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『オッペンハイマー』を見た(ネタバレ有)

 今日、映画『オッペンハイマー』を見た。監督は『インセプション』、『インターステラー』でお馴染みクリストファー・ノーランである。
 「素晴らしい映画」。これに尽きる。まず脚本が素晴らしい。「原爆の父」オッペンハイマーの半生をじっくりと、それでいてテンポ良く語ってくれる。一つのシーンを取っても、セリフの一つ一つまで吟味され、研ぎ澄まされていることが伝わってくる。通常、ダレてくる終盤にもちょっとしたどんでん返しが仕込まれており、最後まで観客を飽きさせない。この素晴らしい脚本に、これまた素晴らしいノーラン監督の手腕が光る。観客の意識をググッと惹きつけ、磔にしてしまうその類まれなる演出力である。特に凄いのが「トリニティ実験」のシーン。「0」のカウントと共に、青い閃光が辺りに走り、次の瞬間には空に目に焼き付くような爆炎が上がる。音が届くまでの数十秒間、ただただ無音。完全な沈黙の中、周囲全てのものを飲み込み、原子雲は赤々と膨れ上がっていく。実験に立ち会った誰も、この映画を見ている観客すらも、ただ呆気にとられるしかない。そしてオッペンハイマーはとある一文を思い出す。それはあの日、ジーンに聞かせたあの言葉。「我は死なり、世界の破壊者なり」あまりにも恐ろしく、あまりにも美しいシーンである。
 原爆投下という事実にアメリカ人としてしっかり向き合っているのも好感が持てる。オッペンハイマーはトリニティ実験の成功に有頂天になりつつも、いざそれが兵器として使われると、罪の意識に苛まれることになる。しかし、アメリカの態度は彼の真逆を行く。周囲は彼を「原爆の父」、戦争を終結させた英雄として崇める。罪悪感をトルーマン大統領に吐露しても、「泣き虫」と罵られる。アメリカの原爆投下に対する当時の態度が良く伝わるシーンである。このテーマに関して特に印象に残っているのが、主人公の妻キティの言葉である。不倫相手ジーンの自殺で落ち込んでいるオッペンハイマーにキティは、「罪を犯したくせに同情しろと?」という一言を浴びせる。原爆使用に対する批難も暗に含まれているのならば、「原爆投下は仕方のないことだった」と主張するアメリカ人にとってあまりに手痛い一言なのではないだろうか。
 終盤は聴聞会がメインになるが、ここも面白かった。語り手の一人として登場するストローズ、彼こそがオッペンハイマーを罠にハメた人物であることが発覚し、オッペンハイマーは勝ち目のない戦いへと引きずり込まれてゆく。原爆に対する罪悪感を抉られ、一方的に「アカのスパイ」の烙印を押されたオッペンハイマー。しかし彼を慕っていた科学者仲間たちが公聴会にて危険を顧みずストローズを告発する。この一連の流れもなかなか見ごたえがあった。
 一つ注意しておきたいのは、この映画を「原爆の映画」として見に行くのはおススメしない、ということである。これはあくまで、「オッペンハイマー」という一人の人物の物語なのである。彼がいかなる人物であったのか。いかなる経緯で核開発に携わったのか。原爆投下をどう受け止め、その後どうなったのか。そして、誰と出会い、誰と別れたのか。そういう映画なのである。だからこそ、聴聞会までが映画に組み込まれているのだ。日本人としては「広島・長崎」の話題、「原爆投下の是非」が気になるところではあるが、そこを深く掘り下げていく作品ではないので、そこは一つ留意されたし。
 ここまでダラダラと書いてきてアレだが、結論はやはり冒頭と同じである。これは「素晴らしい映画」だ。そう、「映画」なのだ。ただの「伝記」で終わらず、「映画」であってくれたのが、まず何よりも称賛に値することだろう。

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