3 "カイブツ"



 カミュはステージに立つと、客であふれ返ったライブハウスを見渡した。拍手と歓声がハウスの黒い傷だらけの壁に反響する。後ろのバースペースにいる男が乾杯!と叫んで緑色のビール瓶をあおった。カミュはそれに応えるように右手でピースサインを作り、高々と掲げる。鼻頭の白い、少し血のにじんだ絆創膏が強い照明に当てられて輝いた。

「あーあー」カミュはギターを抱えると、マイクに向かって声を出した。それからコツコツと人差し指の爪でマイクを叩いてみる。キーッとスピーカーが悲鳴を上げ、何人かの観客が耳をふさいだ。

「どもー」カミュはわざと気の抜けた声で話した。「ザ・ラビッツってぇ、言いまーす。いつでもどこでもぉ、皆さんのためにぃ、歌いまーす」

「じゃあ俺の誕生日パーティでも歌ってくれ!」先程のビールの男が叫ぶと、ハウスの中が笑いに包まれた。

「考えとく」

 カミュは客の呼びかけに応えると、右にいるハンスを見た。オレンジ色のギターを抱え、棒立ちで観客席をじっと見ている。その視線の先をカミュも見てみたが何も見つけられなかった。

「誰かいたのか?」カミュはハンスに耳打ちした。

「いや?」ハンスは不思議そうな目でカミュを見た。「何で?」

 次にカミュが左を見ると、黒いベースを下げたアーサーが、無表情で下を向き、仕切りにピックを動かして、演奏の最終確認をしていた。カミュは最後に後ろを見て、ドラムの向こうにいるケイティに目で合図をした。ケイティは鋭い目つきでカミュからの合図を受け取った。彼女の足元にあるバスドラムには大きく、「The Rabbits」の文字がプリントされている。これだけがドラムセットの中で、唯一ラビッツの持ち物だった。

 ケイティはカミュの合図を受け取ると、大きく腕を振り上げ、スティックを頭上でクロスさせた。カッカッカッカッと素早くスティックを打ち鳴らすと、クラッシュシンバルの音と共に、ハンスのギターがリフを鳴らし始める。アーサーのベースが加わり、次いでカミュも加わってツインギターになる。ケイティが8ビートを打つと、曲が疾走を始めた。イントロの盛り上がりが最高潮に達し、観客の期待も高まったところで、すかさずカミュの爆発するようなボーカルが入る。観客たちがうねりはじめ、波を作る。ハウスの赤い照明の効果もあってか、ハンスはこの空間にいる全て人々の血が湧きたつような気がした。実際、カミュの歌声は人を惹きつける魅力があった。格別上手いという訳ではないのだが、彼のしゃがれた、それでいて無邪気な子供じみた声は、叫ぶような、恨むような、祈るような響きを伴い、聞く者の心の奥底にグッと突き刺さるのだ。それが彼の作った荒々しくも切ないメロディと相まって、更に爆発する。作詞も彼のものだった。比喩と退廃に塗れた彼の詞は、皆の心を疲れ切った心をさらにえぐった。しかし不思議なことに、一度聞いていしまったら最後、誰も麻薬から逃れられないように、人々は身を亡ぼすはずの彼の詞に惹きつけられてしまうのだった。彼こそ天才の名にふさわしい男だとハンスは思っていた。曲はサビに入り、盛り上がりは最高潮になる。ハンスは目を閉じる。演奏していると、何を考えずとも、流れに身を任せるように、勝手に体が演奏を続ける瞬間がある。そのとき、自分を取り巻いているのは、ただ、自分と曲が一つになっているような感覚だけだ。グルーブの快楽に溺れ、ギターの叫びに骨まで揺れる。ケイティとアーサーが作り出す確かなリズムの上で、カミュとハンスのギターが躍る。観客の作り出すウェーブですら、この曲に溶け込んでいく。ハンスも、カミュも、アーサーも、ケイティも、観客も、その場にいる全ての人々の鼓動が、一つに収斂していくのを誰もが感じた。この瞬間、ライブハウスは一つの生き物のように躍動していた。この瞬間だけは、このライブハウスだけが、この世界で確かに生きていた。


 曲が終わると、けたたましい拍手の音と、賞賛の口笛が鳴り響いた。カミュはその中でマイクに向かって喋った。

「あざーしたー」気の抜けた声だった。「今のは『On the Run』って曲ね」

拍手は鳴り止まず、それを背に受けながら四人はステージを後にした。ギターのギイーッというノイズがハウスの中にいつまでも反響し続けている。四人とも、顔を伝う汗を手の甲で拭い、楽屋のドアを開けた。

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ラビッツ・オン・ザ・ラン トロッコ @coin_toss2007

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