第15話 初雪
翌日。僕は今日も昼休みに保健室には行かず、涼介と教室で話して過ごした。
涼介は、僕が本当は風邪を引いていなかったことに気づいているだろうに、そのことを掘り下げてくることはなかった。僕は涼介の優しさに甘えることにした。
「今日の朝のニュースで、初雪が降るかもしれないって言ってたけど本当かな?」
窓から空を見上げていた涼介が訊ねてきた。
「さあ、どうだろうな」
僕は涼介の隣に並び、窓から空を眺めた。どんよりと薄暗い雲が掛かっており、日差しを遮っていた。いつ雨が降り出してもおかしくない天気だった。
「早く雪降らないかな」
涼介が窓に顔を貼り付け、はしゃいだ声が響いた。
「この町に住んでいて、早く雪が降ってほしいと思うヤツは、せいぜい小学校三年生ぐらいまでだぞ」
僕は窓に背を向け、
「そんなことないだろう?」
涼介が不満そうに眉をひそめた。
「それが、そんなことがあるんだな。この町の子どもたちは、小学校三年生までに一生分の雪遊びをしちまうのさ。だから大人になると、雪に対する楽しさはもう持ち合わせていないんだ」
「大人って、まだ中学生だろう。それに去年も一昨年も、昼休みや部活が終わった後に、グラウンドで雪合戦をしたじゃないか」
涼介が納得いかないとばかりに、思い出を掘り起こしてきた。そこを突かれると確かに痛い。
『アニメの雪合戦のシーンで、雪玉の中に石を詰め込んで強化する描写があるけど、現実だと雪が積もっているわけだから、石なんて拾えないんだな』
生まれて初めて雪玉を作ったという涼介が、真面目な顔つきで言った。
『あれはさ、雪を知らないヤツが想像で書いているんだろうな。ドラマとかで、東京なのにクリスマスに雪が降ってくるヤツとかも、正直理解できないしなあ……』
『おれ、東京で雪を見たの、数え切れるほどしかないよ。それも二月か三月だったはず』
『東京のヤツは、どうにも雪をロマンチックなものとして扱いたいらしいな。この雪のどこにロマンがあるのか、おれには全く理解ができねえ』
『ハルの場合は、外でサッカーができないからイジケているだけじゃん』
涼介が腹を抑えて笑う。
『ああ、そうだよ。関東から西のヤツらは本当にずりいよなあ。オレらなんて、一年の約半分は室内しか使えねえんだぜ。それって、かなり不利だよなあ』
僕はそう言いながら、新雪の部分に背中から倒れ込んだ。
『確かに東京と比べると、この町の日照時間ってすごい少ないよ』
僕の隣に涼介も倒れ込んだ。涼介は嬉しそうに耳の先を赤く染めている。
雪はまだ降り続けていて、この様子だと明日の朝の雪かきはまた一段と大変だなと思った。
『冷たいけど気持ちいい』
涼介が嬉しそうに笑った。
『涼介は、スケートをしたことあるか?』
『いや。一度もない』
涼介が雪に埋もれたまま首を横に振った。
『それなら今度の土曜日にスケートリンクに連れて行ってやるよ。土曜日だとリンクの入場料が無料だから、スケートシューズのレンタル代だけで済んでお得なんだ』
『でもおれ、滑れるかわかんないぞ』
『おれが教えてやるよ。それで、バッグで滑れるようになろうぜ』
『ハルは、スケートも習っていたのか?』
『いや。小さい頃に一日中滑っていたら、いつの間にか滑れるようになっていたんだ』
『そうなんだ。スケート楽しみだな』
涼介が笑った。
あのときの僕は、この誤魔化せない雪の冷たさを一生忘れたくないと思った。
あの後、約束した通り、涼介とスケートに行ったし、涼介はバッグで滑れるようになった。今年は流石にスケートリンクには行けないだろうが、涼介はスケートの滑り方を忘れたりはしないだろう。
「雪が積もったらさ、また雪合戦しようぜ」
涼介が、あのときと同じ表情で笑った。
放課後になると、僕はようやく保健室に足を運んだ。
マリアは相変わらずノートに絵を描いていた。
僕は、マリアの向かいの席に腰を掛けた。
マリアは、僕に何も言わなかった。僕の顔を見ると静かな微笑みを浮かべ、ノートを差し出してきた。僕はそれを黙って受け取り、いつものように漫画を読み始めた。
マリアの漫画は、まるで商業雑誌の打ち切り漫画のように、唐突に最終回を迎えた。これまで積み重ねてきた物語の流れをぶった切り、数々の伏線を無視して、急なハッピーエンドで幕を閉じた。最後の一コマに詰め込まれた登場人物たちは、集合写真のようにみんな笑顔を浮かべていた。
それは裏切りに似ていた。
僕はそのことに対して文句を言いたかったが、一読者でしかない僕には、残念ながらその資格はなかった。勘違いしてはいけない。マリアが生み出した世界に、意見を言える立場ではなかった。
これまで僕は、マリアの漫画を読み終えると必ず感想を口にしていた。この展開には驚いたとか、このシーンの構図が格好良いとか、この絵が好きだとか。一丁前に、評論家気取りでいろいろと語ったが、意見を言ったことは一度もなかった。
僕は、ただただマリアの描く世界の中に入り込み、登場人物たちと同じ目線で試練や壁にぶち当たり、そのたびに仲間たちと協力をして乗り越えてきた。
マリアは、そんな僕の感想を静かに聞いていた。マリアも僕の感想に何か言うことはなかった。だから、僕とマリアの世界が繋がったことは一度もなかった。ということに、このときになって初めて気がついた。
「次は、どんな漫画を書くつもりなの?」
「まだ何も考えてない。受験勉強もやらないといけないし……」
「そうだよな。おれたち受験生だもんな……」
僕はそっと息を吐いた。
一般入試を受けるであろうマリアは、僕と違って真面目に勉強に取り組んでいるのだろう。机の上には、参考書が積み重ねられていた。
僕は最終話を何度も読み返した。それを繰り返しても、心はなかなか追いつきそうにない。
「……晴太くんは、またミサンガをつけるの?」
ふとといった感じで、マリアが珍しく僕に訊ねてきた。
「多分もうつけないと思う。足を洗うときに邪魔だったし。それに本当は、サッカーはアクセサリーを身につけるのが禁止されているんだ」
マリアと出会った日にミサンガが切れてから、足には何も付けていない。あのときのミサンガは、今でも捨てられないまま、自室の学習机の引き出しの中にしまってある。
「……そうなんだ」
マリアがゆっくり頷いた。
「でもミサンガは上から靴下を履くから、見つかることはそうそうないんだけどさ」
だけどミサンガが切れたところで、どうせ願いなんて叶わない。その思いを、ぐっと喉の奥まで飲み込む。
そういえば、涼介のミサンガは切れたのだろうか。急に、そのことが気になった。涼介も、僕と同じ日にミサンガを足首に結んでいる。
『おまじないって、女子みたいで少し恥ずかしいな』
あのとき涼介は、照れくさそうに笑っていた。
涼介はミサンガに何を願ったのだろうか。口に出すと効果が薄れそうという話になり、ミサンガにどんな願いを込めたのかは、互いに秘密にすることになった。
「……実は、私もミサンガを付けているの」
そう言うとマリアは、上履きを脱ぎ、靴下を足首のあたりまで下げた。
真っ白な足首だった。その足首を守るように、橙色のミサンガが結ばれていた。
マリアはそのミサンガに、どんな願いを託しているのだろうか。涼介同様気にはなったが、訊ねる真似はしなかった。おそらく前に話していた、将来の夢に関することを願っているのだろう、と勝手に推測した。あのときと比べれば、マリアとの距離はずっと縮まっていたが、彼女の夢はいまだ教えてもらえず仕舞いだ。
「そのミサンガは、いつからつけてるんだ?」
代わりに、別の質問をした。僕はマリアの白い足首から、まだ目が離せずにいた。
「二年生の春から」
「そっか。ミサンガが切れるまで、もう少し時間が掛かりそうだな」
僕のミサンガは、切れるまでに約二年半の年月が掛かった。運動部の僕でそのくらいの期間が掛かったのだから、体育の授業にすら出席していないマリアの場合は、もっと時間が掛かるだろう。
「うん。切れるまでに、もう少し時間が掛かりそう」
言いながら、マリアが靴下を持ち上げた。それから靴の踵を人差し指で抑えながら上履きを履いた。
「でも、このミサンガは絶対に切れるんだ」
思わず、顔を上げた。
「どんなに時間が掛かっても、絶対に切れるの」
マリアの珍しく断定的な物言いに、どきりとした。
「私が晴太くんに、晴太くんがミサンガに何を願ったのかを訊ねたこと、覚えてる?」
脈拍が速まり、心臓がどっ、どっと主張を始める。
「ああ、覚えてる」
僕はどぎまぎしながら答えた。
僕がミサンガに込めた願いをマリアに教えることが、彼女が描いた漫画を読ませてもらうことの条件だった。当時の僕は、どうしてほとんど初対面の人間の夢が気になるのだろうか、と不思議に思ったものだ。
「実は、晴太くんのミサンガが切れたとき、私の願いが叶ったんだ」
「えっ!?」
思わず大きな声が出た。マリアは僕の反応を気にする素振りも見せず、淡々と言葉を続けた。
「私はこのミサンガに『ここから飛び出す勇気を下さい』って、お願いしてたの」
マリアが靴下の上から足首に触れた。
「落ちているミサンガに気づかなかったふりをして無視したってよかったのに、あのとき私は、自分から保健室を飛び出して君を追いかけた。君が、私をここから連れ出してくれた。修学旅行に参加する必要はなかったのにお兄ちゃんに会いに行って、合唱コンクールの伴奏は断ってもよかったのに引き受けた。数日間だけだけど、教室で授業も受けた。私がここから飛び出せるようになったのは、晴太くんのおかげなんだよ」
マリアの小さな桜貝みたいな爪先が、その足首を緩やかに撫でていた。
「だから私のミサンガが切れたとき、晴太くんの願いが叶うよ」
マリアの声は震えていた。
『保健室は懺悔室じゃないのよ!』と叫んだ、美波の言葉を思い出す。
僕は頭を振ってから口を開いた。
「……嘘、なんだ」
マリアが目だけで僕を見た。
「マリアが僕に、ミサンガに何を願ったのかを訊ねてきたとき、おれは『サッカーの試合に勝てますように』って答えたけど、あれは嘘なんだ」
あのときの僕は、名前しか知らない女の子に一つの嘘を吐いた。臆病だった僕は、自分の夢を言葉にできなかった。
でも、今は違う。
これは懺悔でも告解でもない。
「おれの本当の願いは『プロのサッカー選手になれますように』なんだ」
これは、覚悟だ。
あのとき言葉にできなかった思いが音になる。音になると震えて、それがマリアの元に届いた。
僕に足りなかったものは、挑戦する勇気でも決意でもない。覚悟だ。自分の夢に責任を持つ覚悟だ。
僕の本当の夢を聞いてもなお、マリアの表情が変わることはなかった。
「叶うよ、絶対に」
マリアの目が力強く瞬く。
「絶対に、叶う」
マリアが描いた物語は最高の終わり方だったのだと、バカな僕は今になって気がついた。そのことに気づくのに、親指の腹はすっかり黒くなってしまっていた。
僕はようやくノートを閉じた。
「おれ、スポーツ推薦を受ける。サッカーを本気でやるために、羽白高校に進学する。今のおれにできる、今のおれに用意されている最も厳しい場所で、おれは上を目指す」
マリアの目が見開いた。
僕の中から迷いが消えていた。僕の未来は、今まさに駆け出し始めた。
高校三年生の僕は、国体の決勝戦の舞台に立っている。こたつに入ってみかんを食べているマリアが、そんな僕をテレビのモニター越しから観ている。
「私も決めたんだ。坂南を受験する。大学に進学するために高校に通って、夢を叶えるための勉強をするの」
僕はセーラー服姿のマリアを想像した。高校生のマリアは、一体どんな女の子になるのだろうか。
「私ね、スクールカウンセラーになる」
マリアが他人に知られることが恥ずかしいと言っていた夢の形。それを口に出せるようになったということは。
「マリアなら絶対になれる!」
考えるよりも先に、言葉が口から飛び出した。
マリアが目を細めて微笑んだ。
「中学校を卒業したら、おれたちお別れだな」
僕が呟くと、マリアは何か言おうとして口を開きかけたが、何も言わないまま口を閉じた。言葉に詰まったその一呼吸が、僕たちにはちょうどよいのだと思った。
「……あ、雪だ!」
マリアが窓に駆け寄った。
窓の外に視線を走らせると、マリアが言ったとおり、雨粒に混じってちらちらと雪が降り始めていた。雨から雪に変わる瞬間を目にするのは久しぶりだった。
「初雪の瞬間を見るの、初めて」
マリアが嬉しそうに言った。
「初雪って、気がついたらいつの間にか降り終わってるよね」
いつもは彫刻のように真っ白な頬が、ほんのりと赤く染まっていた。
「長い冬が始まるな」
この町の冬は四月の上旬まで続く。まだ気温が安定しないこの時期に、このまま雪が積もることはないだろうが、一度積もってしまうとなかなか地面が顔を出さなくなる。
「窓、開けてもいい?」
訊きながら、マリアは既にドアの鍵に手を掛けていた。
「どうぞ」
僕が答えると、マリアはすぐに窓を開けた。骨が萎縮するような冷えた風が、保健室の中に無遠慮に滑り込んできた。
「やっぱり寒いね」
次の瞬間には、窓はしっかり閉められていた。突風のせいで、マリアの前髪は乱れていた。雪のように真っ白な肌が露わになっていた。
マリアは室内だというのに組んだ手の爪を鼻先にあて、息で手を温めるようなポーズで外を眺め続けた。
その小さな桜貝みたいな爪先を、僕は一生忘れたくないと想った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます