第12話 サッカー

 冬の足音が聞こえてくる秋のグラウンドは、長袖のジャージを着ていても、ただ突っ立っていると足首から順に冷えていく。

 僕の隣に立っている涼介は、指先を隠すように腕を組み、さらに体を丸めて寒さをしのいでいる。関東や関西、ましてや九州で育ってきた涼介は、三年経ってもまだこの町の寒さに慣れていないようだった。

「今日の体育だが、古口先生が急病で欠勤のため、特別に二組と三組の合同で実施することになった。人数も多いことだし、せっかくだからサッカーをやるぞ!」

 いつもは体育館に集合するのに、珍しくグラウンドに集められたと思っていたら、体育の大堀先生が腹から出した声で説明した。

 坂田第一中学校は一学年三クラスしかないため、体育の授業は一、二組が合同、三組は単独という組分けだ。人数が少ない僕たち三組は、体育館でバスケットボールをやらされることが多く、サッカーをするのは今回が初めてだった。

 ざわついている二組の男子たちは、数学の授業が体育に変わったことと、僕ら三組と合同で実施という二つのサプライズでテンションが上っているように見えた。

「各クラス、出席番号の奇数と偶数に分かれろ。人数が足りないチームは、助っ人を自由に選んでいいぞー」

 いつもと違う授業の雰囲気を気にせず、いつものように一人張り切っている大堀先生がてきぱきとチームを分けていく。

「ハルとは別のチームだな」

 頑張ろうぜ、と言いながら涼介が去っていった。

 涼介のCチームには海斗を含め、サッカー部に所属しているヤツが他にもいる。一方、僕のDチームには僕の他に誰もいなかった。

「よろしくな」

 チームメイトに向かって言うと、

「サッカー部がいて助かったよ」

「頼むぞ、キャプテン!」 

 長沢と山寺が、僕の肩をそれぞれぽんと叩いた。

 対戦相手は各チームのキャプテンによるじゃんけんで決まった。僕たちのチームはじゃんけんに負けた結果、一戦目は観戦になった。

 すぐに涼介と海斗がいるCチームと、二組のAチームの対戦が始まった。

「なあ、勉強してるか?」

 体育座りをしている長沢が、抱えた膝に顎をのせながら言った。

 最近の僕たちは、普段あまり会話をしないヤツと顔を合わせると、勉強してる? が口から飛び出す。勉強をしているかどうかの確認が挨拶になっていた。

「おれは夏休みから塾に通わされてる」

 そのせいで最近全然ゲームができていない、と山寺が嘆いた。夏に買ったゲームなんてまだ十時間もプレイできていないんだ、と長い溜息を吐いた。

「山寺の家は、母ちゃんが教育ママだから大変だな。それで、晴太は?」

 長沢が僕の顔を覗いてきた。

「おれは全然勉強してない」

「仲間だ」

 長沢がほっとしたように口元を緩め、指をパチンと鳴らした。

「おれはスポーツ推薦で坂工にいくんだ。だから受験勉強をする必要がないのにさ、親は受験生なんだから少しは勉強しろってうるさくて……」

 嫌になるぜ、と愚痴を零している長沢は、野球部で我が校のエースだ。野球部は先日の県大会では準決勝まで勝ち進んだらしい。

「晴太もスポーツ推薦だろう?」

 お前のところの親もそんな感じか、と付け加えながら長沢が訊ねてきた。

「いや、まだわからねぇ……」

 僕はちょうど足元に落ちていた石を手にとって、意味もなくグラウンドの土を掘り出した。

「え? 高校でサッカーやらねぇの?」

 目を丸くした長沢が食い下がった。

「サッカーは続けると思うけど……」

 僕は石の尖っているほうを地面に突き刺し、さらに深く掘り始めた。指先に土で汚れていく。

「推薦はもらってるんだろう?」

「うん」

「おれは勉強が嫌いだし、一般入試だとどの高校も合格できないだろうから、すぐに推薦の話に飛びついたけどなあ……」

 長沢が不思議そうな目で僕を見た。僕も長沢がスポーツ推薦を蹴るという話を聞いたら、今の彼と全く同じ反応をするだろう。

 三年生のクラスは、二年生のときからの持ち上がりだ。二年間同じ教室の中にいれば、誰が勉強が得意で、誰が運動が得意で、誰が絵が得意で、誰が音楽が得意なのかぐらいはわかる。

「全く羨ましい話だな」

 すっかり拗ねている様子の山寺が舌打ちを零した。彼はこの中学校では珍しく、男子で美術部に所属していた。そのため、スポーツ推薦で受験を済ませるという選択が端からないのだ。

「海斗は、山形の高校に行くらしいぜ」

 本当かどうかわからないけど、と長沢が弱気に言葉を付け加えた。

 長沢の視線の先には海斗の姿があり、ちょうどゴールを決め、ガッツポーズをしているところだった。

「さすがだな。でも山形の高校に進学するとなると、なかなか会えなくなるなあ……」

 山寺が答えた。

 海斗はゴール前でパスを出した涼介の元に駆け寄ると、彼の肩を抱き、喜びを分かち合っていた。

「それよりもさ、この間、吹浦先生が車に若い女性を乗せていたらしいぜ」

 僕は思い出したように言った。

「あ、その話ならおれも知ってる! 保護者の間でも噂になってるって、母ちゃんが言ってた」

 長沢の声が興奮して大きくなった。

「ド田舎の学校の先生って大変だよな。芸能人でもないのに、デートの一つもまともにできなくて……」

 山寺が腕を組みながら言った。

 それから話は、すっかり吹浦先生の話題に変わった。話が盛り上がってきたところで、試合終了のホイッスルが鳴り響いた。

「次はBチームとDチーム!」

 大堀先生が叫ぶ。

「行くか」

 僕は手に持っていた石を捨てて立ち上がり、のろのろとグラウンドの中央に向かった。長沢と山寺が僕のあとに続いた。

 大堀先生を中心に、相手チームと向かい合う形で一列に並ぶと、Bチームの中に、なぜか海斗の姿があった。

「ズリーぞ! 二組!」

「ホリ先が、助っ人は誰でもいいって言ってただろっ!」

「自分たちのクラスから選べよ!」

 海斗は僕に気がつくと、列を崩してわざわざ僕の前に移動してきた。

「ハルとサッカーをするの、小学生ぶりだな」

 海斗が口端を持ち上げた。その隙間から真っ白な八重歯が覗いた。

「そうだな」

 本当は無視したかったが、無視するほうが海斗のことを意識しているように受け取られてしまうような気がして、僕は適当に受け流すことにした。

「このチームにもサッカー部のヤツは一人もいないから、条件は一緒だよな」

 海斗が挑発的に言った。今度は、僕はなにも言わなかった。

 ピッ。

 空気をたくさん入れようとしてから回ったのか、間抜けなホイッスルの音を合図に、僕のキックオフから試合がふわっと始まった。

「パスを回していけよー!」

 大堀先生が、体育の授業で求めるには難易度の高いアドバイスを叫ぶ。たかが体育の授業でパスが綺麗に回るわけがない。

 サッカーボールはまるでピンポン玉のように、人の意思によって運ばれているというよりは、ただただ色んな足にぶつかって動いているという状態だった。その状況を打開したのは海斗だった。

 海斗がボールを奪った瞬間、空気が変わった。海斗は誰にも邪魔されない速度でボールを操り、空間を広く使いながら移動し、あっという間にゴール前に飛び出した。じゃんけんで負けてゴールキーパーを任されていた山寺が、顔を歪めたのがはっきりと見えた。サッカーボールを蹴り上げた瞬間、

 ピッピィーーーーーーーーー!

 ホイッスルが威勢よく鳴り響いた。その音は、乾燥しているグラウンドによく響いた。瞬きをした次の瞬間には、ボールはゴールポストの中に入っていた。

「部活を引退して、足が鈍っているんじゃないか?」

 海斗が走りながら僕に向かって叫んだ。

 僕は始終、海斗のことを意識しないように努めた。いや、努めようとしたが、そういうわけにもいかなかった。海斗は最初の一本を決めた後から、ずっと僕をマークしていた。

 僕のチームメイトは、サッカー部のキャプテンである僕にボールを回せば後はどうにかなると思っているのか、僕のマークに海斗がついていることなんてお構いなしに、みんながみんな僕にパスを出そうとしていた。そのため必然と僕と海斗がボールを取り合うことになった。

「残り三分!」

 大堀先生が口に手を添えて叫んだ。

 たかが体育の授業だ。海斗のいるチームに負けたところで、たかが体育の授業だ。

 たかが、たかが……。

 また僕にパスが回ってきた。僕と海斗がしているのは紛れもなくサッカーなので当たり前のことだが、それを海斗が邪魔してくる。

 海斗の息が鼓膜に響く。僕の息なのか、海斗の息なのか、どちらのものかがわからないほどに混ざり合う。

 海斗の足が邪魔をしてくる。息がうるさい。足が邪魔だ。息がうるさい。足が邪魔だ。息がうるさい。足が邪魔だ。

 我慢の糸が切れて、僕はつい足の力を強めた。ほんの一瞬、だと自分では思った。

 が、気がつくと海斗が地面に倒れていた。

「大丈夫か!」

 大堀先生が叫んだ。

 海斗は体を丸め、足首のあたりを手で抑えていた。

「え、やばくね……?」

 誰かの声が、いやにはっきりと鼓膜に届いた。

 僕はうずくまっている海斗を見下ろすことしかできなかった。

 僕の心臓はわなわなと震え、目の前が遠くなるように視界がぼやけ、頭から血の気が引いていく感覚が襲ってきたかと思うと、吐き気がぐっと込み上げてきて、何度も何度も生唾を飲み込んだ。

 僕はジャージから学生服にどうやって着替えたのか、全く覚えていなかった。 



 海斗の怪我は軽度の捻挫で、完治するには一週間の安静が必要とのことだった。

 その日の夕方、学校から帰ると僕は、母と一緒に海斗の家へ謝罪に赴いた。

 玄関口で迎えてくれた海斗の母はとても優しかった。

「ハルくん、大きくなったわね」

 それが海斗の母の第一声だった。

 海斗の母とまともに顔を合わせて会話をするのは約三年ぶりだったが、あまり変わっていなかった。相変わらず年齢を感じさせない若々しい身なりをしていた。

「サッカーをすれば、接触プレーで怪我をするのは仕方のないことだわ」

 海斗の母は優しい言葉を掛け続けてくれていたが、僕の母は青ざめた顔のまま何度も何度も頭を下げた。家を出る前に、執拗にブラシで梳かしていた髪の毛はすっかり乱れていた。

「あの子、ハルくんとサッカーがしたいってずっと言ってたから、いつもと調子が違ったと思うの」

 海斗の母が苦笑いを浮かべた。

 海斗は足を怪我していることもあり、二階の自室にいて玄関には顔を出さなかった。海斗の母はそのことを謝っていた。

 海斗の家を出ると、僕は二階を見上げた。

 彼の部屋は、玄関の上に位置している。小窓には黒に近い青色のカーテンが掛かっており、今は隙間なくしまっていた。

 母の車に乗り込むと、

「捻挫で済んでよかったわ……」

 そう言いながら母がハンドルを握った。海斗の家に向かう道中でもずっと同じことを呟いていた。

「海斗くんの家が寛大でよかったわ。本当によかった……」

 母がハンドルに額を乗せた。

 車のエンジンは掛かっており、車内には暖かい空気が送り込まれ、音楽が流れていた。母の好きな星野源のアルバムが再生されていた。

 だが、車はなかなか発進しなかった。

 フロントガラスに雨粒が落ちてきた。一つ、二つ、三つ、数えているうちに次第に雨音は強くなり、ついにゲリラ豪雨になった。

 この雨が雪だったら、よかったのに。

 グラウンドに雪が積もって、体育の授業でサッカーができなかったらよかったのに。

 アルバムの曲が五曲目に入ると、ようやくのろのろと車が動き出した。



 僕はいつもと同じ時間にベッドから出ると、顔を洗い、制服に着替えてからリビングに降りた。食卓には茶碗山盛りの白米に目玉焼き、カリカリのベーコン、豆腐とワカメの味噌汁が湯気を立てていた。さらにバナナが一本添えられていた。

 僕の母はすっかりいつもと同じ調子に戻っていた。夜遅くまで勉強をしていて寝起きの悪い兄を叩き起こし、ハンカチを入れ忘れている父に小言を漏らした。

 朝食を全て腹に収めると、学生鞄を背負って中学校に向かった。

 いつもどおりの朝だった。

 僕は学校に着くと、保健室の前で足を止めた。

 朝の保健室はガラス窓から存分に陽の光を取り込んでいて、その光を力の限り反射していて、目にとても眩しかった。

「いらっしゃい」

 デスクの椅子に腰をかけていた五十川先生が椅子を回転させ、入口の戸のほうに体を向けて言った。

 どうしたの? でも、何かあった? でもなかったその言葉は、僕の心をやさしく撫でた。

「……今日は、ここにいてもいいですか?」

 僕は学生鞄の肩紐をぎゅっと握った。

「鞄、重たいでしょう。そこに置いていいわよ」

 五十川先生が入口側に置いてあるソファを指差した。が、僕はマリアがいつも使っている学習机の向かいの机の前まで進み、そのフックに鞄を掛けた。

「ベッドを使いたくなったら声を掛けてね」

 五十川先生は、それきり僕を気にすることはなかった。デスクに向かい、事務仕事を始めた。

 マリアは一時間目が始まる数分前にやって来た。他の生徒たちの目から避けるために、一限目が始まる時間のぎりぎりに登校しているという。

 僕はマリアが来るまでの間、この状況をなんと言って説明をしようかと考えていた。が、

「やあ」

 なにも思いつかなかった僕が意味もなく右手を上げると、

「晴太くん……」

 マリアは目を丸くして驚いた。

 僕らの背を押すようにチャイムが鳴り、マリアが慌てて学習机に座った。

 マリアは、クラスの時間割にあわせて自習をしていた。あらかじめ教科担当の先生から授業の範囲を教えてもらっているとのことで、その範囲の勉強に取り組んでいた。僕もマリアに倣い、教科書の内容をノートに書き写したり、ワークの課題に取り組んだりした。

 が、全然集中できなかった。僕の向かい側にマリアが座っている。元々勉強が得意でないこともあり、普段の授業でも集中できるほうではなかったが、僕は何度もマリアの顔色を確かめてしまっていた。

 休み時間になると、マリアはノートに絵を描いて過ごした。

 僕はマリアが絵を描く姿を黙って眺めた。

 マリアは、僕がここにいる理由を訊ねてこなかった。

 僕は翌日も教室にはいかずに保健室で一日を過ごした。その翌日もそうした。だがその日、マリアは学校に来なかった。

 僕は、保健室で一人過ごした。

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