第4話
身近に起こる事に対して、素直に感じられるこの子の心に触れられたことが、なんだか嬉しかった。
「あんな、ねえちゃん。そんな時はな、そのままで良いねんて、母ちゃんが言ってた。それから、自分がしたいことすんねん。そうやって克服するねん。なんや、そう考えたら簡単やなぁ。算数のドリルよりも簡単やで」
ゲームの一つを簡単にクリアした時のような感じで、太助は楽しそうに言った。
それでも、私は簡単には納得できなかった。
ずっとしがみついていた想いを手放すことになるのだ。
そこには、きっと自分の存在意義さえいつの間にか組み込まれてしまっているに違いなかった。
私は葛藤していた。
この山の緑のように鬩ぎ合っていた。
不意に太助が手を握ってくれた。私は彼の手を握り返す。
人の手はなんて温かいのだろう。
この地に来てもうすぐ三週間がたつ。心身を悪くしてから二ヶ月が過ぎようとしていた。
失恋をして、自分の事が嫌いで仕方がなかった。
けれど、弱い自分を受け入れるチャンスなのかもしれない。
「もっと上に行ってみいひんか?おれ、この山のてっぺんにまだ行ったことないねん。いつも母ちゃんがあかんって言うんやけど、保護者つきならなら大丈夫やと思ってん」
「……いいよ。私も行ってみたい」
二人で手をつないだまま、もと来た道を引き返し、必死で頂上へ向かう道を見つけた。
細い道だった。
太助を先頭に縦に並んで歩き始めた。
頂上に向かう道だけあって、斜面は進むたびに急になっていく。
雑草は辺り構わず生え散らかしていて、木の枝伝いに、くもの巣が張られていた。それらを避けながら、私たちは懸命に上り詰めていく。
最初とは反対に、小さな体が悲鳴をあげ出した太助を励まし、今度は私が先頭になって歩いた。
私はどうしても頂上に上りたかった。
そこへどうしても行きたかった。
息がつまって苦しいけれど、両方の肺が一生懸命空気を送り出してくれる。そして満たしてくれる。
どれくらい山道を登っていたのだろうか、急に視界が開けた。
「……太助、着いたよ……あれ、見て……」
二人で息を飲んだ。あまりにも壮大だったから
目の前に広がっていたのは、水平線を挟んで、赤と青が鬩ぎ合っている光景だった。
支配しようとする赤と、全てを飲み込もうとする青。
木々や波、鳥やその他の生き物達は、その光景を見守っているかのように、辺りは静かで優しかった。
それは、私の視界では捉えきれないほどの広い広い海と、夕日がまさに沈もうとしているその瞬間の光景であった。
次第に夕日は沈み、海はそれを受け入れた。代わりに空には都会では見ることのできない満天の星が姿を見せはじめ、虫の声が響き渡る。
毎日毎日繰り返される、忘れがちな自然の姿。
私たちは立ち尽くしていた。
「二人とも何してるの、こんなところで……?」
不意に声をかけられて、太助も私も驚き、わっと声をあげた。
「母ちゃん!」
そこにいたのは、太助のお母さんだった。
「いつもありがとう。太助の面倒を見てもらって。大変だったでしょう?」
「いえ、大丈夫ですよ。むしろ私の方がありがたいくらい。太助、大きくなりましたよね」
「ふふ、やんちゃざかりだけどね」
私は隣で眠っている太助に目をやった。
安心しきった、無防備な寝顔。
今、太助のお母さんが運転する車で、ふもとに帰っている。
結局、私たちが頂上だと思った場所は、この島の観光スポットになる予定の、新しく建設された展望台だった。ふもとから、車で約十分程度で来ることができる。
太助のお母さんは、週に二回、ここの売店に手伝いに来ている。
ちょうど、仕事が終わり、少し夕日を見ようと展望台の裏手に回ったときに、偶然、私たちを見つけたようだ。
私たちは、不意に声をかけられて驚いたが、お母さんも、とても驚いたと言った。
ここに来てはいけないと言ったのは、やんちゃざかりの子供がいては、商売の邪魔になるだろうと思ったからだそうだ。ただそれだけの理由だった。
子供にしたら、まさかそんな理由だとは思っていないだろうと思う。
どんな危険な場所なのか、それともどれほど美しい場所なのか、好奇心を刺激され、たくさん想像を膨らませていったはずにちがいない。
小さな冒険に連れ出してくれた太助。
私は隣で眠る太助が、とても愛しかった。
しかし、行きはあんなに苦労して、山道をのぼったのに、帰りは舗装された道路を車で走って降りているなんて、なんだか間が抜けている。
「ほんと、間が抜けてるなぁ……」
私はぽつりと呟いた。
それから、幾日振りだろうか、ふっと笑みがこぼれた。
私の見ている世界は、案外、こういうものかもしれない。
複雑にしているのは自分自身で、事実はいたってシンプルなものなのかもしれない。
ぼんやりとそう思った。
車の窓を少し開ければ、少し秋の匂いのする、だけど潮の香を持った風が吹いた。
空を見上げれば、零れ落ちそうな満天の星。
訪れる者をけっして拒むことのない優しい島の、包み込むような静かな夜の顔がそこにあった。
自分の前髪を風に弄ばせながら、しばらく目を瞑った。
それから、この島で過ごした幾日もの日々を想った。
「……太助、ありがとう。……私、帰るよ」
私は寝ている太助の手をそっと握った。
「なんか言った?」
「ううん、何でもないです」
太助のお母さんは、私の返事を聞くと、そう、と一言だけ言った。
運転は快調で、祖母の家まで、あと数分で着きそうだ。
明日、さっそく、町へ出て航空券を買いに行こう。
私はそう決めて、また目を瞑った。
幸せの切符 結田 龍 @cottoncandy8
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