第10話 文化祭

 マリアはピアノの伴奏を辞退するかと思ったが、次の日には元通りで、放課後の練習に顔を出した。

 僕は練習が終わると、マリアの様子をうかがうために保健室へ足を運んだ。もしマリアが昨日と同じように取り乱していたとしても動じない覚悟だった。

 だが僕の心配は杞憂に終わり、一足先に保健室に戻っていたマリアは、珍しくソファに腰を掛け、五十川先生と話をしていた。僕はマリアの向かいのソファに腰を下ろし、二人の話を黙って聞いていた。二人はお菓子の話をしており、話についていけない僕は会話に混ざることができなかった。

 話が一段落すると、五十川先生が保健室から出て行った。僕はそれを見計らったように、

「体調はもう大丈夫なの?」

 とマリアに訊ねた。

「うん。もう平気」

 マリアがきっぱりと言った。その鋭さは、まるでこの話を続けることを拒んでいるようで、僕にはそれ以上、訊ねる勇気はなかった。

「明日からさ、ステージ発表の練習も始まるんだ」

 仕方がないので話題を変えた。

「おれ、やる気がないから憂鬱だなあ……」

 ソファに背中を預け、真っ白な天井を見上げた。

 文化祭は合唱コンクールがメインイベントで、他の催しは余興に過ぎない。生徒が模擬店を出店することはなく、だからといってクラス対抗の演劇やクラス展示があるわけでもない。午前中に合唱コンクールが終わると、午後は有志による何でもありのステージ発表が行われる。

「何をするの?」

 マリアが話に食いついてきた。

「演劇。本番まであと一ヶ月しかないのに、果たして形になるのかなあ……」

「演目は決まってるの?」

「白雪姫のパロディで、現代風にアレンジするんだってさ」

 脚本は、文芸部の高瀬が書くことになっていた。僕は高瀬の書いた小説を読んだことはないが、読んだことのある男子たちはみんな口を揃えて面白いと言っていた。

「晴太くんは、役があるの?」

「おれは小人のスニージー役」

 マリアが、くすっと笑った。

「おれはやる気がないから端役でいいんだ。それにスニージーは台詞がなくて、適当にくしゃみをしていればいいから楽だし……」

 マリアはまだ笑っている。心なしか、身体が曲がっているように見える。

「負け惜しみとかじゃないからな。本当にどうでもいいんだ。おれにとっては」

 つい口調が強くなる。

「白雪姫と王子は誰が演じるの?」

 マリアが笑いを堪えながら訊ねた。いや、堪えられてはいない。

「白雪姫は女鹿さん。で、王子は海斗」

 今回、ステージ発表にクラス全員で参加しようと発案したのは、クラスメイトの女子たちだった。その代表が女鹿さんだ。そのため、彼女らが中心になって話が進んでいる。海斗が主役を演じることになったのも、クラス全体の多数決ではなく、女子たちからの推薦だった。

「受験生なのに、ずいぶんと余裕があるんだね」

 マリアが言った。

「そうだな……」

 言いながら僕は、この話が持ち上がったときのことを思い出していた。

 ステージ発表の参加に、クラスのみんながみんな、いい顔をしたとはいえない。少なくとも高校受験に不安を抱えている人たちは、戸惑いの表情を浮かべていた。それもそうだろう、発案者の女鹿さんも海斗も推薦入試を受ける予定で、既に合格が決まっているようなものだ。他、主力メンバーも推薦入試組が多い。乗り気でなかったクラスメイトたちを上手く丸め込んだのは、学級委員長でもある海斗だ。

「一般入試組は手伝える範囲で全然構わない。せっかく最高のクラスなんだから、最後にみんなで最高の思い出を作ろうぜ!」

 その一言で、たった一言で、海斗はクラスメイトたちの心をがっつりと掴んだ。海斗が二年の間に、クラスメイトの一人、一人と築き上げてきた信頼があるからこそ成せる技だろう。

 そして練習が必要な役者陣は、立候補以外は推薦入試組から選ばれた。僕は裏方をするつもりでいたが、どうしても一人役が決まらないのだと海斗に頼み込まれ、結果的に無理やり押し付けられたのだ。僕はきっと、それが面白くないのだろう。

 ときどき考える。もし海斗と出会っていなかったら、と。

「晴太くんのスニージー役、見たいなあ……」

 マリアはまだ笑っている。

「観に来ればいいじゃん」

 僕はさすがに少し苛立ってきて、つい冷たい言い方になった。

「うん」

 マリアはそんな僕を気にせず、大きく頷いた。

「それよりもさ、合唱コンクールの伴奏は緊張しないの?」

 僕はこれ以上演劇の話はしたくなくて、また話を変えた。役のことで、マリアに笑われるのは想定外だった。

「緊張はしないと思う」

「へえ。意外と度胸があるんだ」

 強がっているようには見えなかった。

「そうじゃなくて、合唱コンクールのピアノの伴奏は、人の影になってあまり見られないで済むから」

 僕は美波のピアノの発表会を思い出した。発表会やピアノのコンクールであれば、奏者が注目されるだろうが、合唱コンクールで注目をあびることは確かにないだろう。ただ、演奏を失敗したらどうしようという考えは一切なさそうで、マリアのピアノに対する絶対的な自信が感じ取れた。

「みんな、マリアに感謝してた。おれにはピアノのことはよくわからないけど、あんなに難しい曲の伴奏を引き受けてくれて助かったって……。自分たちが歌いたかった曲を歌えてよかったって……」

 褒め言葉だったのに、マリアが嬉しそうな顔を浮かべることはなかった。

「今度、演劇の台本を見せてね」

 マリアが目を伏せながら言った。



 大したドラマがないまま、文化祭当日を迎えた。

 合唱コンクールの練習で、男子と女子が対立したのも最初こそで、あれ以降は派手な衝突や諍いもなく、クラスが一致団結した形で本番に挑むことができた。

 僕たちのクラスは朝七時に集まると、喉を温めるために、一階から四階までの階段を三往復した。文化部だった生徒はもちろん、運動部だった生徒も大半が部を引退してから日数が経っていることもあり「きつい、きつい」と弱音を吐きながら走った。

 声出しの準備ができると、時間が許される限り、伴奏なしで何度もリハーサルをした。

 マリアはいつもと同じように、ほとんどの生徒が登校し終わった後に学校に来た。

 本番は、あっという間に終わった。

 緊張をあまり感じないまま、僕たちは二曲歌い切った。それも指揮者である美波が、誰よりもいつもどおりだったおかげだろう。人前にも臆さず、堂々と真っ直ぐに立って手を振る美波の姿は、僕たちに安堵を与えていた。だがその影で、美波とは違う形で僕らを支えていたのは……。

 僕はこの日ほど、マリアと同じクラスであることを悔いた瞬間はなかった。

 背中越しから聞こえてくるメロディーは、まるでローレライの歌声のようで、ピアノの薄情なほど眩しい純白と残酷なほど安穏な漆黒の上を、あの桜貝のような指先が滑らかに踊っているかと思うと、僕はそれを見ることのできない現実に、喉を震わせるしかなかった。

 全クラスの合唱が終わると、結果発表をしないまま昼休憩に入った。マリアは僕たちのクラスの合唱が終わると同時に保健室へ引き上げていた。

 僕は体育館から真っ直ぐ保健室に足を運んだが、マリアの姿はどこにもなかった。五十川先生もいなかった。仕方がないので教室に戻ろうと廊下を曲がると、

「あ……」

 思わず、声が漏れた。廊下の反対側に、海斗が立っていた。

「盛大なくしゃみ、よろしく頼むな!」

 言い終わる前に、缶ジュースを投げて寄越した。僕はそれを空中で掴むと、すぐにラベルを確認した。ポカリスウェットだった。

「くれるのか?」

「父母会から貰ってきた」

「そういうことなら、ありがたくいただく」

 僕がそのまま立ち去ろうとすると、

「……なあ。ちょっと話そうぜ」

 海斗が顎で体育館を指した。僕は気が進まなかったが、缶ジュースをもらってしまった手前、邪険に振り払うことができなかった。

 海斗は僕の返事を聞かないまま先に歩き出した。体育館に行くのかと思っていたが、体育館には入らず、裏口から外へ出ていった。僕は大人しくその後に続いた。

 海斗は裏口から続く階段に腰を下ろした。僕は海斗から少しだけ距離を取って、同じように階段に座った。背後にある体育館からは、生徒の声が聞こえてくる。どうやらステージ発表の準備をしているようだ。

「柄にもなく緊張してるのか?」

 僕が海斗に訊ねると、

「いいや。全然」

 海斗は憎たらしいほど涼しい顔で答えた。

「そうかよ」

 僕は苛立ちをぶつけるように缶ジュースのプルタブを弾いた。すぐに懐かしい匂いが鼻先を掠めた。缶に口をつけようとした瞬間、

「ハル。進路調査表、まだ提出していないんだってな」

 動揺で、缶を持つ手が震えた。

「どうして、それを海斗が……」

 思わず顔を持ち上げて海斗を見入る。

「おれ、これでも学級委員長だし、吹浦先生から一目置かれているしなあ……」

 海斗が颯爽と缶に口をつけた。

「ハルが何を迷っているのかは知らないけどさ、お前の未来に、サッカーをしていないお前はいるのかよ?」

 僕も缶に口をつけた。喉を鳴らして飲みながら、これではあまりにもわざとらし過ぎるだろうかと思った。

 海斗が続けた。

「小学生のハルはさ、自分が一番成長できる場所を迷わずに選んでいたじゃないか。何をそんなに臆病になっているんだよ? セレクションに落ちたこと、まだ引きずっているのか……?」

 海斗の表情は冷静だ。それがますます僕を不機嫌にさせた。

「うるせぇな! おれの将来だ。海斗には関係ないだろうがっ!」

 叫んだ瞬間、握っていた缶が凹んだ。その拍子に中身が吹き出し、手にポカリスウェットがかかった。

「ああ。おれには関係ねえよ。関係ないけど、気にはなるだろう」

 僕に怯むことなく、海斗が僕の目を覗き込んできた。

「お前だって気になるだろう? おれの進路」

 手がべとべとして不快だ。

「気にならねぇの?」

 海斗の声が脳にすとん、と落ちてきた。

 海斗と初めて会ったときのことを思い出す。海斗とは教室ではなく、グラウンドで出会った。

 海斗は季節外れの転校生だった。

 忘れもしない、小学校三年生の夏休み。立っているだけで汗が吹き出すような、その年一番の真夏日だった。

 僕の通っていた小学校のサッカーチームは、原則として小学三年生から参加が認められていた。本当は一年生から参加が可能だったのだが、過去に下級生と上級生でトラブルがあったとのことで、そういうルールになっていた。あくまでも規則ではなくルールだ。そのため、チーム内に兄や姉がいる場合は、保護者間の交流の実績があるとみなされ、一年生からの加入が認められていた。

 僕は三歳上の兄がチームに所属していたため、同学年の中で唯一、一年生からチームに参加していた。経験年数が一番長かったこともあり、一番上手だった。

 海斗は二学期が始まる前に、先にサッカーチームで友達を作っておいたほうがよいという大人たちの勧めにより、夏休みのうちから練習に参加することになった。

 海斗は体が大きかった。正直六年生に見えた。事実、六年生の誰よりも大きかった。

 それでも僕は、海斗に負けない自信があった。男にしたら少し長い髪の毛に妙に苛立ちを覚えており、絶対に負けるもんかと熱り立っていた。

 だけど僕は、あの日から一度も海斗に勝てたことがない。

「……で、本音は?」

 海斗の言葉で、僕は現実に引き戻された。

 目の前に立っている海斗は、今も少し髪の毛が長い。それを襟足と呼ぶのだと知ったのは、涼介に教えてもらったからだ。

「ハルはさ、どうして自分がセレクションに落ちたのかわかっていないだろう」

 僕が黙ったままでいると、

「おれもわかってねぇよ」

 海斗がさらっと答えた。

「前に一度、監督に訊いたことがあるんだ。どうしてハルを落としたのかって。だって、そりゃあハルはおれよりは下手だけど、でも受かった他のヤツらの中には、ハルよりも下手なヤツが少なくとも四、五人はいる。でも監督は教えてくれなかった。教えられないような事情があるんだろうな」

 海斗がグラウンドを見た。

 僕は知っていた。いや、最近気づいたと言った方が正しい。

 多分、僕が選ばれなかったのは体格だ。

 セレクションの提出書類には、なぜか両親の身長を書く欄がある。僕の両親はどちらも小柄だ。どちらも平均身長を満たしていない。

 だがその考えを海斗に伝えようとは思わない。確証はないし、どこか言いわけがましいような気がするからだ。それにもし海斗よりも技術が優っていれば、体格のハンデは無視されていたかもしれない。

「進路が決まったら、おれにも教えろよ」

 海斗はすくっと立ち上がると、あっという間に去っていった。

 どうして海斗は、僕に構うのだろうか。僕のことなんてさっさと置き去りにしていけばいいのに。

 僕は飲み終わった缶をごみ箱に向かって放り投げた。缶は放物線を描いて、ごみ箱の中に消えていった。



 午後のステージ発表が終わると、いよいよ合唱コンクールの結果発表の時間になった。

 ステージ発表は、何のアクシデントもなく、練習時間が少なかったわりにはそれなりのできで幕を閉めた。発案者の女鹿さんは、ステージの上で満ち足りた表情を浮かべていた。

 合唱コンクールの結果は、一年生から順に学年優秀賞が発表されていく。校長先生が、バラエティ番組のCM前に引っ張る演出をしながら発表をしていくと、悲鳴と拍手が交差した。

 いよいよ三年生の番だ。

「最優秀賞は……」

 誰かが固唾を呑み込む音が聞こえた。校長先生はそれだけの間をたっぷりと使い、

「……三年三組!」

 マイクをがっしり握り直して叫んだ。

 僕の周りに立っているクラスメイトたちが文字通り跳ね上がって喜んでいた。

「やったぞー!」

 海斗がガッツポーズを天に突き立てた。その瞬間、クラスメイトたちの歓声は、さらに沸き立った。

 美波が立ったまま静かに泣き出して、彼女の両肩を、それぞれ別の女子がぽん、ぽんと叩いていた。

 僕は密かに、マリアのピアノが評価されたのではないかと思った。確かに僕たちの歌は他のクラスよりも声が出ていたし綺麗だったと思う。だがなによりも、マリアのピアノがそれを支えていたのではないかと思ったのだ。

 集合写真に、マリアは写らなかった。前列のど真ん中には指揮者を務めた美波が賞状を持って立った。その隣に、学級委員長の海斗が並んだ。

 翌日、吹浦先生が集合写真を配布してくれた。

 興奮冷めやらぬうちに撮影した写真だからなのか、まるで運動をした後のように、みんなの頬は紅潮していた。

 僕たち三年三組の思い出の中に、マリアの姿はなかった。

 彼女のピアノの音をオルゴールみたいに閉じ込められたらいいのに、と集合写真を眺めながら僕は思った。

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