風の吹く街

芳岡 海

風の吹く街

 これはいつかの記憶だ。

 直感的に男はそう思った。夢の中でこれは夢だとわかるように。あるいは夢の中ですべてが確信を持ってわかるときのように。

 駅のホームのベンチに男は腰を下ろしていた。


 いつの記憶だろう。一度だけ乗り込んだ列車だった。何度も見送ったホームだった。そのいつかの記憶を今思い出しているのだと思った。

 列車に乗り込む彼女を見送る駅のホームだった。

 いつも改札に入って、列車が到着するまで二人でベンチに腰掛けて話をした。話すことは尽きなくて、そのほとんどは彼女が話した。朗らかな彼女が話すのを聞いていると、男の胸の中はいつもすうっと風通しが良くなるのだった。そう、とか、わかるよ、とかそんな相槌ばかりを打つ男に、彼女はいろいろな話をした。そして発車するギリギリに列車に乗り込み、扉が閉まると窓の向こうから手を振った。まだ話し足りないとでも言うように。男も手を振った。まだ聞き足りないと思っていた。そうやって駅のホームで見送った。


 男は仕事人間だった。遠くに住む彼女がいつもこの街まで会いに来てくれていた。週末遅くまで仕事をしていると迎えにゆくことは間に合わず、その分、帰りはホームまで来て見送った。日曜の夜に。またね。閉まる扉の前で彼女が言う。男も手を振る。


 こっちに来て、一緒に暮らそう。何度もそう言おうと思った。言うつもりだった。


 その列車に男は一度だけ乗った。大きな仕事がひと段落したタイミングで休みを取った。

 列車は始めからそう決まっていたかのように堅実に、はしゃぐ彼女と少々緊張気味の男の二人を乗せて走った。

 彼女は街を歩き、小さい頃に遊んだ公園や、通った学校や、仕事場までの道、眺めの良い橋、顔見知りの猫がいる路地、よく立ち寄る喫茶店や本屋を彼に案内した。そして家と家族を紹介した。

 小さくて気持ちの良い街だと思った。明るく、文化的で、穏やかだった。いい風が吹いていた。近くの山から降りてくる空気と、街を流れる広い川の空気がぶつかって気持ちいい風が吹くのだと彼女は教えてくれた。優しくお喋りな彼女のすべてがここから生まれたのだと思った。そこから彼女を引き離すなんて考えられないと思った。


 私をあの場所へ連れて行ってくれた列車が、今目の前で停車している。

 男は思った。乗るのか、と問われていると思った。


 彼女の街に自分が暮らすことを男は一度考えた。そこで得られる仕事のチャンスと、今ある仕事のチャンスを天秤にかけた。彼女の街はそのチャンスが小さい分、心地よく暮らせるのだろうと思った。男は仕事人間だった。仕事のチャンスが少しでも大きくなる方を選ぶべきだと考えた。そしてそのようにした。

 朗らかな彼女はそのときだけ口をつぐんだ。

 ──君がこっちへ来たいと言うのなら、そうしてもいい。

 男はそうとしか言えなかった。

 ──でもそうできないのなら、

 彼女は頷いた。わかっていると。

 ──僕がそっちに行くことは、

 彼女は首を振った。もうわかっていると。それ以上は言わないで。


 今を生きる私にとって、過ぎ去った日々は文字通り過去でしかない。

 誰かに弁明でもするように男はそう考えた。過ぎ去ったからこそ考えられることもあるのだった。


 わたしたちは似ていたのよね。彼女は最後にそう言った。そう考えたことはなかったから男は驚いた。

 お互いに、自分にないものを相手に求めていたのよ。自分にないからこそ、相手にそれがあることに満足していた。お互いに満たされていたでしょう。相手にあって自分にないものを考えて腹を立てたり、欲しがったり、ましてや奪いたいとか分けてほしいとか、そんなことは思わなかったでしょう。


 あれから何度か彼女の夢を見た。彼女はいつも列車の向こうだった。扉が閉まる直前だったり、窓の向こうだったり、もういないときもあった。もういないときには、今頃彼女を乗せた列車がどのあたりを走っているというのが、夢の中の男にははっきりわかるのだった。

 一度だけ行った彼女の街は、すみずみまで立体的に男の中に残っていた。どんな道でも迷わずに歩けると思えたし、すべての四季すら知っているようだった。それは彼女が話して聞かせてくれたからだった。男は仕事人間だった。彼女の話は、そうではなかった男の人生そのものだった。


 男は一層仕事人間となった。もはや迷う必要もなかった。

 仕事はいくらでもあった。片付ければ片付けるだけ量を増やしてやってきた。それらを片っ端からこなしていった。客からの評価は上がり、会社からの評価が上がり、待遇が上がった。


 過ぎ去った日々だからこそわかることもある。彼女の存在、あれは満たされた日々だった。過ぎ去ったからこそ、そう思えた。


 なのに、戻りたいと思った。もう一度あの場所に行きたいと思ってしまった。

 これはいつかの記憶だ。男は思った。いつもの夢だと思った。このところちょっと疲れすぎていた。列車は目の前に停車していた。何度も彼女を見送った駅のホームだった。一度だけ乗り込んだ列車だった。もう一度だけ乗り込んでいたら。


 思うやいなや、無意識に踏み出した一歩が、男をあの場所へ連れて行く。駅のホームを風が吹いた。

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