第13話 夕焼け

 僕が保健室登校するようになってから早くも四日が経っていた。

 クラスメイトたちの間では、僕は体調不良ということになっている、と担任の吹浦先生が言っていた。

 季節柄、風邪で学校を欠席している生徒がちらほらといるため、僕が教室にいないことに対して、誰も気に留めていないようだった。いや、受験生にとって一番大事なこの時期に、他人のことまで気にしている余裕はないだろう。

 保健室に来なくなったマリアは、なんということか、教室で授業を受けているのだと五十川先生が教えてくれた。僕はその事実をどう受け止めて言いのかわからないまま、黙って飲み込んだ。

 昼休みになると僕は、給食の白米、磯香和え、さばの味噌煮、それから大好物の芋煮をかき込んだ。そして最後に、デザートのプリンを吸い上げるようにして飲み込んだ。

 給食をあっという間に平らげると、机に顔を突っ伏して目を閉じた。机は固いうえに冬の空気のせいでひんやりと冷たかったが、頭を横にできればそれでよかった。

 僕の頭の中は、さまざまな感情で埋め尽くされていて、額がいやに重たかった。

 ごった煮のように詰め込まれている感情を、一つ取り出してはどんな名前がついているのかを確認したかったが、取り出すときにはドロドロに溶けていて、それが一体何だったのかがわからなくなっていた。

 目を閉じても眠気は訪れない。僕は右頬を下に、左頬を下にと入れ替えた。それを何度か繰り返していると、ガラッと戸が開く音が聞こえてきて、反射的に体を起こした。

「やっぱりここにいた……」

 戸の前に、美波が立っていた。

 美波は教室から保健室まで走ってきたのか、前髪がパッカリと左右に割れていた。廊下は身震いするほど寒いというのに、ニキビ跡のないまっさらな頬はうっすらと赤らんでいた。

 僕は見るからに肩を怒らせている美波から咄嗟に目を反らしたが、美波の感情を剥き出した目は、僕をがっちりと捕らえていた。

「晴太! どうしてこんなところにいるのよ!」

 美波が怒りに任せた足取りで僕に近づいてくるのが足音でわかった。僕は机にしがみつくように天板を睨んだ。

「海斗に怪我をさせて顔をあわせづらいと思う気持ちはわかるけど、だからってこんなところに逃げ込むなんてダサすぎるわよ!」

 目の前が薄暗くなる。美波の影が僕を覆っていた。

「保健室は懺悔室でも駆け込み寺でもないのよ!」

 美波が叫ぶ。

 僕が唇を噛んだままでいると、美波が僕の机に手のひらを打ち付けた。

「最近の晴太、ちょっとおかしいよ! 大山さんと関わるようになってから、ちょっとおかしくなったんじゃないの?」

 美波が、おそらく僕の丸まった背筋を伸ばす目的でもう一度机を叩いた。美波にどんなことを言われても無視を貫くつもりだった。そのつもりだったが、頭に血が上った僕は、

「なんでマリアの名前が出てくるんだよ! マリアは関係ないだろう!」

 感情に身を任せて怒鳴り返していた。美波は後ろに体を反らし、一瞬怯んだような素振りをした後、

「関係あるでしょう! 晴太は大山さんと知り合わなかったら、保健室登校なんてしていないもの! 晴太はあの子みたいに嫌なことから逃げ出して、楽なほうに流されているだけじゃない!」

 僕に負けじと怒鳴り返してきた。

「美波は、マリアのことをそんな風に思っていたのか?」

 僕は机に手をついて立ち上がった。美波の勝気な目に僕の影が落ちる。

「だってそうでしょう! ちょっと気に入らないことがあるからって、自分だけ特別に扱ってもらって! 授業には出ないくせに修学旅行には参加するのね! 文化祭には出てくるのね! 大山さんって何なの? 病気っていうわけじゃないんでしょう?」

「病気じゃないと逃げちゃいけないのか? 誰かに助けを求めちゃいけないのか? 苦しいって言っちゃいけないのか?」

 喉の奥が焼けるように熱い。僕は美波の言葉を取り消したいあまりに、力任せに怒鳴りつけていた。

「そんなこと言ってないでしょう!」

 美波が髪を振り乱す。マリアが羨ましいと言っていた艶のある黒髪が、鞭のようにしなった。

「言ってるじゃないか!」

 奥歯が鳴る。

「言ってない!」

 僕と美波の荒い息が狭い保健室に交差する。

 次のラウンドに備えて肩で息をしていると、どっと疲れが押し寄せてきた。頭が痛い。立っているのが面倒になって、僕は椅子に深く座り込んだ。

 美波の頭が、タンポポのようにゆらゆらと揺れていた。美波も疲れているようで、反撃はなかった。

「美波は強い人間だと思う……。嫌われることを気にせず、間違ってることは間違ってると大きな声で注意できる正義感があって、すごいと思う。すごいと思うけど、想像力が足りてない。自分にできることが他人にもできるとは限らないだろう……」

 僕は今すぐ眠りたかった。ベッドに横になって、誰からも邪魔されずに心置きなく眠りたかった。都合のいいことにベッドは目と鼻の先にある。だが、僕の体は動かなかった。

 僕は続けた。

「美波は、マリアのことを羨ましいって思ってるんじゃないのか? 自分ができないことをしているマリアのことが妬ましいだけなんじゃないのか……?」

 美波の咆哮が聞こえた、気がした。

 息が一瞬詰まってから僕の心臓は弾けるように脈を打った。

「私が大山さんのことを羨ましく思うわけないじゃない!」

 美波は言葉を吐き捨てると、バン、と殴るように戸を閉めて出ていった。僕はその音にたまらず顔をしかめた。戸に埋め込まれているガラスが割れたのではないかと思ったが、ガラスは無事だった。

 美波がいなくなると保健室は静かになったが、僕の心臓はド、ド、ド、ドッと高鳴り続けていた。

 僕は、何をしているんだろうか……。

 必要以上にむきになってしまった自覚はある。マリアのことを何も知らないのに、勝手なことばかり言い放つ美波を泣かせたいと思い、言葉を吐き出してしまった自覚もある。自分の中にあった、美波とは関係のなかった苛立ちを、彼女にぶつけてしまった自覚もある。

 溜め息が溢れる。

 いつまでも手放せない罪悪感に浸りながら戸を眺めていると、それがゆっくりと開き、美波と入れ替わるように五十川先生が戻ってきた。

「どうしたの?」

 僕の顔を見るなり、五十川先生が心配そうに近づいてきた。

 僕は疲れていた。ここ数日間、満足に眠れていないせいだ。

「ベッドで休む? 顔色が悪いわ」

 五十川先生が僕の顔を覗き込んだ。

 僕は疲れていた。

「……五十川先生。マリアは、おれがここにいるから、自分は教室に行くようになったんでしょうか? おれがマリアをここから追い出したんでしょうか?」

 五十川先生の顔を見る気力もなかった。

 目は開いていたが、顔を動かすことができなかった。目のピントが狂っていて、視界がぼやけていた。

「それは違うと思うわ。大山さんは、あなたと一緒にいるようになってから、少しずつ変わってきているもの。あの子が教室にいくようになったのは、きっとあなたのせいではなくて、あなたのためよ」

「おれのため……?」

 僕は最後の力を振り絞って、顎を持ち上げた。

「そう、あなたのためよ。それで、あなたはこれからどうするの?」

 五十川先生の目は優しかった。

 僕は考えた。

 マリアと一緒に過ごすようになってから、たくさん考えるようになっていた。

「五十川先生……。おれ、もう一度海斗に謝る。それで来週から教室に戻るよ」

「そう。頑張ってね」

 五十川先生が微笑んだ。

 僕は五十川先生の勧めに甘えて、午後の二時間をベッドで休んだ。

 枕に頭を乗せると、すぐに眠気がやってきた。僕は時計の針の音に急かされる間もなく眠りに落ちた。

 たった二時間の睡眠だったが、目が覚めると頭はすっきりしていた。



 僕は中学校からの帰り道、一度も立ち止まらずに走り続けた。背負っている学生鞄の中身が暴れて背中が痛かったが、構わずに走り続けた。

 道中、信号機が二つあったが、どちらも緑を点灯してくれていた。

 家に着くと玄関の上がり框に学生鞄を放り投げ、自転車に乗って海斗の家に向かった。海斗の家までは、自転車で十分もかからずに辿り着いた。

 息が整うのを待たずに玄関のチャイムを鳴らすと、少しして内側から玄関の錠が外される音が聞こえてきた。

 扉がゆっくりと開く。てっきり海斗の母が出迎えてくれるものかと思っていたが、そこには、海斗が立っていた。

 僕は一瞬、喉を詰まらせてから、

「怪我させて、ごめん」

 腰を曲げ、頭を深く下げた。海斗の足が視界に入る。その足は包帯やテーピングはしていなかった。

「気にすんな」

 頭を上げろよ、と海斗の声が落ちてきて、僕はゆっくりと起き上がった。なぜか海斗は眉をひそめ、僕よりも居心地の悪そうな顔をしていた。

「おれ、ハルのことを刺激したんだ。お前が熱くなるように、わざと挑発的な言葉で煽った。だから、この怪我は自業自得なんだ」

 海斗が自身の太腿をポン、と叩いた。

「それに最近のハル、どこかおかしいから……。いや、中学に入ってから、ずっとおかしかったからさ、おれ、ハルに前みたいに戻ってもらいたかったんだ」

 海斗が拳を握っていた。よほど強く握っているのか、拳の山の部分が真っ白になっていた。

「おれは、山中央の推薦を受ける」

 海斗が僕の目を見て言った。

「山中央って……」

 喉がきゅっと窄まったせいで、声が掠れた。

 体育の授業のときに山寺が言っていた言葉を思い出す。

『海斗は山形の高校に行くらしいぜ』

 本当に行くのか。

 海斗は本当に、山中央に行くのか。

「ここからは通えないから、高校の寮に入るんだ」

 海斗がこの町から出ていく。

 県内で一番のサッカー強豪校である山中央に通うためには引っ越しをするか、寮に入るかの二択だ。坂田駅から山形駅までは、片道二時間三十分ほどかかる。だが、これはスムーズに乗り換えができた場合の話で、一本でも逃せば数時間は立ち往生することになるため、電車通学は現実的ではない。

 車社会である山形県では、電車で通える学校は限られている。子どもの部活のために、家族で引っ越しをするのは実は珍しい話ではない。とくに中学校の場合は、県内に寮のある学校は二校しかないため、前者の手段を取る者も多い。だが高校生にもなると、寮で一人暮らしをする選択を取るほうが圧倒的に多くなる。

 海斗が山中央から推薦がきていることも、この町から出ていくことも薄々わかっていたはずなのに、いざ本人の口から直接話を聞くと、それは一気に現実味を増した。

 いよいよ海斗は、僕の知らないところで、僕の知らない風に強くなっていくんだ、と思った。

「ハルはどうするんだ?」

 海斗が顔を傾げた。

「おれは……。おれは、まだ迷ってる」

 僕は素直に答えた。海斗の眩しい未来を受け止めきれない動揺で、声はみっともなく震えていた。

「ハルは羽白高校から推薦がきているんだろう?」

 海斗が訊ねてくる。

「ああ」

「何を迷う必要があるんだ?」

 海斗が僕の胸ぐらに掴みかかってくる勢いで顔を近づけてきた。

「何がそんなにハルの足枷になっているんだよ!」

 海斗の唾が顔にかかった。僕は海斗に何も言い返さなかった。唇に歯を立てて、時が流れるのを静かに待った。

 心のどこかで願っていた。海斗もこの町から通える羽白高校に進学してくれることを。僕の手の届くところにいてくれることを。

 本当はわかっていたのに、それでも願っていた。

 海斗が諦めたように息を吐くと、体を引いて僕から距離を取った。

「おれ、ハルともう一度サッカーがしたかった」

 海斗の目が震えていた。そんな目で僕のことを見ないでほしいと思った。

「こんなことを言っても、どうしようもないことはわかってる。おれは今プロになるために恵まれた環境でサッカーをやらせてもらってるけど、それでも、おれはハルとサッカーをやっているときが一番楽しかった」

 海斗の声が震えていた。そんな声で、僕のことを語らないでほしいと思った。

 僕もあのときが一番楽しかった。余計なことを考えず、ただサッカーボールを追いかけていられたあの頃が、取り戻せないあの頃が、僕の中で今でも輝いている。その光が熱過ぎるから、僕の胸は苦しくなる。

 僕と一緒にサッカーがやりたいなら、この町に残れよ。この家から通える高校を選んでくれよ。そんな言葉は、冗談めかしたとしても口にできなかった。

「来週は教室に来いよ」

 海斗がぶっきらぼうに言った。

 行くよ、と僕は答えた。

 海斗の家を出ると日が落ち始めていた。夕焼けの色が滲み出している。昼と夜の分け目が、お互いに遠慮して溶け合っていた。まるで僕の心の中のようで、目を逸らした。

 僕は自転車のサドルに跨り、ペダルを強く踏み込み、日和山公園を目指した。

 港に沈む夕焼けが見たい、と思った。

 ペダルを漕ぐ。

 僕に貼り付いているさまざまな感情を振り落とすように体を揺らしながら自転車を漕いだ。潮風が僕の頬を叩き、髪を乱暴にはためかせる。顔と耳の先が痛い。それでも坂道を登る足を緩めなかった。

 マリア!

 僕はペダルを漕いだ。

 マリア! 

 座っているのがもどかしくて、立ち上がってペダルを漕いだ。

 マリア!

 体重を前に掛け、歯を食いしばってペダルを漕いだ。

 坂を登り切り、日和山公園の入り口に着くと、自転車の鍵も掛けずに乱暴に駐輪し、展望デッキを目指して駆け出した。

 しなだれている木々のトンネルを通り抜けると視界が開け、正面にある展望デッキが飛び込んできた。右手側を向くと、六角灯台は薄紫色のライトを放っており、夕焼けが海の上にぽっかりと浮かんでいた。夕焼けの色が雲の影にも映っていた。

 僕はベンチに腰を下ろして海を眺めた。

 僕の他にブルドッグの散歩をしているおじいさんと、三脚を立ててデジタルカメラで撮影をしているおじさんと、子育てが終わって一段落していさそうな夫婦がいた。みんなが黙って夕焼けを眺めていた。

 沈んでいく夕焼けが海を飲み込むように真っ赤に染め上げていく。

 夕焼けは瞼を閉じても燃えていた。

 ブルドッグが吠える。デジタルカメラのシャッター音が時を刻む。夫婦の柔らかな笑い声が溢れる。

 光が少しずつ明度を落としていく。明日に希望を託すように、丁寧にお辞儀をして退場していく。

 夕焼けの形がすっかり無くなると、ブルドッグが鼻息を荒くしながら主人を急かすように走り出し、おじさんはデジタルカメラと三脚を手早く片づけ、それを肩に担いで去っていき、老夫婦は寄り添いながら歩いて行った。

 僕の中にいる海斗が、夕焼けのように沈んでいくことはない。僕の人生から海斗を切り離せることはない。

 僕はいつまでも海を眺め続けた。

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