第14話 花束

 僕にとっては永遠のような一週間だったが、他の人たちにとっては一瞬の一週間だったらしい。

 一週間ぶりに訪れた教室は、一週間前と何も変わっていなかった。掲示板に貼られているプリントも一週間では何も変わっていなかった。僕に対するみんなの態度も何も変わっていなかった。

 朝教室に入るときに、近くにいたクラスメイトから「水沢、おはよう」と声を掛けられたぐらいだ。だが時間は確かに流れていて、男子でさえ学生服の下にセーターを着込むヤツが増えていた。

 教室の中は、昨日放送されたドラマやインターネットで流行しているダンス、数学の宿題の話題で構成されていて、どこにでも転がっているようなありふれた日常なのに、それが狭い教室の中に詰め込まれているという理由だけで、どこか希望に満ちていた。

 肩を強張らせる学生服を脱ぎ捨てて、この教室から飛び出せば、自由になれるのと引き換えに現実を突きつけられる。結局僕たちは、この少し不自由な環境を心地よく感じているのだ。

 この日、マリアは教室に来なかった。まるでマリアには、僕が今日教室に戻ることがわかっていたかのように。

 そのことについて、誰かが何かを言うこともなかった。おそらくマリアが教室に来たときはみんなあれこれ詮索しただろうに、今はマリアのことを綺麗さっぱり忘れてしまったかのようだった。

 きっと、そんなものなのだろうと思った。

 僕が一週間教室に来なかったことも、マリアが再び教室に来なくなってしまったことも、他の人たちにとってはもう消費された話題で、どうでもいいことなのだ。

 僕は、この教室でマリアと過ごせることはないのだろうと悟った。

 その日の昼休みは教室で涼介と過ごした。一週間も学校を休むと、会話のネタは尽きなかった。



「港で待ってる」と書かれたピンク色の無地の紙が、下駄箱の靴の上に置かれていた。

 差出人の名前は書かれていなかったが、筆跡から誰が書いたものなのかはすぐにわかった。明朝体のような遊び心のない文字だった。

 その紙を学生服のズボンのポケットに押し込むと、家には立ち寄らず、真っ直ぐ港に向かった。港に着くと、敷地内にある色んな施設を覗いて回った。

 平日の夕方ということもあり、従業員の他に人の姿はほとんどなかった。この時間帯だと、捕れたての海鮮を求めて集まってくる観光客も少ない。

 美波は、海鮮市場のウッドデッキに座って海を眺めていた。

 波は穏やかだった。今日は、クルージングにはうってつけの日だろう。定期船とびしまから眺める夕焼けも乙なものだ。

 美波と顔を合わせるのは、数日前に保健室で喧嘩をして以来だ。別に、互いに意識をして避けていたわけではない。元々同じ教室にいても、席が近くなければ、用事がない限り会話はしない。美波とは兄弟のように育ってきた仲だ。涼介と喧嘩をしたときとは違い、兄弟喧嘩と同じく時間が解決してくれる。一晩寝れば、翌日には喧嘩をしたことを忘れられる。

「よお」

 僕はいつもと同じ調子で、美波に声を掛けた。

「遅いよ」

 美波もいつもと同じ調子で答えた。

 彼女は制服の上からPコートを羽織っていたが、膝小僧が半分見えるほど短いスカートと紺色のソックスとの間に見える素肌のせいで、やけに寒そうに見えた。

「どうしたんだ? 急に、こんなところに呼び出して……」

 僕と美波が仲直りをするのに、わざわざ港まで来る必要はない。

 僕が美波の前に座ろうとすると、逆に美波は立ち上がり、テーブルに置いていた学生鞄を背負った。それから行き先も告げずに歩き出した。僕は、慌てて美波の後ろを追いかけた。

「学校だと落ち着いて話せないから」

 美波が体の後ろで手を組んだ。

「二人でいると、周りが静かにしてくれないでしょう」

 美波の言いたいことがわかり、僕は黙った。

 美波は海洋センターには目もくれず、SAKATANTOの前も通り過ぎた。

 一体どこに向かっているのだろうか。

 僕たちの頭上で、ウミネコが旋回していた。まるで行き先に迷っているようだった。

 美波は突然立ち止まった。ちょうどスケートパークの前だったが、スケートボードやインラインスケートをしている人は誰もいなった。

「私さ、小学校六年生のときに、市長の娘になったでしょう」

 潮風が、美波の黒髪を靡かせていた。肩甲骨の辺りまで長さのある髪は、風が帰っていく方向を示していた。

「そのときから、みんなの私に対する態度が変わった。急によそよそしくなったり、逆に馴れ馴れしくなったり……。でも晴太は違った。晴太だけは、私を藤島美波のままでいさせてくれた」

 美波が振り返って、僕を見つめた。

「この町の人口、知ってる?」

「おれの社会の成績を知ってるか?」

「知ってる」

 美波が髪の毛を揺らして笑った。

「この町の人口は約十万人。そのうち大人は約九万人で、子どもは約一万人」

 美波が清々しいほどすらすらと答える。

「よく覚えてるなあ……。さすが市長の娘だ」

 思わず茶化すと、美波が僕を睨んだ。

「冗談だって」

 慌てて言うと、美波は目尻から力を抜いて話を続けた。

「この町で、市長の子どもになる確率は……ざっくり四万五千分の一」

 美波が僕をじっと見つめた。

「この確率って、宝くじで五万円が当たる確率よりも高いんだよ」

 彼女の豆知識に、へえ、と感心していると、美波が足元に転がっていた石を蹴り飛ばした。スカートの裾がひるがえり、足の甲に当たった石が音を立てながら転がっていく。

 インステップキック。綺麗なフォームだった。小学生のときに、僕が美波に教えたサッカーボールの蹴り方だ。

「それって、全然すごくないじゃん! 五万円だよ、五万円! 百万円とか一千万円とか一億円じゃなくて五万円だよ! ドリームジャンボの足元にも及ばないんだよ! それなのに!」

 美波が肩を上下に揺らしながら叫ぶ。

「それなのに、私は私じゃなくなっちゃった……」

 石がぴたりと止まる。

「私、吹奏楽部でフルートを演奏していたでしょう。部活で使ってる楽器ね、学校の備品じゃなくて、自分の楽器を使ってるんだ。お小遣いとお年玉を貯めて自分で買ったの。だけど、やっぱり市長の娘は違うわね、なんて影でこそこそ言われるんだ」

 美波がフルートを吹いている姿はよく覚えている。最後に見たのは、昨年の文化祭でのステージ発表のときだ。

 美波は演奏をするとき、体に針金でも入っているのではないかと思うほどに背筋が真っ直ぐで、一人だけスポットライトを浴びているかのように目立っていた。伏せられた睫毛は繊細に揺れ、尖った口先が奏でる音色は、まるで天への捧げもののように高鳴って響いていた。

「私はお菓子とか漫画とか雑誌とか文房具とかシールとか、そういうものを我慢してお小遣いを貯めたんだよ。私のことを何も知らないくせに、好き勝手なことばかり言われるようになった」

 美波はまだそのときの苛立ちが抜け切っていないのだろう、悔しそうに唇を震わせた。

「私がフルートを始めたのは中学一年生のときだけど、ピアノは幼稚園のときから習っていたでしょう」

 美波が僕の顔を覗き込んできた。

「ひまわり組のときからだな」

「そう、ひまわり組のときから」

 美波が満足げに、いやもしかしたら安堵から目を細めた。僕が覚えていたことが確認できると、話を再開した。

「ピアノの発表会って、自分の演奏が終わった後に、ステージの下から友達がプレゼントを渡してくれるじゃん。あれって、どうしてなんだろうね。プレゼントボックスもあるけど、大概の子は手渡しをするでしょう。友達の多い子は抱えきれなくて落としちゃったりして……。みんな、プレゼントの数が多いほど価値があるって思ってるんだよね。バカだよね」

 美波が自虐的に笑った。

 僕たちのすぐ傍に、とびしま丸が停泊していた。風が出てきたのか、ときおり波が大きく揺れて、ポチャンと派手な音を立てていた。

 この町の天候は変わりやすい。冬になると、顕著に現れる。

「私ね、小学校一年生のときのピアノの発表会に、男女問わず、クラスメイト全員に声を掛けたんだ。私が他の子よりも多くプレゼントを貰えたら、親が喜ぶと思って……」

 美波がとびしま丸のロープが結ばれているビットの上に立った。立ち位置が定まらないのか、体が不安定に揺れている。

「そのときはクラスメイトの三分の二くらいは聴きに来てくれた。だけど学年が上がるにつれて、来てくれる人が少しずつ減っていった。用事があるとか自分には音楽は難しいとか、くだらない理由で断られるようになった。とくに男子は、小学校四年生になると誰も来てくれなくなった」

 美波が体のバランスを取るように手を水平に広げた。

「晴太以外は」

 体の動きがぴたりと止まり、真っ直ぐになる。スカートの裾がはためく。

 僕たちの後をついてきていたウミネコが、ミャアと甲高い鳴き声を上げた。自分に気を惹くように高々と鳴いていた。

「晴太だけだった。晴太だけは、いつまでも聴きに来てくれた」

 美波がビットからぴょん、と飛び降りた。くるりと体を回転させ、スカートの裾がふわりと広がった。

 美波は毎年、ピアノの発表会では真っ赤なドレスを着ていた。デザインは違っていたらしいが、僕には違いがわからなかった。グランドピアノの黒とドレスの赤。そのコントラストは絵画のようであった。

 僕は美波に、母が花屋から買ってくるピンクの花束を渡していた。息子しかいない母は、女の子はみんなピンク色が好きだと思い込んでいる。

 美波が、僕を真っ直ぐに見つめた。

「私は、そういう晴太が好きだった」

「大袈裟なヤツだな。招待されたら、普通は行くだろう」

 ははっと笑ったが、美波は笑わなかった。

 美波のピアノの発表会に行っていることを、クラスメイトの男子からかわれたことが何度もある。だが、僕が美波のことでからかわれるのは、このこと以外にもよくあった。だから、いちいち気に留めたりはしなかった。

「美波だって、おれのサッカーの試合を観に来てくれていただろう。美波も他の女子みたいに、海斗の応援のつもりだったかもしれないけど……」

 海斗と同じサッカーチームだったとき、海斗を応援する女子が代わる代わる試合を観に来ていた。それを大人たちは、まるでファンクラブみたいね、なんて言って笑っていた。

「晴太だよ」

 美波が僕の目を見つめながら言った。

「私が応援していたのは、卓成小学校のサッカーチームでも海斗でもなくて、晴太だよ」

 美波が僕の目を見つめ続ける。

「水沢晴太だけだよ」

 その真っ直ぐな眼差しに、息が詰まった。

「そりゃあ、どうも……」

 僕は美波から目を逸らした。

 美波はようやく僕から目を背けると、

「私……実は、大山さんが教室に来ない理由を知ってるんだ」

「え?」

 今度は、僕のほうが美波の目を追いかけた。美波の目は、ウミネコを追いかけていた。

「聞いちゃったんだ。廊下を歩いていたときに、保健室の戸の嵌め込みガラスから、晴太と大山さんが中にいるのが見えたの。気がついたら廊下側の壁に背中をぴったりつけて、二人の会話を聞いてた」

 美波の視線が降りてくる。彼女はコンクリートで塗装されている地面を睨んだまま話を続けた。

「二人がどんな話をしているのかが気になって……。そしたらちょうど、大山さんが教室に行きたくないって話をしていて……」

 言いながら美波が俯いた。

「私ね、中学一年生の夏にピアノを辞めたの」

 美波に言われて思い出した。

 中学校に進学してからピアノの発表会に呼ばれなくなったとは思っていたが、まさか辞めていたとは知らなかった。

「昼休みに、大山さんが音楽室のピアノを弾いているところを偶然通りがかったの。合唱コンクールの伴奏の練習をしていたみたい。私、大山さんのピアノを聴いてその場から動けなくなった。その日は一日中、大山さんのピアノの音が頭から離れなかった。一晩寝れば忘れられるかと思っていたんだけど、ときどき、ふとあの夏の日を思い出すようになった。自分でピアノを弾いているときにもその音が邪魔をするようになった」

 美波が自分の髪の毛を親指と人差し指で掴んだ。

「ピアノの発表会の三日前。大山さんが理由で、私はピアノを辞めたんだ」

 何かを確かめるように、何度も何度も指先で髪の毛を梳かしていた。

「大山さんのピアノって、ミスタッチがないとか譜面通りとか、そういう巧さじゃないんだよ。なんかすごいんだよ。表現力って言えばいいのかな。その説明できない何かがある限り、私はどんなに努力を続けても、大山さんには勝てないと思った」

 ウミネコの代わりに風が鳴く。

「私ね、赤色のドレスが着たくてピアノを始めたんだ。お姉ちゃんの部屋のクローゼットに赤色のドレスがぶら下がっていてね、ときどき部屋にこっそり忍び込んでは、そのドレスを眺めるのが好きだった」

 美波がふいに空を見上げた。

「私はピアノに憧れてピアノを始めたわけじゃなくて、下心からピアノを始めたの。だからバチが当たったのかなって。練習をしても、ピアノは全然上手にならなかった」

 喋り続けているせいか、美波の声は掠れ始めていた。

「中学二年生のとき、吹浦先生から合唱コンクールの伴奏を頼まれたの。大山さん、その頃にはもう不登校になっていたから。でもそのときは、私の他に真奈美もピアノが弾けるから、私は指揮をやりますって言って逃げたの。私たちのクラス、自由曲は『はじまり』でアカペラをしたでしょう。だから伴奏者は一人いればよかったの。晴太は覚えていないかもしれないけど、あれは私の提案。私が伴奏をしたくなかったから……」

 美波の告白は続いた。

「それで今年の合唱コンクールの伴奏も、吹浦先生は、最初は私と真奈美に頼んできた。でも真奈美は、今年の春に親が離婚して、今住んでいる家にはピアノがないから練習できないと言って断ったんだ。さすがの吹浦先生も、そんな真奈美には頼めなかったみたい。それで、私に必死に頼んでくるの。だからね私、吹浦先生にずるいことを言った」

 美波が一瞬言い淀んでから、

「どうしても伴奏をしないといけないのなら、私も保健室登校になります、って……」

 美波が僕に背中を向けた。

「私はそういうヤツなんだよ。最低な人間なんだ」

 美波が肩を揺らして叫んだ。

「それで私は、今年も指揮を引き受けた。私はピアノを弾けなかったんじゃないよ。弾きたくなかったんだよ。私のピアノ、大山さんに聴かれたくなかったんだよ」

 僕には音楽のことはわからないが、マリアのピアノを聴いた今だから、わかることがある。確かに、美波のピアノとマリアのピアノは違うものだった。

「大山さんって、私が大事にしているものを全部奪っていく」

 美波が振り返って、僕を見つめた。

「ピアノの発表会の話には続きがあって、私が市長の娘になった六年生のときの発表会、私にとっては最後の発表会になったわけなんだけど、私は前の年に来てくれた子たちだけに声を掛けたの。他の子たちに声を掛けたところで、どうせ来てくれないと思っていたから。それなのに、急に他の子たちが『私も行きたい』って言い出して……。その子たちは親に言われたんじゃないのかな。市長の娘とは仲良くしておきなさい、って。それで皮肉にも、その年が一番多くプレゼントを貰ったんだけど、一番嬉しかったのはピンク色の小さな花束」

 小学校四年生くらのときから、花束は小っ恥ずかしいからお菓子がいいと母に掛け合っていた。だが母は「みっちゃんにはお花が似合うわ」なんて言って、僕の意見を聞き入れてくれなかった。なので僕は、それを仕方なしに渡していたのだ。そんな理由の花束を、美波が心から喜んでくれていたのかと思うと……。

 突風が吹き、美波の髪がはためく。

「だから、晴太は変わらないで……」

 意味を持ってはためく。国際信号旗のように。

「変わらないでよ、晴太……」

 頭上を旋回していたウミネコが、対岸へと羽ばたいていった。出港していく船が長声一発を鳴らす。その音は波に乗って、どこまでも遠くへ響き渡っていく。

 きっと明日は雨が降るだろう、と僕は思った。

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