第7話 許し許され罪と罰

 ――そろそろ私の自転車も油が切れてきた頃。


「いっそげ、いっそげ」


 必死に立ちこぎして若干傾斜のついた緩やかな坂を上る。風は少し夏特有の青臭さを含んでいた。私の大好きな匂い。今日が雨上がりだったらもっと最高だったんだろうなぁ。


「もうそろそろ......。あっ、いたいた」


 ハイハイの正門までの一本道、正門前の自販機の隣に自転車を停車して空を眺めてる私服姿の古谷が立っていた。

 古谷はああやってぼんやり空を眺めているときは大抵考え事をしているらしい。本人からそう聞いていた。


「――ごめん!お待たせ」


「うわ、びっくりした」


 私が自販機付近で前輪に急ブレーキをしてかっこよくドリフトをして登場すると、古谷は全く驚いてない様子でそう言った。

 せっかく小さい頃によくしていた自転車ドリフトを披露したのに、その反応がいまいちで残念。


「タイヤすり減るぞ?」


 ――私じゃなくて、タイヤの心配をするんだ。普通の女子高生なんてドリフトはしないのに。


「そうしたらまた買い換えてもらえばいいんだよ」


「はは、さすが有佐家の一人娘だな。お金持ちは違うと」


「むぅ......」


 何だか古谷の言葉に棘があるように思えた。

 ――もしかして、やっぱり私が寝坊したことを怒っているんじゃ......。


「古谷、私が寝坊したから怒ってるでしょ?」


「ん?全然、怒ってないよ」


 目もくれず、古谷はそっぽを向きながらそう言っていた。


「嘘。絶対怒ってる」


「怒っているふりでもした方がいいかなって思っただけ」


 そう言って古谷はクロスバイクのハンドルに手をかけた。

 変なの、何その理由。でも悪いことをしたのは私だから、怒っているふりをされるのも仕方ないかもしれないけど。


「じゃあ......。じゃあ、私を怒って!古谷」


「......え?なんで?」


 ――そ、そんなお馬鹿さんを見るような目で私を見ないでよ!私も変なこと言ったなって思ってるのに!あぁもう。


「古谷が怒って、私が謝って、古谷が許す。そうすればお互いにすっきりでしょ?」


 とりあえずこういうことにしておこう。


「そ、そうなのか......?まぁ、そうなのか。――よし、いいだろう」


「うん、お手柔らかに」


 さっきから私何を言ってるんだろう。本当に自分でも何がしたいのかがよくわからない。


「はぁ......。今日は特別に、俺の本気の怒りを見せてやる。――覚悟しとけ。俺のこと、嫌いになるかもしれないからな」


「う、うん」


 古谷が今まで聞いたこともないような低い声で見下すように私を睨んだ。

 そのままズンズンと、私の方に一歩ずつ歩み寄ってきた。


 ――あれ?古谷ってこんなに大きかったっけ?もしかして古谷って怒ると怖いタイプだったり......。


「――か、かかってこぉい!」


 手刀を構えた。


「いくぞ有佐ァーッ!」


 古谷を前に目を瞑った。


「んーーっ!」


 ――私、このまま古谷にっ――――――――――!


「ふぇっ!?」


 ――――――――あれ?


 ぽふっ、と音が鳴った。


「――ふ、ふりゅや?」


「――すまん。許せ、有佐。さっきのは冗談、俺は怒れないんだ」


 そう言う古谷は私に無理やりフードを被せて、フードの上から私の両頬を真剣白刃取りみたいにぽんと押さえていた。

 ――なんかこう、非常に慣れた手つきだった。

 するとすぐに古谷は私から手を離した。


「......えっ、どうして私のほっぺを?」


「いや、その......。俺は怒れないから、代わりにお仕置きをしようかなと思っただけ」


「......」


「......」


 誰かが気を利かせたように、静けさを掻き消すように車が何台も道を横切った。

 私と古谷は見つめ合ったまま。さっきまで意識にすら入ってこなかった周りの音が何故かよく聞こえていた。


「......すみません。実は前からお前のほっぺは柔らかそうだなと思って見てました。お仕置きと言えば触れるんじゃないのかって邪な考えを抱いて実行してしまいました。俺の弁解は、以上です」


 古谷は少し頭を下げてそう言い切った。


「......ええ、えっと」


 ――そ、そんなことを古谷は私に思っていたの?私のほっぺが、柔らかそうって?


 気づけば無意識に自分のほっぺを触っていた。

 こう触ってみると、私のほっぺって意外と柔らかいのかも。あったかくて、もちもちしてるというか。


「では、判決をどうぞ」


 古谷はやっと顔を上げた。


「は、判決?......えーと、じゃあ、有罪ギルティ?」


「じゃあ寝坊したお前も有罪ギルティだ!俺との約束をすっぽかすだなんて、あり得ない」


「なっ!?なにその理由!?」


 まるで古谷が私の罪を私が古谷に下した判決で決めたような口ぶりだった。


「ふ、古谷だって私のほっぺに触るなんてありえない!それに私のことをそんな風に見ていただなんて!」


「直接触らないようにして多少罪を軽くしたはずなのに。まぁそれは置いといて。――どうだ、俺にこんなことをされて心底嫌な気分になっただろ?」


「......それってどういう意味?」


 古谷は怪しく笑っていた。まさか、最初から私がこうなるように仕向けていたとか?


「こうでもすれば、お互い様みたいになるかなって。――有佐は寝坊して、俺は不敬にも頬を挟み込んだ。さぁどうだ。今、寝坊して申し訳ないなって気持ちはさっきよりも薄らいでるだろ?」


 やっぱり、この状況のすべては古谷の手中に収められて動いていた。

 もう私の寝坊を気にしている余裕がないほど、今はそれ以外のことで心がいっぱいだった。


「言われてみれば確かに......。今は古谷のことを変態としか思ってない」


「おいっ。まぁ、そう言われても仕方ないと覚悟の上での作戦決行だ。でも、すべては有佐が寝坊するのが悪いんだからな?寝坊さえしなければ、俺がこんなことをすることにはならなかったのに」


「......でも、本当は私のほっぺに触りたかったんでしょ?」


「......」


 何故かその問いかけにだけ古谷は反応を示さなかった。沈黙は肯定、そういうことなのかな。とにかく、古谷がほっぺフェチってことだけはわかった。気を付けてほっぺを守らないと。


「あの、なんでそんなにフードを深くかぶって俺を警戒してるんだ?」


「いや、いつ古谷に襲われるかわからないからさ。今からでもこうして守りの姿勢を見せておかないとかなって」


 別にほっぺを触られること自体嫌なわけじゃないけど、古谷に近づかれるとなんかこう、変な気分になるというか、良くないことをしているみたいな気分になっちゃうから駄目。


「俺、もしかして寝坊の罪の重さよりもだいぶ重罪なことをしてしまったのか?」


「そうだよ!女の子に気安く触るだなんて、普通は駄目なんだからね。――でも、今回は特別。私の寝坊をこれで古谷が許してくれるなら。......って、なんでそんなに笑ってるの?」


 古谷は私を見ながら苦しそうに背を丸めて笑っていた。


「いや、ごめんごめん。ただ、有佐の怒ってる様子がなんだか蒸されている温泉まんじゅうみたいだなってふと思ったらつい......」


「もう!私本当に怒ったからね!――おりゃっ!」


「うっ!?」


 丁度良く古谷の顔がいつもよりも低い位置にあったので、そのまま両手で直接両頬を挟み込んだ。――ぺちん、と意外といい音がした。


「うわっ、意外と張りがあるんだ」


 私のよりも古谷のほっぺは少し硬かった。でも表面だけは少しだけ柔らかかった。


「あの、人のほっぺの感想はどうでもいいんで離していただけないでしょうか?」


「ふふっ、でもいい眺めだなぁ。いつも私を上から見下ろしてる古谷が、今では変な顔で私を見上げてる」


 古谷を征服してやったり。私のことを温泉まんじゅうみたいって言った罰だ。この身を以てとくと知るといい、私を怒らせたら怖いってことを。


「いいのか有佐?罪を重ねるようなことをしても」


「私のこれは罪にはならないもん。ふふっ、そんな変な顔で私を睨まないでよ。笑っちゃうじゃん」


「じゃあ今すぐその手を離せばいいじゃん」


「はいはい。私のことを温泉まんじゅうみたいって言った分のお仕置きはこれでおしまいにしてあげる」


 私が手を離すと、古谷はゆっくりと起き上がって私を見下した。

 別にそんな強い力で抑えていたわけじゃないからいつだって抜け出せたのに。――あれ、もしかして古谷はこの状況を楽しんでたのかも?もしかして、古谷って本当に変態だったのかも?


「なぁ、一体この一瞬でお前の心の中で何があって俺をそんな非難の目で見るようになったんだ?」


「うん。やっぱり古谷って、変人だよね?」


「お前にだけは言われたくないわ」


 そんなことを言い合いながら、私と古谷は自転車に跨った。

 忘れちゃいけない。私たちの目的は校門の前でお喋りをすることじゃないんだ。


「それじゃあ行くぞ、お寝坊さん」


「わかりましたよ、ほっぺ大好きの変態さん」


「それは誤解だ」


 まるで私の言葉を突っぱねるように、古谷は私の先を進んでいった。私もその後に続くようにペダルを踏みこんだ。


 気づけば太陽は高く昇っていて、気温も丁度いいくらいに暖かくなっていた。

 目の前のオレンジの蛍光色のクロスバイクを追って、私は目的地の市立図書館を目指してひたすらに足を動かしていった。

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