冷たい手
棚霧書生
冷たい手
彼岸花は血を吸って赤くなるのだと子どもの頃に教えられた。それなら彼岸花の下には死んだ人が埋められているのですか、と幼い私はこの話を教えてくれた当時我が家に書生として居着いていた滝沢青年に尋ねた。だけど、彼からははっきりとした回答は返ってこず、ただ曖昧に微笑まれたことを覚えている。思えばその頃から私は彼のことを意識し始めたような気がする。周囲の大人とは雰囲気が違って、精神が子どもの自分と近いところにある。だが、かといって子どもっぽくもない。滝沢青年はあまり大人らしさを感じさせない大人だったとでも言えばいいだろうか。
すでに成人しており、小説家志望だった彼はしっかりした言葉で喋っていた。今思うと少し気取った話し方だったなとも思うけれど……、だけど、大人なはずの彼はふとした瞬間に見せる表情とか仕草が私と同い年の少年のようで親しみが持てた。
一緒にかるたをした、風呂に入った、彼が書いた童話を一番に読み聞かせてもらった。彼に坊っちゃんと呼ばれるのが好きだった。私も事あるごとに滝沢、滝沢、と彼の名を気安く呼んでいた。滝沢のほうがどう思っていたかはわからないが、あの頃の私の親友は間違いなく彼だった。大きな手のひらで頭や頬を撫でられるたびに、温かな幸福感が心に満ちていた。あれが私の人生で最も幸せな時間だったのかもしれない。
おかしいと気づいたのは寒い冬の夜のことだった。厠に行きたくなって眠りから覚めた私は、冷たい床をつま先立ちで歩いていた。そして、厠に行く途中にある滝沢の部屋の近くを通りかかったとき、部屋の中で彼が激しく咳き込んでいる音を聞いたのだ。私は本来の用も忘れて、滝沢の部屋に入った。そのときの彼の顔は暗くてよく見えなかった。ただ、蛙が鳴くときのような濁った音が彼の体から聞こえて、不気味だと思ってしまったことをやけに覚えている。滝沢はいつもよりずっと小さな声で部屋から出ていくよう私に頼んだ。私はこのとき彼に食い下がることもできたのに、結局は素直に言うことを聞いて滝沢の部屋を出てしまった。それはなんだか滝沢の声がいつもと違って冷徹で大人びたものだったからで、私には彼に逆らう気がまったく起きなかったのだ。
その夜から滝沢は次第に私の相手をしてくれなくなった。彼が咳をして床に伏せていることが多くなった時点で子どもの私にも滝沢の体が病に冒されていることはわかっていた。だけど、彼が得たそれが不治のものなのだと知ったのは彼が我が家から離れて故郷に帰る算段が大人たちの間でついてからだった。
滝沢が旅立つ日、家の前に人力車が来ていた。滝沢があれに乗って遠くに行ってしまうのだと思うと憎くて堪らなかった。車夫の顔が死神のように見えて、いつの間にか私は泣いていた。母が私を腕に抱いて慰めてくれたが、そのときはちっとも嬉しくなかった。滝沢にサヨウナラを言いたいです、と言っても病の伝染を恐れて子どもの私は近づけさせてもらえなかった。滝沢は少し離れたところから手をふるだけ。寒くて凍えるような日だったのに手套もしていなかった彼の指先は赤くなっていた。きっと触れれば冷たかっただろう。だけど、触れることのできなかった私は生涯そのときの彼の指の冷たさを知ることはできないのだ。すべての荷物を積みこんで、いよいよ出発という段に見送りに来ていた私の父が滝沢を抱擁した。私はそれを見て涙がとまった。私は彼の指に触れることも叶わないのに、どうして私の父は彼を抱きしめているのか。理不尽だと思った。だけどそれ以上に私の心を痛めつけたのは滝沢の表情だった。今にも泣きそうで、でも笑っていて、見ているこちらが切なくなってくるような顔、私が見たこともないそんな顔。そのとき漠然とだが私は理解した。滝沢が死の間際に思い出すのは私ではなく、私の父なのだろうと。悲しさと悔しさがまぜこぜになって私は吐きそうだった。私の一番が彼であったように、彼の一番も私であってほしかった。遠ざかっていく滝沢を乗せた人力車をどこか恨めしいような気持ちで私は見送った。
それから、大人になった私は今でも彼岸花を見るたびに、指先を赤くしたあの日の滝沢のことを思い出している。
終わり
冷たい手 棚霧書生 @katagiri_8
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