は変わっていない。

 メリーは最初から受け入れていたのだ。部屋に入った時から。いや、それ以前から。この結果を、この結末を受け入れていた。そして、それを喜びと感じていた。

 それから日付が経ったある日。今度は夫人に呼び出された。内容は、いつの日かの為のダンスの練習。それは、分かり易い建前だった。

 挙動不審な当主から聞き出したのだろう。当主が手を出したなら私も。と、夫人はメリーを部屋に招き入れた。夫人の寝室では無く、夫人の為の寝室に。

 建前である事を包み隠す気のない室内。ダンスホールは大きなベッドに変わり、煌びやかなドレスは布面積を減らし、ただ1人の観客の為だけにダンスを踊る。そこには、罪悪感など微塵も無かった。

 またある日。今度はティアラに呼び出された。2人きりで話したい事がある。と。とても少女らしい呼び文句を、視線を逸らしながら頬を赤めて伝えたティアラに、メリーは正面から笑顔で頷いた。

 少女とはいえティアラは貴族。実践こそないものの知識は叩き込まれており、ある程度の実技も済ませていた。そんなティアラは、ただただメリーを抱きしめて、互いの体温を感じながら眠るだけだった。

 次の日、メリーと顔を合わせる事を恥じたティアラは、授業を休み自室に篭った。その結果、教師の女性が今まで抑えて溜めてきた欲望が溢れ出した。

 教師の女性がいつも思い描いていた妄想通りに、特別な授業だとメリーに吹き込み服を脱がせ、身体検査だと言い張って未知なる味覚を堪能した。それも、時間いっぱいまで。無抵抗のメリーに受け入れられたと思い歓喜しながらも、他の人が狙っている事を知っている教師の女性は、今回の件が周囲に知られない様メリーの身体を丁寧に拭いた。

 そして、体温が上がったままのメリーは時間だからと訓練場に足を運んだ。少女から発せられる物とは思えない、色気と匂いを発しながら。結果、訓練官の男性は欲情を抑えきれなかった。

 普段から欲を抱いていた事を吐露し、その様な状態でこの場に来たメリーを叱責し、仕置きであると欲をぶつけた。時折謝罪の言葉を唱えながらも、それでもメリーが悪いのだと愚痴を呟き、メリーの身体を汚していった。

 訓練官の男性は、汚れたままのメリーに服を着せ、そのまま自室に戻らせた。だが、メリーは自室に向かわず、そのまま給仕長の元まで向かった。

 男と女の独特な匂いに、別館に居た他の給仕達がメリーを目で追う。その視線を一先気にする事なく、給仕長のいる部屋に入ると、慌てた様子の給仕長の女性に部屋から連れ出され、給仕や従者専用の風呂場に入れられた。

 彼女は普段から欲情を包み隠さず、メリーに悪戯をしていた。だからだろう、今のメリーの姿を見て、欲ではなく怒りが湧いて出てきたのだ。給仕長だからこそ、メリーの身体を汚したのが当主以外の男性だと分かる。だからこそ、メリーを汚した男の証に、腑が煮え繰り返る程の怒りを覚えたのだ。自分の可愛い後輩に手を出した、愚かな男に。

 来客が来る時以外は使わない、給仕長の私物である石鹸。花の香油が使われたその石鹸は、メリーに染み付いた匂いを消して、新たな香りに上書きさせる。

 今日は部屋で休みなさい。給仕長の女性はメリーを自室に帰した。

 良い匂いに包まれたメリーは、幸せそうに自分の髪に顔を埋めながら、時間が空いたならと早めに調理場に向かった。

 だが、調理場には入れてもらえなかった。石鹸の香りが食材に移るからと、料理長が入口で止めたのだ。

 メリーは悲しんだ。折角心地の良い香りに包まれているのに、それが原因で料理長に追い出されてしまった事を。だから、料理長に説明をした。自分が何故石鹸の香りを漂わせているのかを。調理場で。皆が居る前で。恥ずかしげも無く。ただ日常会話をする様に。

 その会話を聞いた殆どの者が、表面上ではメリーに同情した。だが裏では、メリー話振りに下心を抱いた。恥ずかしがる事もせず、嫌がったり怖がったりしている様子も見せない。それならば、自分が手を出しても問題無いのでは無いか。と。普段からメリーと良い仲を築いていた調理場の者達は、全員こう思った。あの厳しい訓練官より、自分の方がメリーに好かれている筈。

 調理場の団結力は凄まじい。下手な軍隊より指揮が取れている。例え、言葉を交わさずとも、視線だけでやり取り出来る程に。だが、それは料理長も同じ。寧ろ、この場にいる誰よりも、料理長の能力は高いのだ。その為、彼らの邪な気持ちと考えを簡単に見抜いてしまった。

 手に持った包丁を、近くにいた料理人の喉に押し当て、聞いた事のない低い声で皆に伝えた。手を出したら殺す。と。その眼は、人を見る目をしていなかった。

 料理長はメリーに、自分の隣で野菜の皮を剥いていろと命令した。自室に帰すよりも、自分の近くに置いておいた方が安全で、メリーの心の為になると考えたからだ。だが、欲情を抱いてしまった料理人達にとって、それは逆効果だった。餌を目の前に、長時間待たされた空腹の犬がどうなるかは、想像に難くない。


 翌日。屋敷の中は騒然としていた。

 普段見かけない兵達が、腰に剣を携えて屋敷内を歩き回り、普段なら掃除をしている給仕達も、別館に立て籠っていた。

 側仕えであるメリーはティアラの元に呼び出され、念の為にと、暗器を懐に忍び込ませる。

 その場には、当主、夫人、ティアラの3人が揃っており、各々の側仕えと複数の護衛が室内に。入り口には兵が警備にあたり、厳重な体制が敷かれていた。

 何故この様な状況になっているのか。その場に居合わせた護衛の1人がメリーに説明をした。

 今朝、3人の料理人の死体が見つかった。その死体は昨夜に殺され、訓練場に置かれていた。3人とも平民の出で、特に殺されても騒ぐ様な事では無いのだが、殺され方に問題があった。

 3人とも、殺された後に調理されていたのだ。苦悶の表情を浮かべた頭部をメインに、腕や足を花の様に飾り、骨付き肉やステーキを彼らの血で出来た特製のソースで味付けし、骨の髄まで使ったスープに、脳を使ったデザート。彼らの体は、余す所なく全て、調理されていた。

 たった一晩。そんな短時間で、生きた人間を調理した。誰が。分かりきっていた。料理人全員が総出で、彼ら3人を調理したのだ。

 犯人は分かっている。そして、彼らを咎めるつもりは無いと当主は言った。では何故、厳戒態勢を敷いているのか。それは、この騒ぎに乗じて、女性教師がティアラの暗殺を企てたからだ。

 誰にも、その理由は分からなかった。教師の女性がティアラに嫉妬し、邪魔に思って行動したとは誰も思わなかった。だから皆、他貴族に狙われているのだと考え、警戒しているのだ。

 そして、問題はそれだけでは終わらなかった。

 当主達がいる部屋に兵からの知らせが入った。その内容を聞いて、当主は青ざめる。

 訓練兵と給仕達が殺し合いを始めた。想像すらしなかった、有り得る筈の無い妄言を、血塗られた鎧を身に付けた兵から聞いて。

 殺し合いを始めた切っ掛けは、別館に警備に向かった訓練官の男性が、給仕長達に殺された事が原因だった。何故、彼女達が訓練官を殺したのかは分からない。ただ、突然近付いてきたかと思うと訓練官の首を切り裂き、周囲にいた訓練兵にも刃を向けた。一度は取り押さえたものの、近場に潜んでいた給仕達が押さえていた訓練兵を殺害し、手を付けられなくなったのでやむを得ず数人を殺した所、それを見た別の給仕達が逆上し、数名がかりで1人の訓練兵を殺した。それが連鎖的に広がり、別館の外にいる兵の耳に入った。そして、今に至る。

 訓練兵も給仕も、皆殆どが貴族。平民3人と教師1人だけならまだしも、多くの貴族の子供達が死んだとなれば、いくら爵位が高くとも当主の首は跳びかねない。いや、確実に跳ぶ。

 当主は悟った。自分の死を。それならば、今の内に国外に妻と娘を逃そう。そして、自分だけが処罰を受けよう。そう考えた。が、そこに欲が紛れ込んだ。

 当主は夫人とティアラに国外に逃げる様に伝える。コネも金もあるから、それを使って遠くへ逃げろ。と。それを聞いた2人は惜しみながらも部屋を後にしようとするが、そこに、当初が声を掛けた。

 メリーは残りなさい。それを聞いた夫人は激怒した。目の前で他の女に手を出そうとした事でも、自分より若い小娘を求めた事でもなく、メリーが当主に奪われる事に激怒した。

 言い争う時間は無いと当主が言い、それならメリーをこちらに寄越せと夫人が言う。その姿を見て困惑するティアラの隣で、メリーはただただ笑みを浮かべながら佇んでいた。

 当主は埒が開かないと溜息を吐き捨てると、護衛達に妻と娘を連れて行くよう命令する。だが、それに対して夫人は更に激昂し、近付いてきた護衛から剣を奪い取り当主に突き付けた。突き付けるだけだった。

 想像以上に重い剣は、突き付ける為に突き出した勢いに任せて夫人を引っ張り、体勢を崩したまま当主の首元に吸い込まれた。

 危険を察知し、当主の隣に立っていた護衛が、反射的に夫人を斬り付ける。腕と女性の象徴の片割れを斬り落とされた夫人は、痛みのあまりに気を失った。

 当主の方は、切先が僅かに首を掠め、斬れてはいけない糸を途切れさせてしまい、宙に赤い虹を描いた。

 その時、再び扉が開かれた。そこには、訪問予定だった他貴族の姿がある。屋敷の惨状を見て、自身の僅かな兵を引き連れて当主の元へ馳せ参じたのだ。だが、間が悪かった。片や、当主の首を斬った剣を持つ護衛。片や、夫人の手と身体を斬り付けた剣を持つ護衛。その姿と屋敷の惨状に、彼らが主犯格だと誤認した貴族は、自身の護衛達に彼らを殺すよう命令した。

 剣を向ける余所者に、違う、勘違いだ。と説明するが聞く耳持たれず。それならば、ティアラとメリーに説明を求めようと視線を向けた。

 そして、見てしまった。恐怖に怯えて縮こまるティアラの隣で、1人だけこの場にそぐわない可愛らしい笑みを浮かべたメリーを。

 肩を振るわせ、声を振るわせ、自身の主人を斬り付けた剣を重々しく上げる。主人の仇を打つ為に。主人の娘を守る為に。だがそれは、この場において最もしてはならない悪手だった。

 逆上し、剣を振り翳しながら突貫する犯罪者に、護衛達は斬り掛かる。先程まで大人しかった犯罪者の仲間達もまた、それを見て後に続いた。

 障害物が多く狭い戦場。護衛達は互いに斬り合い、身を削り合う。だが、相手はミストウルフ家の護衛。最初に1人減らしたとはいえ、数がほぼ互角の貴族側の護衛では、防戦一方になるのがやっとだった。貴族はこのままでは不味いと考え、ティアラとメリーの腕を引いて部屋から飛び出た。だが、それに追従する様に一筋の剣がメリーに飛来した。これ以上、被害者を出さない為に。これ以上、主人を失わない為に、ミストウルフ家の護衛の1人が剣を投げたのだ。

 闇雲でも、付け焼き刃でも無い。洗練された投擲術。それは、狙った獲物を逃さない狼の牙の様に、正確にメリーの喉元を噛み千切る。筈だった。メリーが足を縺れさせて躓かなければ。

 メリーが倒れ、それに引っ張られる様に貴族が傾いた。その背に、狼の牙が深々と突き刺さった。

 ミストウルフ家の護衛達は動揺して硬直した。その隙を、貴族の護衛達は見逃さなかった。主人の仇を。そう叫ぶ護衛達に、ミストウルフ家の護衛達は斬り伏せられ、床を赤く染め上げる。

 この場にいる主人達は、ティアラを除いて死に絶えた。だが、貴族の護衛達は勘違いを犯した。この場には、主人となる人物が2人いるのだと。

 顔だけ見れば、似ても似つかない少女達。だが、影武者として育てられたメリーには品があり、当主に贔屓された私服はティアラより価値は低いものの、ただの護衛に区別がつく筈も無く、髪型も同じという事で腹か種の違う姉妹だと捉えられた。

 丁重に扱われる2人の少女は、護衛隊の長と一緒に部屋から出る。護衛達は、他にも反乱分子が居る可能性を考慮して抜剣したままだった。

 それは、当主達の状況を知らない者達にとっては、この屋敷に反乱分子を送り込んだ元凶にしか見えなかった。そして、ティアラとメリーを連れ去ろうとしている最中にしか映らなかった。

 廊下にいた兵達は既に冷静では無かった。仲間を殺され、同僚を殺し、家族同然の友を失った。そんな彼らが自分の主人を連れ去ろうとする護衛達を見て、冷静な対応が取れる筈も無かった。

 給仕達も、自分の後輩であり、先輩であり、大事な家族が連れて行かれる姿を見て、手を止めて護衛達を見る。獲物を狙う狼の群れに囲まれ、獲物としてしか見られていない護衛達は、状況に違和感を覚えながらも、勘違いだ、違う。と、周囲の者達に伝えた。

 その時漸く、ミストウルフ家の護衛達の気持ちを理解した。だが、もう遅い。

 周囲にいる多くの兵や給仕達に襲わた。最初の内は圧倒していた彼らも、血油で鈍になった剣と疲弊した肉体に足元を掬われ、1人、また1人と数を減らして全滅した。

 そして、同一の敵を討ち取った彼らは、再び殺し合いを始めた。もう誰にも、彼らの殺し合いを止める事は出来ない。ただ1人を除いて。

 だが、誰も止めなかった。誰も止まらなかった。殺し合いは夜まで続き、深手を負った最後の1人も勝利の雄叫びを上げると事切れた。

 何処を歩いても、兵や給仕の死体が転がっている。巻き添えを喰らった従者達も、無抵抗に斬り刻まれて死んでいる。まるで、夢の様な悲惨な光景。行く当ても無く、少女達は玄関ホールに向かった。

 2階から一階に降りる階段は、灯りを灯す者を静かに待っていた。その血塗られた姿を、窓から差し込む月光だけが、優しく照らしていた。

 ティアラは踊り場で膝を折った。この夢の様な現実で、メリーだけが残った事に喜びを伝える為に。数々の死を目の当たりにして疲弊した心を癒す為に。溢れ出した欲情を発散させる為に。


 まるで、夢の様だった。自分の言葉に答えた、耳元で囁かれる声が。近付いた首元から香る甘い匂いが。願望を叶える為に差し込まれたハニーディップが。恋人の様に繋がれた手が。全てが、夢の様だった。

 メリーの顔が離れていき、ティアラは目を開ける。2人を繋ぐ煌びやかな蜘蛛の糸を辿りながら、蜜を求める為に顔を寄せる。だが、心地良い冷たさの指に止められた。であれば、その指を。そう伸ばされた舌は空を舐める。

 まるで、夢の様だった。自分だけが残され、自分だけがメリーに寵愛を貰えた事が。寧ろ夢であって欲しかった。夢であれば、この幸せを永遠に堪能できるのだから。

 窓から差し込む月光が2人を照らす。メリーの瞳は宝石の様に輝き、その瞳に映るティアラの瞳は、残酷な程悦に浸り、三日月を描いていた。その表情を見たメリーは、変わらず微笑んでいる。

 まるで、夢の様だった。この時間が一生続けば良いのにとティアラは天に願った。だが、再び近付くメリーの顔を見て瞳を閉じると、その願いを取り消した。


 瞳を閉じる前に口端から覗いた牙。それがティアラの夢を現実にしてくれるから。

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魅惑の少女 誘惑の吸血鬼 神宮 雅 @miyabi-jingu

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