ラビッツ・オン・ザ・ラン

トロッコ

1 "Vertigo"



 ライブハウスは酷い有様だった。群衆は固まり、うねり、一つの流動体のようになっている。彼らが作り出しているのはただひたすらに混沌だけだ。ある人は押しのけ、ある人は隣の他人とキスを交わし合い、ある人は他人の頬を殴り、ある人は未だ歌を歌って「ラビッツ! ラビッツ!」とコールし続けている。クラッカーの音が鳴って、キラリキラリと色鮮やかなテープが宙を舞う。バリン、バン!と大きな衝突音がした。誰かが振るったモップがステージの照明に当たり、それが落下したのだ。女性の短い悲鳴が聞こえた気がしたが、もはや誰が何処でケガをしているのか分からないので、気に留める者はいなかった。

 揉みくちゃにされながら、ハンスは一心不乱に手を伸ばしていた。誰かにビールをかけられたので彼の髪はベトベトと顔にまとわりついた。どちらがステージだったのかすら、もう把握できない。ただアイツの手を掴むことさえ出来ればいいんだ。掴んだら一目散にここを出よう。ハンスは髪をかき上げ、周囲を見回した。すると、宙を舞うギターの真っ赤なボディが目に入った。一度見たら忘れることなどできない、鮮烈な赤だった。オレンジ色の照明が震えるように小刻みにギターへ向かって点滅を繰り返している。ギターはそのまま観客の脳天へ落とされた。繋がれたアンプからギターの歪んだ轟音が飛び出し、ライブハウス中に突き刺さった。ハンスは人々の波をかき分け、ギターのほうへと向かった。点滅するライトに目が眩み、夢を見ているかのような浮遊感に襲われる。それでもハンスは固いフローリングをしっかりと踏みしめ、ギターのほうへひたすら腕を伸ばし続けた。熱狂の中で覚えのある声をわずかに聞き取ることが出来た。

「相手してやるぞクソども!」

 誰かの手を掴む感覚がした。大きな、それに似合わず柔らかい手だった。ハンスはその手を一気に引いた。宙に振り上げられたあの真っ赤なギターが突然、観客の波の中へと消えていった。彼は脇目も振らず、ライブハウスの赤い階段を駆け上がって地上に出ると、一目散に通りを逃げて行った。ハンスはここで初めて、自分が手を引いている男のほうを見た。髪はぼさぼさでどこかあどけなさの残る顔。ヨレヨレのレザージャケットが滑稽に見える。男の口から黄色い声があふれ出た。男は笑っていた。心の底から笑っていた。

 ライブハウスから数人の男が出て来て、彼らの後を追いかけた。夜の通りは水溜まりが出来ていて、バシャバシャと水をはね上げながら二人は逃げてゆく。飛び上がった水滴に、赤信号が映り込んでキラキラと輝いた。通りを折れてひたすら走る。二人はまた適当な角で曲がる。走り続ける。顔を流れる汗を振り払う。ハンスの擦り切れた茶色のジャケットが風に乗って靡いた。しかし、ハンスはふと気づいた。引っ張っていた手の感触が消えている。振り向くと、あの童顔の男が消えていた。

「カミュ?」ハンスは周囲を見回しながら男の名を呼んだ。「クソ」

ハンスは角を折れ、テレビの笑い声に浸る裏通りを駆けていく。カミュの名を叫ぶが、入り組んだ路地に阻まれてまるで届かない。街はまるで迷宮と化していた。どこも同じ色、どこも同じ音、どこも同じ灯り……カミュはおろか、自分が今どこにいるのかも分からない。ただ走り続ける以外に抜け出す道はないという考えがハンスの脳内を巡り、彼を支配する。そのとき、覚えのある声が聞こえて来た。甲高い子供のような声だった。カミュだ。

 ハンスが次の角を左に折れると、路地の向こうに二人の男の姿が見えた。街の灯に照らされて、二人のシルエットが浮かび上がっていた。一人は拳銃を相手に突き付け、もう一人は両手を挙げて立っている。しかし、右足に体重をかけて立っているせいか、目の前の銃をさほど気にしていないように見えた。ハンスは近くにあった大きなゴミ箱の陰に隠れ、二人の様子を窺う。

銃を持った男が言った。「来た意味は分かるよな」

両手を挙げたカミュが言った。「まぁ、だいたい」

「金は?」

「だよな」

「あぁ、金だ。借りた金は返せ」

「あー……代わりに俺らのライブのタダ券で妥協ってのはどう?」

「妥協?」

「金の代わりってことで」

「それが何になる?」

「え?」

「お前らのライブ聞いて何になる? 金に換えられるか?」

「……金よりはいいものが手に入る……って思ってんだけど」

「なるほどな」銃を持った男から苦笑が漏れる「お前は自分の歌が金の代わりか、それ以上になると思ってるわけだ」

「いい案だろ?」

「いい案だな」

二人はお互いの顔を見ながらハハハと笑った。次の瞬間、男が銃を振り上げて、カミュの顔を殴りつけた。倒れたカミュの髪を掴むと、二発、三発、とさらに殴りつける。男は立ち上がって、銃を再びカミュに突き付ける。仰向けて鼻を押さえて呻くカミュを、暗い銃口が静かに見下ろしていた。

「お前んとこじゃそうなのかも知れないが、俺らの世界では違うんだ。さっさと金を寄こせ」

「今、」掠れた、途切れ途切れの声。「今、マジで……マジで……ないんだって」

「今、俺に金を渡さなかったら、借金のことなんかまたすぐに忘れて、同じことを繰り返すだろ?」

カミュは何かを喋ったが、口の中に血が溜まった口の端から零れるだけで、意味のある言葉は聞こえてこない。

「ま」男は銃をカミュに突き付けたまま、路地を見回した。「無いならお前のお友達に請求するまでだ」

「それは……やめろ……」

「あと」男は地面に転がっていた板きれを拾い上げると、右手でクルリと一回転させた。「二度と忘れないように、その足折って頭に刻んでやるよ」

カミュは力を振り絞り、這いずって逃げようとするが、男はそれを見下ろしたまま、不気味に笑うだけだった。流れ出た血は路地の黒いアスファルトと同化して見えなくなる。

「じゃ、行くぞ」

男はカミュを右足で踏んで抑えつける。カミュの叫び声が路地に響き渡る中、男は板を両手で大きく振りかぶった。

 そのとき、路地の向こう側からゴン!という鈍い音がした。男は音に驚き、カミュから一瞬目を反らす。隙をついて、カミュは手近な石を拾い上げ、男に投げつけた。男は顔の頬を押さえてよろめく。カミュは立ち上がり、男の手から板をひったくると、フルスイングで殴りつけた。男は勢い良く地面に叩きつけられ、仰向けのまま動かなくなった。カミュはしゃがんで、男が右手に握っている拳銃を奪い、月明りに照らして眺めた。西部劇でしか見たことのないような立派な黒い回転式拳銃で、弾倉にはまだ5発も弾が入っている。

「そんなもん、奪ってどうすんだ」

背後から声がした。ハンスだった。

「いつか役に立つかもしんないだろ?」

カミュはズボンの背中側に拳銃を差すと、ジャケットで覆って隠した。

「お前が狙われたら貸してやろうか?」カミュは血で汚れた顔にニヤニヤと笑みを浮かべる。

「随分余裕だな。俺がゴミ箱殴って音立てなきゃここで死んでたくせによ」

「死なねぇだろ。足折られただけだ」

「死んだようなもんだろ」

カミュは言い返そうとしたが、反論は出てこなかった。

「それより!」カミュは悔しさを嚙み殺して、通りの先を右手で示した。「ヤツラ来るぞ」

ハンスは遠い赤レンガの壁を見た。幾つもの影が壁に規則正しく並んで揺れている。ハンスは髪をギュッと掴んで苦々しく歯を食いしばった。「どうする、もう逃げは通じねえぞ」

しかし、カミュは答えない。ハンスが気になって振り返ると、彼は大きなゴミ箱の蓋に手を掛けていた。

「何してんだカミュ?」ハンスが尋ねた。

カミュは相変わらず笑みを浮かべながら、蝶番で止まったその蓋を思い切り跳ね上げた。建物の壁に当たって弾けるような大きな音がした。

「隠れんだよここに」彼はハンスのほうを振り向きもせず、一心不乱にゴミ袋を幾つか外へ放り出した。

「マジか」

「捕まるよりマシだろ!」

「マジかよ」

「オレは先に行ってるからな!」そう言ってカミュは大きく飛びあがり、ゴミ置きの中へと消えていった。

ハンスはゴミ置きに近づいた。悪臭が鼻を突く。酒や油の匂いに、果物か何かの腐った匂いがまとわりついている。ハンスは戸惑っていたが、元来た通りのほうに、街の灯に照らされた男たちの影が伸びていた。彼はもう一度ゴミ置きに目をやると、意を決し、飛び込もうと身構えた。しかし、その瞬間に胸ぐらをつかまれ、彼は頭からゴミ置き場にダイブするような結果になってしまった。大量のゴミ袋の中で、カミュと目が合った。彼の眼は酒と闘争と興奮で、真っ赤にギラついていた。その眼は不敵にウィンクした。

 男たちがやって来た。二人は息を潜め、ゴミ箱の底で待つ。蓋の隙間から時々、男たちが持つフラッシュライトの光が一瞬だけ差し込んできた。彼らは路上でのびている仲間を叩き起こすと、水溜まりを蹴って路地の先へと歩みを進めていった。

「おい」カミュは声を押さえてカカカと笑った。「俺たちまだ生きてんな!」

 しばらくして男たちの声が完全に聞こえなくなると、二人は蓋を開けて外に出た。地面に降り立つと、カミュは背を伸ばし、胸を反らせて思い切り空気を吸い込む。

「ああぁ、ゴミ箱の中よりはマシだな」

そう呟いたカミュの顔に拳が直撃した。カミュは水溜まりに倒れ込むと、水の滴る顔を上げて、ハンスの顔を見上げた。ハンスは大きなため息をついた。

「マジで何回繰り返せば気が済むんだよ?」ハンスは目頭を押さえてうなだれる。

「……何だよ?」

「何回こんなことすりゃいいんだって聞いてんだよ」

「オレと一緒にいる限り死ぬまで続くからな」カミュは立ち上がり、笑みを浮かべてハンスを指差した。「その覚悟で一緒にやってんだろ?」向けた指をクルクルと回す。

「まぁ、そうだけどな……でも、あんなこと続けてたら、遅かれ早かれ誰かに殺されて、その辺の川に捨てられんのがオチだ」

「人間だしどーせいつか死ぬ」

「俺はヤだ」

フフフッとカミュは笑い、咥えたタバコに火を点けた。暗闇の中、ポッと彼の顔が浮かび上がる。

「まぁ、オレもここでお別れは嫌だからな。次からはやめる」

「約束しろ」

「約束する」

「言ったな」

「言った」

「二言はなしだ」

「もちろんなしだ」

「破ったら殺す」

「あぁ殺されてやるよ」

「よし」

ハンスは通りの遠くの方を眺めた。もう男たちの影は見当たらなかった。ハンスはカミュがキレた原因については言及しなかった。それに触れるのは何だか照れ臭かったのだ。それはカミュも同じようだった。

「なぁ飲みに行かねぇか?」カミュはハンスの背に向かって問いかけた。

「あぁ」振り向かずにハンスは答えた。「なるべく遠くにな」


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