片翅少女の夙夜夢寐

エイポッズ

序章 変わり映えしない日常


 私は暗闇の中、一人残されている。何度も経験した暗闇の中、ぽつんと。光も何もないはずなのに、私の姿形ははっきりと見えるのが気持ち悪い。いつからここにいたのか、それが分からないのも気味が悪い。


 ‥‥暗いのは嫌いだ。でも慣れている。そして独りも嫌いだ。こっちは慣れない。きっと一生そうだ。


 少し目を瞑って再び開くと、目の前に光が見える。地球から見た月のような、小さな光。そこに2つの人影が見えた。何か話しているようだが、私には何も聞こえない。


 私は影の正体も、この先何が起こるのかを理解している。そして"それ"を止めることは決してできないことも。分かっていても抗いたい、その思いが私を光の元へ走らせる。辿り着けないとわかっていても。


 今回は、今回だけは間に合うかもしれない‥‥私はいつもそう祈って光へと走る。光へどんどん近づいていく。もう少し、あと少し、手が届きそうになる。


 ‥‥いつもこの時だ。


 そう考えた途端、衝撃と共に、弾ける音がする。血飛沫が顔にかかると共に、私の心の奥がえぐられ、引きずり出され、恐怖で、絶望で満たされる。光は消え失せ、血の冷たさを残して、私はまた独りになる。


 視界が混濁する。音も聞こえない。何も感じない。何が起きているのかも分からず、意識が溶ける。


 そして消える。ぷつん、と。




---*---




 目覚ましの音に夜ヶ翅よがばね海月くらげが気づいたのは、彼女が夢から覚めたことに気づいて数秒後のことだった。よほどの悪夢を見たのか息を荒げ、何もない壁を見つめて右手を伸ばしている。


 次第に状況を理解していくに連れて、乱れた目の焦点が戻る。全身から冷や汗が染み出しているからか、服は少し湿り気を帯びていた。もう何度この目覚め方をしたのか、数える気にもならない。海月は大きなため息をついた。力の抜け落ちた手がぽすんとベットに落ちる。


 窓に目を向けると、既に昇った陽の光が彼女の目を刺した。もう少し布団に篭っていたかったが、目覚ましの音は彼女の意識を引きずり出す。観念した海月はむくりと上半身を起こし、まだ残る動悸を感じて左胸を押さえた。


 気分がマシになり、ようやく目覚ましの音が気になった海月は携帯の方へ目を向ける。寝ている時に跳ね除けたのか、携帯は床に落ちて身を乗り出さないと取れない距離にあった。それを見て一呼吸置くと、ベッドから体を乗り出すわけでもなく携帯を見つめる。


 ‥‥すると突然、音も無く、ふわりと携帯が浮かび上がった。海月は眼前で起こる異質な光景に、何ひとつ驚かない。ゆっくり近づいてくる携帯に向けて右手を伸ばすと、そのまま彼女の右手に収まった。慣れた手つきで鳴り続ける音を止めて、画面に映る時間を確認する。6時46分。起きる予定だった時刻を少し過ぎていた。


 「起きろー、海月‥‥今日は起きろ‥」


 海月はそう呟きながら頬を軽く何度か叩き、瞼が閉じたまま数秒静止する。大きくあくびをしたかと思えば、のろのろとした動きで毛布から身体を出して立ち上がった。


 背筋をスッと伸ばし、一度だけ大きな深呼吸をする――呼吸で体が揺れると、中がなのか、パジャマの左袖が肘から先で力無く揺れた。寝起きで髪を大きく跳ねさせた彼女はペタペタと足音を鳴らしながら、怠そうな足取りで洗面所へと向かった。


・・・


 身長170cmの細身。茶と黒のショートヘア、歳は十八。顔に微かな火傷痕があり、低い声と目の下に残る淡い隈と半開きの瞼は、何処か陰気な雰囲気を漂わせる。左腕の肘から先は、無い。


 ――それが彼女、夜ヶ羽海月。


 彼女はいつも通りに顔を洗い、歯を磨き、顔を整え、服を着替える。質素でも豪華でもない日常。シャワーヘッドや焼けたパンが浮かんだりしているが、彼女にとってはこれが普通である。


 昨日画面を消し忘れたテレビからは、早朝のニュースが流れている。昨日から半分開けっぱなしのカーテンから光が差し、まばらに埃の舞う部屋で外出の準備を進める海月。歯ブラシに歯を磨かせながら、朝食にスクランブルエッグを焼く。皿上の焼けたパンにそれを盛った頃に、7時の時報がニュース番組から流れ、早朝のニュースを伝え始めた。


 『本日は無明ヶ丘大学の入学式。学内や商店街では新入生を歓迎するため、特別セールやサークルの勧誘会の準備が‥‥』


 ふと流れたそのニュースが耳に入り、皿を持ちながら画面を覗く。テレビには学内で新入生を勧誘しようと湧くサークルの様子、商店街が朝早くから賑わう様子が映し出されていた。


 ――朝早くから立派だな、そんなことを思いながら宙に浮かぶパンを齧る。


 しばらくして朝食は腹の中に納まり、海月は黒と緑のチェック柄をしたマフラーを巻く。にある程度支度も終わって余裕ができたのか、ベランダに出て外を眺める。彼女の住むマンションの4階からは、周囲の家をほんの少し見下ろせた。ちらほら学生や姿を見て、微かに聞こえてくる子供の会話を盗み聞いて、そこで初めて朝を感じる。


 柵にもたれて、ぼぅとしながら感じる風で涼みながら気分を落ち着ける。こうすることでやっと、あの最悪な目覚めをしばらく忘れられるのだ。それと同時にニュースで見た町、そして学内の様子を脳内で反芻はんすうし、とある小さな期待が芽生える。それでも、彼女の瞼が明るく開くことも、笑みを見せることもない。ただ無表情のまま、じっと……ふと目に留まった、笑顔で騒ぐ二人の子供を見つめる。


 再び目覚ましの音が鳴る。『出発』と表示される携帯の画面を消し、海月は玄関へと向かう。粉になった生地が残る皿をテーブルに残し、カバンを肩にかけ、支度を終えた彼女はマンションを発つ。……彼女がいなくなった部屋に響くのは、点けっぱなしにしたテレビの音だけ。一人暮らしの一室を包む変わらず寂しい静けさも、変わり映えしない日常だった。

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