36 波の間に間に
夕陽が、西の海に沈もうとしていた。
赤と橙の薄布が幾枚も重なって天を覆い、朱金の輝きが海に散らばる。
潮風が真夏の太陽に火照った体を優しく冷まし、波の音が柔らかく耳朶を打つ。
荘厳な光景は、息を飲むほど美しい。
「海が、好きですか?」
長い船旅の間、乗客は各々好きに過ごしているが、セツはよく甲板に出て海を眺めていた。
ロワメールはそっとセツの横に立つと、潮騒の邪魔にならぬよう小さく問いかける。
「そうだな……」
ロワメールが予想していたより、もっとずっと穏やかな声が返ってきた。
セツはロワメールが隣に来ても嫌な顔をせず、いつもとかわらず接してくれる。
ロワメールはそれ以上なにも言えず、セツと並んで海を見つめた。
例え嫌われても、セツから苦しみのひとつを取り除く。
そう決めたとはいえ、いざその事態に直面すると怖気づいた。
完全に、ロワメールの独りよがりでワガママだからだ。
優しい名付け親に、魔法使い殺しをさせたくない。その一心で、セツ自身がどう感じているかなんて聞かなかった。
セツの為に、千年を超えるギルドの体制をかえようとしているのだ。
身勝手だと責められても、反論できない。
――ぼくは魔法使いが大嫌いだ。
その上、怒りに任せて口走ってしまった本音は、セツに聞かせる必要のないことだった。
考えれば考えるだけ、時間が経てば経つだけ、ロワメールはセツと話をするのが怖くなった。
ロワメールはセツを父のように慕うが、じゃあセツにとってロワメールは?
セツが命を救った人間は、きっと大勢いる。ロワメールは、その内の一人に過ぎないかもしれない。
(セツにとって、ぼくはなんなんだろう……)
このまま二度と会えなくなってもいいのかと、カイから部屋を追い出されなければ、ロワメールは今も客室に閉じ籠もったままだろう。
「……目覚める度に、人も街もかわってる。海だけがかわらないからな」
海を眺めたまま、セツはポツポツと語った。
その答えに、ロワメールは胸の痛みを覚える。
何百年と生きることを余儀なくされる、それがマスターの宿命といえど。
一度眠れば、次に目覚めた時には知っている人間は誰もいない。そんなことを、セツはずっと繰り返している。
それはどれほど寂しく、孤独なことだろう。
「それに、この海の果には……」
「………」
「いや、なんでもない」
セツは言い淀んだけれど。
ロワメールは続く言葉を知っていた。
水平線を眺めるセツは、皇八島の誰より長く生き、誰より強いはずなのに、存在がやけに希薄だ。
そこにいるのに、まるで実在していないかのように。
すぐそばにいるのに、決して触れることができないように。
まるで夢の中の住人のように、近くて遠い存在になる。
(もし、ぼくに魔力があれば)
セツと同じマスターの力があれば。
(一緒に最果ての海を目指せたのに……)
そうすれば。
そうすれば、ぼくは――。
(ぼくは……)
セツはずっと遥か遠く、海の果てを見ている。
『ロワメール』のいる、最果ての海を……。
魔法使い殺しというセツの二つ名を聞いて、しばらくしたある日のことだった。ロワメールは、兄ヒショウに一冊の本を差し出された。
「この本に『ロワメール』がでてくるよ。読んでみるかい?」
ずいぶんと古い本だった。王宮図書室所蔵書だが、題名すら掠れて読み解くのが難しい。
――ロワメール……どこかで聞いたことがあるような……昔読んだ本だったかな。
出会った初めの頃、ヒショウはそう言ってしきりに首を捻っていた。
ヒショウが子ども時分に読んだ本らしく、記憶もうろ覚えの中、膨大な蔵書の中からわざわざ探し出してくれたらしい。
「良い名前を付けてもらったね」
兄にかけられた言葉に顔を綻ばせて、いそいそと机に移動し、ロワメールは早速本を開いた。
キラキラと目を輝かせて、少年はページをめくる。
それは、いくつもの物語が収められた短編集だった。
どんな物語なんだろう。期待に胸が膨らんだ。
中程までページを進み、指が止まる。
波の間に間に夢を見る
銀の魚は夢を見る
物語と言うには短い、詩篇のような一編だった。
最果ての海に住む、海の支配者『ロワメール』。
美しい銀色の魚は、孤高の海の支配者だ。
明るく温かな海のお城に、一人ぼっちで住んでいる。
美しい銀の魚は、いつか誰かが訪ねてくれる日を夢見ていた。
数多の海越え訪ねるならば
その望みを叶えましょう
生も死も 望むがままに与えましょう
その瞬間、ドクリ、と心臓が嫌な音を立てた。
セツはきっと、この銀の髪と色違いの瞳から『ロワメール』の名付けてくれたのだろう。
美しい銀の魚を連想し、名付けてくれたに違いない。
(きっとそうだ。でも)
ロワメールは、セツが付けてくれたこの名前が大好きだった。
(でも……っ)
嫌な予感は、どんどん確信へと姿をかえていく。
セツは、『ロワメール』を望んでいるのではないか、と。
生も死も 望むがままに与えましょう
その一文が、頭の中でグルグルと回る。
自らの意思でもないのに、魔法使い殺しと呼ばれ、恐れられ。
自由に生きることも、死ぬことも許されないセツ。
生も死も、与えてくれる『ロワメール』。
ドクン、ドクンと心臓が鳴り続ける。
(セツは、どちらを望んでいるんだ……?)
いくら考えても、答えはでない。
いくら望んでも、ロワメールは魔法使いになれない。
――セツと共に、最果ての海を目指すことはできない。
だから、ロワメールは考えた。
自分にできることはなにかと。
セツのために、なにができるかと。
この五年間、必死に考え続けたのだ。
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