2 "目覚め"


 冷気に驚いてハンスとカミュは跳び起きた。白い霧のようなものが彼らに吹きかけられている。二人はソファに深く身を沈め、両手で顔を覆って霧を遮ろうとするが、今度は角度を変えて下から吹き付けて来た。

「待て、待てって!」ハンスは霧の向こうへ声を上げた。

すると、霧は途端に止み、向こう側から徐々に女性のシルエットが浮かび上がってきた。二十代ほどのその女性は右肩に赤い消火器を担ぎ、二人を軽蔑の眼差しで見下ろしていた。

「起きたかカス共」女性は後ろで結わえたポニーテールを少しいじった。「まぁ、酔いつぶれてもここに来たことだけは褒めてやるよ」

「どこだよここ?」カミュは周囲を見回した。顔にかけられた消火剤のせいでハッキリとは見えなかったが、幾つかの鏡とカウンターテーブルが見えた。

「今日のギグの会場ですよ」

二人は振り返った。後ろの椅子に眼鏡をかけたひょろ長い青年が、腕と足を組んで腰かけている。緑色のポロシャツはキッチリ皺がのばされていた。

「よぉ、アーサー」

ハンスが青年に声をかけると、彼は黙って手を挙げて応えた。

「ギグ? 明後日だろ?」カミュは女性に言った。

「その明後日が今日なんだよクズ共」女性が答えた。「昨日は一日中どこ行ってたんだ? 連絡一つくらいしとけよ! 二人そろって飲みまくってんだろ? どーせそうなんだろ!?」

「十二駅離れたところでな」カミュが言った。

「は?」

「いや、コイツが」カミュは親指で隣の消火剤で真っ白になったハンスを指差した。「遠くで飲むって言うから」

女性はその答えを聞くなり、消火器の角でカミュを殴りつけた。彼は呻きながらソファに蹲った。鼻頭についた昨夜の傷が再び開き、カミュの右手を赤く濡らす。

「その間、誰が警察に頭下げてたと思ってんだ?」

「待ってくれケイティ」ハンスは両腕を高く上げると、震える声で言った。

「待ても何もねぇよ。当然の罰だろ」

「お前にはホントに感謝してる。昨日は、一昨日もだが、本当に、マジで、マジですまなかった。でも……でも、身勝手な頼みだってのは分かってる……でも、ここは一旦、一旦怒りを静めないか?」

楽屋内を静寂が包んだ。カミュの呻きだけが部屋の中で虚しく空回りしていた。

「随分と都合のいい言い訳だな。散々好き放題やっておいて、『怒りを静めろ』か? 昨日の騒ぎだって、大方、カミュがクソみたいなヤツらに借金返さねぇから、警告のためにそいつらがライブを潰しに来たってとこだろ? こっちは巻き込まれた被害者だぞ!?」

「でも……でもとりあえずそれを」ハンスは左手を挙げたまま、右手で消火器を指した。「下ろしてくれないか?」

「このクソ野郎……!」ケイティは絞り出すような声で悪態をつくと、大きく息を吸い込んで、消火器を振りかぶった。ハンスはギュッと目をつぶった。しかし、消火器が振り下ろされることはなかった。

「ケイティ」誰かがケイティを呼んだ。二人の視線の先にはアーサーがいた。「一度落ち着いてください。言わせてもらいますけど、僕も暴力に訴えるのはあまり感心しません」

「だけど…!」ケイティが何か言いかけたが、アーサーはそれを右手で制して続けた。

「まぁ、二人が―特にカミュのせいで色々メチャクチャになったのはそうです。その二人には後々責任を取らせるとして、今はとりあえず、穏便に行きましょう。ギグもあと、開始まで十六分しかありません」

ケイティは下唇を噛んで、悔しげな表情をしていたが、やがて折れたのか消火器を肩から降ろしてため息をついた。

「……分かった。まぁ、許したわけじゃないから。それにカミュはともかく、ハンスはこういうことするの珍しいし。ハンスのためにも、今回はとりあえず見逃すことにするから。でもこれで前科一犯だかんね。次やったら消火器より強いので殴るから」

「あぁ、マジでありがとう」ケイティの言葉が柔らかくなったのは、気持ちを落ち着けた証拠だ。ハンスは笑顔で彼女の寛大な処置に応えた。

そうして楽屋内の熱はある程度収まった。一人を除いて。

「この野郎!」カミュはケイティに飛びかかろうとしたが、その前にハンスの拳が鼻先を直撃した。カミュはまたソファに蹲った。

「じゃあ、先に行ってるからなクソ共」

そう言うと、ケイティは消火器をまた右肩に担ぎ、楽屋の扉を開けて出て行った。ステージ上のライトがソファに腰かける二人の目に突き刺さった。

「マジで、覚えとけよ……」

蹲ったまま、カミュが掠れた声を上げた。その声はソファに顔を埋めているせいでくぐもっていた。ケイティは振り返りもせず、後ろに向かって左手の中指を立てた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る