第5話 影を喰らう黒い影

「......古谷、今の言葉って何?」


 一回だけじゃ言葉の意味がよくわからなかった。

 でも、その言葉の全てが私という人間全てを物語っていたような気がしていた。

 だから、もっと深く知りたかった。


「今の言葉?いつも通りの有佐ってキャラだねってこと?」


 古谷は私の前を歩いて振り返りもせずそう言った。


「いいや、違うよ。もっといろいろ言ってたでしょ?」


「え、そうだっけ?」


「......」


 古谷はわざととぼけたふりをしているのか、本当に忘れているのかわからなかった。

 ただ、あの黒い影が見えたということは、少なくとも黒影ちゃんが関係していることは確かだとわかった。


 ――聞き出すなら今しかない。そう思って口を開き、


「ねぇ、古谷」


「ん、今度は何?」


「古谷って黒い影を――」


 ――世界を覆いつくすほどの黒が、私の目の前に一瞬で広がった。




【【【【【【【【【――だぁぁあああぁああぁあああめっ。ワタシのことは古谷君には秘密だよ????とのっち?????????わかったぁ??????】】】】】】】】】




 ――その言葉と苦しさを覚えるのに、そう時間はかからなかった。


「んっ、んんんっ!?!?」


 ――い、息がっ、できない!?


 急に現れた黒い影が、私の影の首の部分を踏ん付けて絞めつけていた。


 ――苦しい、痛い、苦しい苦しい、痛い、苦しいよ!


 何がどうしてこんな状況になっているのか、その一切がわからなかった。そんな無理解の中で、確実にあるのは痛みと苦しみ。喉を外側だけでなく内側からも圧迫されるような今まで感じたことのない感覚。


「あっ、これじゃあ返事はできないかぁ。ククク、ごめんねぇ」


「――っは!......はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁ......」


 黒影ちゃんが私の影から離れると、さっきまでの苦しさが嘘のように消えていった。

 ――こんなに強く首を絞められたことなんて、なかったのに......。

 息ができない恐怖がここまでのものだと思わなかった。私は死ぬのかもしれない、一瞬でこんな気持ちにされ、すぐに解放されると体に力が入らなくなっていた。


「......えっ?」


「ん?どうしたの?って、ああ、そういうことね。ククク、気づいちゃった?」


 この光景を前に、今は黒い影の言葉も苦しさもどうでもよかった。

 どうでもよくなるほどのことが、目の前で起きていた。


「なんで......どうして?どうして、――私の影、どうして首の部分だけない、の?」


 目を落とした先、昼間だから影が短くてよくわからないけど、でも確かに私の影の首の部分だけがなかった。


「あ、あれ?首は......ある」


 自分の首を触っても、ちゃんと首は付いていた。でも何故か、影だけがなかった。


「どう、して......」


 愉快そうな表情を浮かべた影の方を見る。

 私だけにしか見えてない、私の数少ない理解者だと思っていた不可解な存在が今では不気味そして脅威以外何者でもないように見えていた。


「えーと、じゃあ特別にとのっちには教えてあげるよ。ワタシがワタシのことを古谷君には言わないでねって言わなかったせいでもあるからね」


「......」


 真昼なのに、真っ黒に佇む影のない影は私を見て口角をにいって上げた。


「とのっちの首だけ影がない理由、それは――とのっちの首をワタシが食べちゃったから!クククク、そういうことー。単純でしょ?」


「......」


 その不気味さと、言葉の意味を前に私はただ目の前の黒い影と少し茹だる道を無気力に眺めることしかできなかった。

 心臓の音も、呼吸の音も、うるさいのに聞こえないほど意識がぐちゃぐちゃにされていた。


「......あれ、もっといいリアクションが返ってくると思ったのに。残念」


 漠然とした恐怖、いろんなことが突然覆い重なっているせいで何もできないまま奇妙な静けさを聞くだけ。




【――そして、その恐怖は有佐途乃香という主人公の主観を奪うに十分なものだった――】




 有佐が構築していった周囲一帯の世界は徐々に崩壊していった。

 色味は剥がれ落ちる塗装のように浮き出て消え、有佐の体は血の気が引いたような脱力感に襲われ、寒気まで覚えだしていた。


「......あぁ」


 今にも泣きだしそうな心を抑えようとするも、嗚咽するような声がぽつりと漏れ出てしまっていた。

 さっきまであんなに楽しかったのに、どうして。――と、誰のせいでもないことにもかかわらず、自分を責めるような気持がただただ有佐の心を満たしていた。


(今まで、どうして私は黒い影のことを無害だって思いこんでいたんだろう......)


 気づけば人はいなくなり、それどころか古谷すらもいないことに有佐は気付いた。

 孤独と恐怖、そして後悔。体の内側から何かが崩れ去っていく感覚を前に、有佐は深くフードを被ってとうとうその場に座り込んでしまった。

 何も見たくない、何も感じたくない。フードの端は滲み出た涙によって次第に濡れ始めていた。


「うっ、うぅ......。古谷ぁ」


 何かに縋りつく思いでその名を震えた声で呼んでみる。だが、誰一人としていないこの場で返事が返ってくるはずもなく、世界から色味が剥がれ落ちる奇妙な音だけが有佐の四つの耳に届いていた。


「あーあ、泣いちゃったかな?別に泣かせるつもりなんてなかったんだけど」


 黒い影は少しばかり困ったような口ぶりでそう言ったが、その表情には一切困惑を浮かべていなかった。むしろ、歪んだ笑顔とすらとれる表情をしていた。


「そうだなー。首の影を食べちゃったのは首輪というか、とのっちにワタシのことを古谷君に絶対に言わないでって約束させるためにしたことって言った方が良かったかな?クク、約束と言っても、ワタシが無理やりとのっちに強制させてるんだけど」


 ペラペラと語りだす黒い影と対照的に、有佐はその場にうずくまったまま震えていた。

 ――私は無力で、愚かで、どうしようもなく怖くなっている。そうわかっていても、有佐は動き出すことができずにいた。


「はぁ、どーしよ。これじゃあとのっち、しばらく動きそうにもないか......って、あれ?」


 すると黒い影は自身に起きた異変に気付き始めた。


「あれ?なんで今度はワタシが泣いてるの?」


 黒い影の手には、両の眼から流れ落ちる涙の粒があった。人ならざる存在であるにも関わらず、まるで人のように涙を流していた。

 だが、その理由を理解するのにそう時間はかからなかった。


「あぁ、そっか......。ククク。ワタシ、とのっちの一部を食べたから、少しずつとのっちになってるのか!」


 黒い影は嬉し泣きをするように涙を流しながら空を仰いだ。だがその涙は自発的な感情によって流されたものではなく、現在の有佐途乃香という存在の情報共有が為されたために流れたものだった。


「ククク。でもこれじゃあまるで私は、ドッペルゲンガーだね。ね、とのっち?――って、あれ?とのっちどこだ?あれ、さっきまでここにいたのに......」


 先ほどまでうずくまっていたはずの有佐は黒い影が目を離した瞬間、まるで存在ごと消えたようにその場から姿を消していた。

 ――この場にあるのは崩壊が進む有佐途乃香の世界と、黒い影ただ一つ。


「ふーん、ワタシを置いて世界を改稿したんだ。クク、案外やるじゃん。無意識で無自覚なのに、こんなことまでできたんだ」


 黒い影はこの状況に至った経緯をすぐさま察知してみせた。

 自身をこの世界ごと改稿によって削除する。それは黒影自身の存在を脅かす一大事であったが、黒い影はそれでも愉快そうに笑みを浮かべていた。


「――でも残念、それじゃあワタシを完全に削除することはできないなぁ。ワタシを消すならまずは......って――あーっ!みーつけた!」


 黒い影はそう言って何かを見つけたように天を仰いで大声を上げた。


「クククククッ!まさかまだこの世界を記録していた覗き魔がいたなんて!危ないなぁ、危うくワタシの秘密がバレちゃうところだったぁ。ククク、でも残念。もう見つけちゃったからには何も言ってあげ――」


 そんな声も虚しく、改稿によって削除され崩壊していく世界と共に黒い影はその存在ごと無惨に引きちぎられ白紙へと転換されていった。







【――――――『削除済み』――――――】

【――――――『削除済み』――――――】

【――――――『削除済み』――――――】

【――――――『削除済み』――――――】







 残ったのは光も影も音も存在の一切もないはずの、真っ白な空間だけ。

 まだ紡がれてない、真っ白な白紙だった。


 そんな場所にただ一つ、不可解な存在のみがその存在を許されていた。



【――残念、あと少しで黒い影のことがわかりそうだったのになぁ。――それにしても、有佐ちゃんの首を吸収しただけで私のことが見えるようになってるだなんて。このことは後でマスターに伝えないと。それじゃあ、――『記憶いつかまた』】


 誰も聞くはずのない独り言を置いて、光は再び有佐途乃香の織り成す世界の執筆記録者として存在を移ろわせていった。


 ――《エピソード・トノカ》は、再び有佐途乃香を主人公として再始動した。

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