第201話
「……シルフ様は、貴女を殺すつもりだったのです」
自死したシルフを抱いたまま、自分は呆然としました。
彼女が死を選んだ理由が、わからなかったからです。
戦争は終わり、まもなく連合と我々の間に講和が結ばれます。
ならばシルフの身柄も、連合軍に返還されるはず。
……連合軍での彼女の扱いは悪いでしょうが、アルノマさんはきっと庇ったでしょう。
だからシルフ・ノーヴァは、処刑されない可能性が十分ありました。
「自分を、殺す……?」
「ええ。刺し違えてでも、と」
しかし塹壕の魔女は、拳銃による自死を選びました。
彼女は戦争が終わった直後に、自分の脳漿を塹壕にぶちまけて果てました。
……まだ、彼女と話したいことは沢山あったのに。
たとえ処刑されるにしろ、ヨゼグラードに連れて行って、再興した祖国を見せてやりたかったのに。
「オースティンが勝利し、歓喜に沸いた瞬間を狙って。トウリ・ロウを射殺する計画でした」
「……シルフはそれほどまでに、自分を憎んでいたのですね」
ですが彼女は何も言わぬまま、今世紀最高の頭脳を吹き飛ばしてしまいました。
袖の奥に隠し持っていた小さな手銃で、かすかに微笑みながら。
「貴女を殺した後に、自決する。それは、あの娘の中で決定事項だったように思います」
「……どうして」
エライアさん……彼女はシルフ・ノーヴァの副官の、衛生兵です。
彼女は、今日の戦で『何が起ころうと』シルフ・ノーヴァが自死することを知っていました。
「『シルフ・ノーヴァが生きていること』が、祖国サバトの害になるから」
「……!」
「だって、そうなるように仕向けたのは貴女でしょう? トウリ・ロウ」
彼女がヨゼグラードに残した爪痕は、非常に大きく。
シルフが死なない限り、サバト国民は心穏やかに眠れないのです。
……なのでシルフは今日、どうあろうと自決するつもりでした。
「シルフ様は、うわ言のように呟いていました。あの女さえ、あの二人さえいなければ、と」
「……」
「トウリ・ロウに心を許し、ヤツを生かしてしまったことが、生涯の過ちだと。そう、涙声で零し続けていました」
シルフ・ノーヴァをそこまで追い込んだのは、自分とベルン・ヴァロウです。
その怨嗟が、自分に向くのは当然でしょう。
だから彼女は、自分を道連れにする計画を立てていたようです。
私一人が死ぬのは不条理だ、
「ですが、状況はシルフ様の想定と大きく異なりました。オースティンは窮地に陥り、アルノマ氏による講和で決着しました」
「……ええ」
「あんな状況になったら
「……」
「だからシルフ様は祖国を守るために、貴方を殺せなくなったのですよ」
ですが、自分はアルノマさんと抱き合って講和を宣言する役目を遂行しました。
つまり自分とアルノマさんは、終戦の象徴になったのです。
そんな自分が射殺されれば、再び戦いの火蓋が切られるかもしれません。
だから彼女は自分を撃たず、自死するにとどまった。
「運が良いヤツだ、と。シルフは自分に捨て台詞を吐いていました」
「きっと、シルフ様の本心でしょうね」
彼女は、立てた計画を最後の最後まで自分に狂わされたのです。
だとすればきっと、自分を深く恨んでいたことでしょう。
「……ですが、だったら」
「どうしました?」
「なんで。どうしてシルフは、彼女は自決する前に微笑んでいたのですか」
シルフの自分への恨みは、正当です。
自分が彼女を恨んでいるように、彼女も自分を恨む権利があります。
だけど、シルフからはそんな殺意は感じませんでした。
「アルノマさんの呼びかけに応じるよう自分を促したのは、シルフです」
「……」
「彼女の頭脳なら、自分が殺せなくなることくらい予想がついたはず!」
彼女が最期に見せた顔は、悲しそうではありましたが……。
ホっとしているような、穏やかな微笑みでした。
「シルフ様は、貴女に笑いかけられたのですね。やはり、あの娘は優しい子」
それを聞いたエライアさんは、静かに目尻をぬぐって。
シルフの遺体を、一瞥しました。
「やはり、とは」
「なんだかんだシルフ様は、『理由をつけて』貴女を殺さない気がしていました」
シルフの死に顔は、うつ伏せなのでよく見えませんが。
その横顔に見える唇は、かすかに微笑んでいました。
「トウリ・ロウ。あの娘は貴女にだけ、年相応の顔を見せていました。きっと、友達になりたかったのだと思います」
「……」
「だからこそ道連れにしたかったし、だからこそ殺せなかった」
シルフ・ノーヴァは最期まで、善性の人でした。
大義を失った無念も、自分への憎悪も、持っていた筈なのに。
「きっとシルフ様も、貴女を殺さなくていい理由ができて、ホっとしたんじゃないでしょうか?」
「────」
死ぬ間際ですら、その善性を保って。
気高く、誇り高く、自決を選んだのです。
「シルフ様は小官に、よく夢を語っていました」
「夢、ですか」
「ええ。サバトが平和になったら、チェスの大会を開きたいのだと」
彼女は理想の為に、多くの人を殺しましたが。
彼女は最後まで、私欲で人を殺さなかったのです。
『私が、平和なサバトを取り戻すんだ。国民が、皆が、安心して暮らせる国を取り戻す』
『シルフ様』
『兵士でもチェスに興じれるくらい、平和なサバトを作るんだ』
愚かしいほどに、シルフ・ノーヴァは善良でした。
そして彼女の夢は、平和で他愛なくて、
『その大会で優勝して、私の名をサバト中に轟かせるんだ────』
もう決して、叶うことはありません。
「あんなに優しい娘が、貴女を撃てるわけがない」
「……」
「やはり最期まで、シルフ様はシルフ様だったのですね」
シルフはありとあらゆる感情を飲み込んで。
自分への復讐を諦め、自死を選んだのです。
「シルフ様のご遺体は、どうされますか」
「────せめてサバトに送ろうと、思っています」
「ありがとうございます」
祖国のため、正義に殉じたはずの天才参謀シルフ・ノーヴァ。
その悪名は、後世に百年は残るでしょう。
ですが彼女は最期まで私欲のために戦わず、私怨で
その誇りに、敬礼を。
「せめてあの娘の魂は、サバトの地にあって欲しい」
シルフ・ノーヴァは道を間違えました。
サバトのために内乱を主導し、民間人に数多の犠牲者を出しました。
そしてシルフの名は後世に、永遠に悪名として伝わり続けるのです。
「……シルフ・ノーヴァ。貴女の命は、サバトという国家の礎になりました」
命も、名声も、何もかもを投げうった稀代の天才。
彼女のお陰で、オースティンは滅びずに済みました。
「今、こうして戦争が終わったのは貴女の覚悟のお陰です」
史上最悪の愚将として名を残した、稀代の名参謀シルフ・ノーヴァ。
おそらくこの世界に、彼女の死を悼む人などほとんどいないでしょう。
だから、せめて彼女の善性を知っている自分くらいは。
「その高潔な生きざまに、追悼を」
彼女の死を悼みましょう。
来世はきっと、戦争のない平和な世界に生まれてください。
「終わっちまったな、トウリ」
「ええ」
こうして、世界大戦は終結しました。
「今までありがとうございました、ガヴェル少尉」
「……ああ」
終戦時の情勢は、それはひどいものでした。
オースティンは膨れ上がった戦費、チェイム風邪の流行、労働人口の低下などにより壊滅的な被害を受けていたのです。
「泣いてる。みんな、泣いてる」
「これからどうすれば良いんだろう」
食料も枯渇し、医療物資も足りず、稼働できるのは軍事工場のみ。
サバトでもチェイム風邪が流行し始めたので、支援物資は十分に届かなくなり。
戦争は終わったのに、毎日死者が出続ける惨状でした。
「ぷぇーぷくぷくぷく」
「アルギィ?」
戦争で失ったものが、余りにも多すぎて。
ここからどうすれば国を建て直せるのか、みんな途方にくれていたでしょう。
「……
「おいアルギィ、お前な」
「……生きてるヤツ、治療して回るから」
ですが、一瞬で街を復興できる魔法のような策なんてありません。
途方もない被害が出たなら、途方もない時間をかけて直していくしかないのです。
「私に、出来ること、やっていく。ぷーくぷく」
「ありがとう、アルギィ」
……一つ一つ、出来ることを積み重ねて復興していく。
それが、自分達に必要なこと。
「……ガヴェル少尉、隊の整列点呼をお願いして良いですか。自分も少し、近くの衛生部を手伝ってきます」
「分かった」
戦争は、終わった後こそ大変なのですから。
『私は……! 私の判断は、確かに失策を招きました! ですが!』
最後に。大ポカをやらかした、クルーリィ少佐の処遇についてですが。
彼は戦後すぐ、審問にかけられることとなりました。
『ベルン様なら、ああしたはずなんだ! 後詰が予想外の速度で、ここに来てさえいなければ!』
指揮官の犯した戦況の判断ミスそのものは、罪に問われません。
どのような歴戦の指揮官でも、状況を読み違えることはあるからです。
ただし、その判断の過程に『追及されるべきミス』がある場合は処分が下されます。
そしてクルーリィ少佐に、落ち度がないとは言えませんでした。
『そもそも、イリス様が。私に遺策の内容を、一切伝えてくださらないから!』
『……』
『ああ、どうして。ベルン様はどうして、私を信じてくださらず。こんな、こんな民間上がりの……』
審問の際にクルーリィ少佐は、自分が遺策の内容を伝えていなかったことが原因であると主張しました。
彼には前々から、内心で堪えていた感情があったようで。
ベルン・ヴァロウが腹心である彼をおいて、自分のような小娘に遺策を伝えたことを妬んでいたのでしょう。
だから、あの状況で自分が追撃しないよう提案した際。
────ああ、やはりこの小娘はベルン様の後を継ぐのに相応しくない。
────真にベルン様の後継者となるのは、この私だ。
そう思い込み、自分の通信を意図して封鎖してしまったのだとか。
『ベルン様の遺策を知らぬ私には、ああするしかなかった。ベルン様の残した勝機を手繰ることに精一杯で』
『……トウリちゃん、どういうことか教えてくれないか』
『はい、ヴェルディさん』
彼の弁明を聞いたヴェルディさんは、困った顔をしていました。
何せ、彼は知っているのです。
『トウリちゃん宛ての遺書にも、何も書かれていませんでしたよね?』
『はい、ヴェルディ中佐。自分宛の遺書の文面は、おそらくクルーリィ少佐のものと大差ないかと』
『は────?』
自分の遺書にも『詳細はクルーリィ少佐に伝えてある』と書かれていたことに。
『そんな、じゃあ、ベルン様の策はどこに』
『アレはベルン・ヴァロウらしからぬ、感情的な文面だったでしょう? 裏の意図を読めというメッセージです』
『裏の、意図』
『どうしてシルフ・ノーヴァの愚痴だけで、1枚も遺言を綴ったのでしょうね? 少し考えれば、彼が何を企んでいたか気づけたはず』
『あ、あ、あ』
『そして。クルーリィ少佐も裏の意図に気づいていらっしゃったなら、策の主導役は逆転していたでしょうね』
ベルンはちゃんと、クルーリィ少佐にもパスを出していたのです。
そのパスをスルーしてしまっていたのは、彼自身。
その事実を知ると、クルーリィ少佐はその場で蹲ってしまいました。
『……そうだ、ベルン様は言っていた。言葉の裏を読めと、常々に』
『……』
『あは、あははは。私は、私は』
クルーリィ少佐は、オースティン軍では優秀な参謀将校でした。
あのベルン・ヴァロウが腹心に抜擢するほどには、能力のある人でした。
しかし、どうして彼が優秀だったのかというと……。
『ちゃんと私も、ベルン様のお言葉を受け取っていたのに』
『クルーリィ少佐……』
『私の方が、ベルン様を、理解できていなかった。あ、ああ、あ────ッ!!!』
彼は一から十まで、ベルンの言葉通りに行動したから優秀だったのです。
ベルンの指示を違えず行動していたなら、そりゃあ優秀に見えるでしょう。
……もしかしたら、ベルンが遺言を『お互いに伝えてある』という書き方をした理由の一つに。
クルーリィ少佐が『言葉通りにしか』行動できない人であると、疑っていたからかもしれません。
『クルーリィ少佐を、7日間の謹慎、ならび降格処分とする』
『……。ご迷惑をおかけして、……申し訳ありません』
その後、クルーリィ少佐は責任を追及され降格となりました。
ですが人材不足にあえぐオースティンの参謀本部が、彼を追い出すわけにはいきません。
それなりの責任を追及されましたが、追放処分にはなりませんでした。
ただ、審問の後のクルーリィ少佐は、死人のような顔をしていました。
その後、オースティン政府・サバト労働者議会は連合側と講和交渉に臨みました。
そしてその講和条件とは、『開戦前の領土』を維持すること。
アルノマさんは約束を守り、無条件・無賠償の講和を提示させたのです。
……ですがまぁ、それは建前の話で。実際はしっかり、領土割譲が行われました。
オースティンは人口が著減しているため、今の領土を維持できません。
なので講和の際、領土を『売却』する代わり復興のため物資の『支援』を受ける条約を結ばされたのです。
領土を奪われる形とはいえ、オースティン側からしてもこの条件は悪くありません。
維持できない領土を保ち続けるより、売り払って復興物資に換える方が建設的だからです。
誰もいない国土より、国民が明日食べる食事の方が大切。
フォッグマン首相はカンカンに怒っていましたが、政府はこの条約を受諾せざるをえませんでした。
因みに売られた領土は、比較的被害の少なかったエイリスの植民地になったようです。
なお戦後、このエイリスの植民地を巡ってとっても面倒な事件がおきるのですが……。
それはまた、別のお話としておきましょう。
「戦争という行為はあまりに愚かである」
そして世界大戦が終結した後。
戦争に参加した各国の指導者や官僚が集まって、首脳会議が行われました。
「我々は恒久的な平和を目的として、平和に対する強い意志を持ち、侵略を忌むべき悪徳と捉える」
世界会議の会場は、一時期はオースティンに占領されていたフラメールの都市『エンゲイ』でした。
ここにフラメール、エイリス、サバト、オースティン、ポールランドなど小国合わせて十か国以上の首脳陣が参加しました。
……恥ずかしながら自分も、オースティン側の官僚の一人として末席を頂き参加していました。
「我々は非人道的行為を前に団結し、武力や経済を以て制裁する。民間人への攻撃、衛生施設への襲撃、ガス兵器の使用など────」
この会議の議長を務めたのは、なんとアルノマさんです。
彼は強い『反戦思想』のもとで民衆をまとめ上げ、二度と戦争など起きないように各国に協力を要請したのです。
アルノマさんは砂糖菓子のように甘い『綺麗ごと』を、各国の首脳を集めて約束させました。
「もし、これらの条約に違反するような国があれば。我々は共同武力を以て、これを制圧する」
もしその『綺麗ごと』に反するような国があれば、『加入国全員で』制裁を行う。
こういう形にすることで、この条約の効力を確かなものにしたのです。
この条約はエンゲイ条約と呼称され、さまざまな平和を実現するための制約を課しました。
そして、
「ここに世界平和連盟、の成立を宣言する」
その条約の加入国で。
この世界では初めての、多国間連盟。
世界平和連盟、が樹立したのでした。
その後、世界は少しずつ復興していきました。
未だに各地で怨恨、憎悪は渦巻いてはいましたが。
『もう二度と、あんな思いはしたくない』からか、本格的な戦争は勃発せずに済んでいます。
最後に、戦後の自分についてもお話ししておきましょう。
イリスとして就いた参謀長官の立場は、すぐ辞任しました。
自分はあくまで前線指揮官です。お役に立てるのは、戦場だけ。
ベルンの策を継ぐ状況でないなら、自分は参謀足りえません。
長期的な国防を話し合う際は、役に立てないのです。
また、自分は専門的な教育を受けた将校でもありません。
なので、理論立てて戦術を解説する教官としても不向きでした。
だから戦後数年ほどは自分は前線指揮官として、オースティン国内の賊討伐に従事して。
各地の治安が落ち着いてからは、軍を辞させて頂きました。
では何故、そんな自分が国際会議に出席していたのか。
それは自分が軍を辞めた後、オースティン外交部に配属したからです。
要は、軍人から官僚に天下りした形ですね。
『終戦の時にアルノマと抱き合った軍人』という肩書は、外交の時に結構便利でした。
それに自分は表情が乏しく、話し合いの時も腹を探られにくいみたいで。
銃口を向けられても、冷静に対話し続ける精神力も培われています。
また、自分に医学知識があることも好都合でした。
外交業務の一環として、フラメールやエイリスと『医療技術の交換』ができるからです。
とくにチェイム風邪の対策は、諸外国と連携して取り掛かる必要がありました。
なので、医療知識のある外交官は重宝されたのです。
そういう理由から、自分は『外交官の素養がある』と誉めてくれたぽっちゃり外交官さんの部下として働かせていただきました。
外交官としての日々は、忙しくも充実していました。
他国を外交で飛び回り、医療技術を交換し、オースティンに持ち帰る日々。
得意の宴会芸も、留学先に溶け込むのに役立ちました。
まさに天職といえるくらい、外交官は性に合っていました。
……ですが、その代償というべきでしょうか。
そのスケジュールが忙しすぎて、セドル君の待つ『サバト経済特区』に帰省する時間が取れなくなってしまったのです。
ただでさえサバト経済特区は僻地なので、訪ねようとしたら片道で1週間ほどかかります。帰省して泊まるとなれば、数週間は休みが欲しいところ。
しかし外交官は2、3日ほど休日はもらえても、まとまった休みをとることはできません。
戦後のゴタゴタで交渉すべき内容は山積み、仕事が無限に沸いてくるのです。
しかも外交官は『顔』で仕事をしているので、やすやすと他の人に仕事を変わってもらう訳にはいきません。
仕事は楽しいのですが、長期休暇なんて夢のまた夢。
なのでセドル君の顔を見れないことが、ずっと心残りでした。
かくして十年ほど、自分は外交官として飛び回りました。
オースティンの復興は進み、地盤もおおよそ安定しました。
世界平和連盟も軌道に乗って、外交官の後輩も育ちました。
だからもう、自分のすべきことはそろそろ終わったと思うのです。
なので自分は先日、仕事を辞す決断をいたしました。
そのことを話すと周囲から引き止められましたが、そろそろ潮時だと思いました。
今までは、アルノマさんの目指す平和の実現のために『自分がやらねばならない』ことでしたが。
しかし戦後十年も経って、優秀な後輩がたくさん育ってくれました。
戦争直後は人手も足りず、自分ですら十分な戦力になっていましたが。
情勢が安定してきた今となっては、『自分がやらなくてもいいこと』になっていました。
むしろ、無教育な自分より英才教育を受けた若い人の方が、よく仕事をこなすでしょう。
かくして今年の初めに、自分は官僚をやめて民間に戻り。
ただの一人の『トウリ・ロウ』として、馬車に揺られているのでした。
これからは、サバト経済特区でアニータさんの診療所の癒者として働こうと思っています。
それが、たくさんの人を殺した償いになるとは思っていませんが。
……せめて余生は、誰かを助けて生きていきたいと思うのです。
自分の戦争体験談は、こんなところでしょうか。
長い話になりましたが、どうでしたか。
これが、自分が世界大戦で見てきたものになります。
つまらない話とは思いますが、忘れてほしくありません。
こんなにも『辛いこと』を乗り越えた先に、やっと平和が訪れたのです。
この平和な世界を欲し、戦争の狂気に駆り出され、土の中に果てた人がたくさんいたことも知っておいてください。
今、貴方たちがこうして自分の話を聞いていられること。
ぼーっとしていても銃弾など飛んでこないという、安心。
その平穏は昔、兵士として戦っていた皆が望んで止まなかった尊いものなのです。
……少し、説教がましくなってしまいましたね。
そろそろ、お話は終わりにしましょうか。
長い時間、付き合ってくださってありがとうございました。
女性は、そう言って話を切った。
照りつける太陽。さざめく虫の鳴き声。
真っ盛りの夏の森林を、古い馬車に揺られて進む、数人の男女がいた。
その馬車の中心で、小柄な女性はずっと話をしていたのだ。
その馬車の行く先は、サバト経済特区。
未だに鉄道も整備されず、道も舗装もされていない未開の奥地。
そこに行くには歩くか、数日に一度だけくる馬車を利用するのみである。
その女性の体躯には、小さな傷がいくつもあった。
髪は短く揃えられ、目つきは凛として、女とは思えぬほど肝が据わっている。
だが、その表情は明るくて。
「やっと、帰れるんです。この日を、自分はずっと待っていました」
トウリ・ロウと名乗ったその女性は。
森林の奥を、少女のように目を輝かせて見つめていた。
馬のいななきが、静かに木霊して。
一歩ずつ、目的地へと歩を進めていく。
「ああ、ここです」
やがて広がるのは、切り開かれた集落。
サバト風のヴァーニャがでかでかと見える、経済特区への入り口。
長い長い旅を経て、トウリは家族のもとへ帰ってきたのだ。
「自分は、やっと。平和な、日常に」
彼女が平和にたどり着いた、その日。
青空はどこまでも、晴れ渡っていた。
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