灰色の標識
棚霧書生
灰色の標識
約束を反故にする旨の言い訳が電話ごしに酷く遠い。うん、大丈夫わかったよ。と努めて高くて明るい声で返事をした。
孝明が仕事で忙しいことは知ってる。ベンチャーを起ち上げて四苦八苦してることもわかってる。私と会う優先順位は相当、下の方だということも。
「ユーリはそれでいいわけ?」
隣のカウンター席に座った友人のミカエラが心配そうに尋ねてくる。蜂蜜の入ったミルクを飲んでいるだけなのに妙に様になるのは、彼が上級天使だからだろうか。
「私は孝明の守護天使だからね。彼が幸せならそれでいいの」
「今の君、とても天使には見えないけど。なんでそんな人間みたいな格好を……しかも……」
「女の子の姿じゃないかって? まあ、私たちはもともと性別が存在しないのだし、見た目が男か女かなんてさしたる問題ではないよ。強いて言うならイメチェンってやつかな」
ミカエラは理解できないといった表情で私を見る。私の行動は傍から見れば奇っ怪に映るであろうことはわかっている。それでも、この姿形が一番、孝明に貢献できると思えばやらない理由はなかった。
孝明は可哀想な子どもだった。彼の母親は孝明が小さい頃に家庭を放棄し、別の男のもとに行ってしまい、残された孝明は父のもとで暴言と暴力にさらされながら育った。
私は孝明が生まれた瞬間から彼の守護天使だった。彼は生まれながらに運が悪く、それを是正するための守護天使なのだが、力の弱い私にはせいぜい幸福な夢を見せたり傷の治りを早くしてやったりするくらいしかできなかった。
力がないのは祈りが足りないからだとミカエラには言われた。私は孝明を助けてやりたいと常々祈っているつもりなのだが、まだ思いが足りないのだろうか。
「祈りってなに、ミカエラ?」
私は酸っぱいクランベリージュースを飲み込んだ。
「教えられるようなことじゃない」
ミカエラは静かに応える。彼ぐらい力が強ければ、孝明になんでもしてやれるのに、どうして私なんかが孝明の守護天使に選ばれてしまったのだろう。
「ミカエラが孝明の守護天使ならよかったのに」
「僕はあんな乱暴な男にはつきたくないね。だけどユーリはあいつを見捨てずに見守ってる。それが答えじゃないか。天使の守護の力は生きてきた時間に比例する。まあ、気長にやりなよ」
ミカエラはそう言ってくれたけど、人間の寿命は短いから、きっと私が強くなる前に孝明は神のもとに召されてしまうのだろう。
ミカエラと別れたあと、私は翼を広げて曇り空の下を飛んだ。私の孝明のもとに帰るために。
今の私の役割は孝明を支える彼女。今日はクリスマスイブで彼とレストランに出かけるはずだった。実体化して人間のように歩くのも、家の扉を開けるために鍵を探すのも、なにもかもが面倒に感じていたけど、私はいつも通りに人間のユーリを演じる。
「あ、おかえり、ユーリ! 今ちょっと資料だけ取りに家に戻ってたんだけど、少しでも顔が見られてよかった……」
「孝明っ……」
まさか孝明がすでに家に戻っていると思っていなかった私は慌てて自分の顔に触れる。そこには、先日彼に殴られた痕が残っていなくてはならなかった。だが、天使は怪我をしない。私は人間を装うために傷ができたときは毎回、怪我の見た目をつくっていた。
「最近のファンデーションって凄いんだね……」
「えっ……ああ、うん……」
孝明が勘違いをしてくれて助かった。
彼はゆっくりと私の方に近づくと私を抱き寄せる。ごめんなさい、ごめんなさいと謝罪の言葉を何度もいいながら私の体を強く抱きしめた。
「もうしないから……。ユーリのこと大切だと思ってるから、許して……」
「うん……わかってる。大丈夫だよ、孝明」
孝明は優しくて弱い男だった。ストレスを自分で対処することができず、上手くいかないことがあると身近にいる私を殴ってしまう。許してはいけないのかもしれない。だけど、私は私の態度に甘えている孝明が愛おしくて突き離すことができなかった。
「ごめん、そろそろ行かないと……」
「うん。お仕事、頑張ってね、孝明」
私は孝明の頭を優しく撫でてから彼を送り出してやった。
そして、今度は守護天使らしく実体化を解いて孝明の背後にくっついていく。今日のレストランの約束を反故にされた理由は投資家の一人が急に融資の話を持ちかけてきたからだった。孝明の起ち上げた会社はまだまだ安定には遠く、資金を必要としていた。
孝明の成功を願って、私はただ後ろから見守ろうと思っていた。それがまさか、こんな場面に遭遇することになるなんて……。
相手の投資家はまだ若く、四十半ばくらいに見えた。カジュアルスタイルのスーツできっちりしすぎず、かといって緩くもない。気さくで賢そうな雰囲気の大人の男だった。
男は言葉巧みに下品にならないよう気をつけていたが、彼が孝明に提案したのは要するに自分の女になるのなら融資をするという話だった。
私は孝明なら断ると信じていた。彼の性対象は女性だったし、現在は人間のふりをした私と関係を持っている。だけど、孝明は私の予想に反し、その日のうちに投資家の男とホテルの一室へと向かった。
見なくたってよかった。どこか遠くに飛んでいって、時間を潰したってよかった。だけど、私は孝明から離れないことを選んだ。その選択が正しかったのかはわからないけれど、私が今までに見たことのない孝明の姿と表情を見ることにはなった。孝明が生まれてからずっと守護天使をしていても、こんなにも彼について知らないことがまだたくさんあったのだと一晩で思い知らされた。耳にこびりつく孝明の恥じらう声。目を閉じれば紅潮して震える彼の体を鮮明に思い出してしまう。ふつふつと腹の奥でなにかがたぎるような気がした。
私は孝明が眠っているうちに私たちの家へと戻った。少し一人になりたかった。冷静になろうなろうと思うのに、頭が熱くて仕方ない。
「ただいま」
熱が冷めきらないうちに孝明が帰ってきてしまった。昨晩、孝明の身に起こったことなどなにも知らない人間の女の子ユーリのふりをしなくてはいけないのに、私の考えを無視して口は勝手に動く。
「……遅かったね。もうお昼過ぎだよ。なにしてたの?」
「えっと、投資家の人と話が盛りあがっちゃってさ。夜通し飲み明かしたんだ。ちゃんと連絡はしただろ?」
「うん……」
「それにね、相手が俺を凄く気に入ってくれて……、希望額を融資してもらえることになったんだ!」
「ふぅん……」
「喜んで……くれないの?」
孝明が子犬のような顔をして首を傾げる。可愛らしくて、愛おしくて、とても憎らしかった。私は天使として人間の孝明に持ってはいけない感情を持ち始めていた。白い半紙に墨汁を垂らしたときのように体中に黒い感情が広がっていく。
「男の人が好きだったの? それとも抱かれるのに興味があった? ああ、やっぱり一番はお金かな?」
孝明は顔を紅くし、狼狽える。
「ユーリ……なに言って……」
「答えろよ!!」
自分が女の姿をしているのが酷くバカバカしく思えて、元の男の姿へと戻る。天使の規律を今の一連の行動で、いくつか破ってしまったがもうそんなことどうでもいい。ぜんぶ、こわれてしまえ。
「見守るのはもうやめる……!」
私は孝明をソファに押し倒した。孝明は腕をめちゃくちゃに振り回してきたが、当たったところで私には痛くも痒くもない。
「やめっ、やめてくれっ……ユーリ!!」
私は握りこぶしをつくり、大きく振り上げる。気づいたときには、鼻血を垂らして泣いている孝明の顔が目の前にあった。私は恐ろしいことに彼の泣き顔にぞっとするほど興奮していた。息が上がり、血液が沸騰するようだった。床に落ちていく自分の白かったはずの羽根が濃いグレーになっている。きっとこの行為が終わる頃、私は真っ黒な羽根を持つ者に生まれ変わっていることだろう。
終わり
灰色の標識 棚霧書生 @katagiri_8
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