第9話 白鳥
校舎の四階に位置する音楽室の窓からは、日本海の水平線が見渡せる。
夏休みが終わったというのに、暑さは遠慮を見せるどころか、残暑という言葉があるから許されるような気温が続いていた。全開した窓からは、死に抗う蝉のような生温い潮風が、ときどき思い出したように吹いて僕たちを包んだ。
授業が始まるとすぐに、清川先生が少し待っていてくださいと断りを入れてから音楽室を出ていった。バタン、と分厚い扉が閉まると、すぐにあちらこちらで雑談が始まった。
「合唱コンクールの伴奏がまだ決まっていないの、私たちのクラスだけだって。一組も二組もとっくに伴奏付きで練習を始めてるって言ってたよ!」
後ろのほうから誰かの不満げな声が聞こえてきた。
「やっぱり曲を変えるしかないんじゃないの?」
指揮者に決まっている美波が、後ろに向かって言い返した。
合唱コンクールの自由曲は、多数決の結果『君と見た海』に決まった。が、伴奏の難易度が高く、誰も伴奏を引き受けたがらず保留になっていた。そもそも僕たちのクラスは、他のクラスと比べ、ピアノを弾ける生徒が少ないらしい。
「でも曲だって、ようやく決まったのに……」
教室の隅のほうで誰かが呟いた。
「本当に美波、ピアノ弾けないの?」
今度は前から誰かが美波に問いかけた。その問いかけに、美波が珍しく何も言い返さずに固まっていた。
「みんな、落ち着こうぜ」
海斗が立ち上がって言った。その一言で、教室の中がぴたりと静かになった。
「楽曲はみんなで決めたことだろう。それに、伴奏は誰にでもできることじゃない。すぐに決まらなくても仕方ないだろう」
みんながバラバラに頷く。バラバラとはいえ、みんなが海斗の言葉を真剣に受け止めているのがわかった。
「そうだよね。海斗の言うとおりだよ」
「私たち少し焦ってたかも」
「どうにかなるさ。おれたちのクラス、他のクラスよりも団結力があるし」
みんなが安心したように好き勝手に言葉をこぼし始める。調子のいいことに、前向きな言葉まで飛び交い出す始末だ。
「おまたせしました」
清川先生が戻ってきて、再び教室が静かになった。
清川先生の後ろに、小さな人影が見えた。マリアだった。マリアは小さな体をさらに縮こまらせ、清川先生の後ろに隠れるように立っていた。ざわめきが起こり、空気が揺れた。
「学校に来てたんだ」
誰かがぼそっと呟いた。
初めて見た。私も。私は一年生のときに同じクラスだった。
囁く声が止まらない。
季節は夏を通り過ぎたというのに、マリアの肌は真っ白なままだった。その肌の色は保健室の白さと同化しそうなくらいで、マリアは夏休みの間、室内に閉じこもっていたのだろうと簡単に想像がついた。だが家の中にいることが苦手なマリアのことだ。おそらく図書館にでも通っていたのではないだろうか。
「大山さんが伴奏を引き受けてくれることになりました」
清川先生が、マリアの肩に手を置いた。マリアは深く俯いていて、長めの前髪が彼女の表情を隠してしまっていた。
僕は知らなかった。マリアが伴奏を引き受けていたことを。夏休み前、あれきりマリアとは伴奏の話をすることもなかったため、てっきり断ったものだと思い込んでいた。
「夏休みの間、家で練習をしてきてくれたそうなので、まずは大山さんの演奏を聴かせていただきましょう」
清川先生がマリアをピアノへと誘導した。マリアはぎこちない足取りでピアノの椅子に座った。それから清川先生は、マリアの耳元に口をあてて何かを囁いた。マリアはそれに対して小さく頷き、一呼吸置いた後、鍵盤を叩き始めた。
一瞬で教室の空気が張り詰めた。雑談をする者は誰もいなくなっていた。マリアの小さな手がこんなにも力強く、だけど繊細な音を生み出していく。それが不思議だった。
演奏が終わり、音の余韻も消えると、
「すご……」
誰かの心の声が漏れたのと同時に、自然と拍手が沸き起こった。
「大山さん、とても素晴らしい演奏でした」
清川先生が顔の前で激しく拍手をしている。マリアの演奏に興奮していた。マリアはどこか不安そうに膝の上でスカートの裾を握っていた。
「これなら私たちのクラス、優秀賞も夢じゃないかも!」
誰かが声に出して言った。
「去年の伴奏も大山さんが弾いてくれていれば、もしかしたら学年優秀賞が取れてたかもしれないね……」
再びみんなが好き勝手に呟き出す。
「それでは、早速練習をしていきましょう」
清川先生が手を叩いて、僕たちの気持ちを切り替えさせた。
それからパート毎に固まって三列に並び、練習が始まった。マリアは清川先生の指示に従ってピアノを弾いた。
僕は歌に全く集中できず、清川先生から何度か注意を受けた。
それからマリアは、合唱コンクールの練習のために、音楽の授業に顔を出すようになった。
この町の夏は短く、秋はもっと短い。夏が終わると、冬が秋を追い抜いてしまう。早い年だと、衣替えを待てない女子がいるくらいだ。女子の靴下がタイツに変わるのと、白鳥がこの町にやって来るのとで、どっちが先かを競い合うのが恒例だ。
合唱コンクールの練習は、一見順調に進んでいるように僕の目には見えた。いや、僕以外の男子もそう思っていたことだろう。だが今日の練習で、男子は女子から数々の指摘を受けた。僕たちは練習に手を抜いているわけでもないのに、女子から好き放題言われたことに不満をこぼしていた。
どちらのグループにも属さない、合唱には参加しない中立的な立場のマリアは、不安そうに女子と男子を交互に見ていた。一方、マリアと同じ立場である美波は、彼女とは打って変わり、堂々と対立を見守っていた。
結局、海斗がいつものように上手いこと言ってのけて、その場は収まった。
僕は授業が終わると、保健室に足を向けた。
昼休みまで待とうかとも考えたが、どうにもマリアの顔色の悪さが気になった。一言だけ話してすぐに引き返せば、次の授業には十分間に合う。僕は半分走りながら保健室に急いだ。
保健室に着くと、マリアの姿が見当たらなかった。
カウセリングで隣の教室にいるのだろうかと呑気に思いながら視線を動かすと、学習机の影にマリアがいた。マリアは床にべったりと座り込み、椅子の座面に顔を乗せていた。
「マリア!」
僕は慌ててマリアの元に駆け寄った。
マリアの顔は壁のほうを向いたままだったが、声で僕のことがわかったのだろう、晴太くん、とか細い声が聞こえた。
「五十川先生を呼んでくる!」
僕はマリアの意識があることが確認できると、踵から体を捻り、職員室を目指して駆け出した。
待って、晴太くん。
マリアが首を横にしたまま呟いた。
「ただの、貧血、だから……。大丈夫、だから……」
マリアが言葉を区切りながら言った。
僕は靴の底をキュッと鳴らして立ち止まった。
「本当に、大丈夫なのか……?」
もう一度体を捻ってマリアに近づく。
マリアはだらりと床に下ろしている指を僅かに動かして答えた。
「女の子には、よくある、ことだから……」
マリアが目を閉じたまま言った。
マリアの横顔は陶器のように白かった。その無機物な横顔は触れたら壊れてしまいそうで、僕は目にかかっている前髪を払ってあげることができなかった。
マリアはしばらくそのままの形で、静かに呼吸をしていた。
僕は気が気じゃなかった。マリアの言うことが信じられないわけではなかったが、目の前で倒れている以上、とても大丈夫そうには見えなかった。女の子にはよくあることだそうだが、女兄弟がいない僕には理解ができなかった。
僕はマリアの横にしゃがみ込み、握れない手の温度を気にかけていた。桜の木の枝のように細い指は、僕の手よりも冷たいのだろう。
その時間は永遠に続くような気がしたが、やがてマリアがゆっくりと顔を持ち上げた。
「大丈夫か?」
思わず大きな声が出た。
マリアの前髪は汗でしっとりと濡れていて、脂汗なのか冷や汗なのかはわからないが、真っ白な顔に汗の玉がいくつも浮かんでいた。
「もう平気……。別に珍しいことじゃないの。ときどき起こるの。頭を低くして、五分くらい目を閉じると治るんだ」
マリアはしゃがみ込んだまま、椅子の座面に肘を付いた。
「晴太くん。どうして女の子の人生って、窮屈なんだろうね……」
マリアの声が震えていた。
「私の髪の毛、癖っ毛な上にうねっていて、全然綺麗じゃないでしょう」
マリアが自分の髪の毛を親指と人差し指で挟んだ。
「そんなことないと思うけど……」
僕は突然饒舌になり出したマリアに驚いていた。
「ううん。私も藤島さんみたいに、縮毛矯正したいんだ」
「縮毛矯正って?」
聞き慣れない言葉に首を傾げると、
「こういう癖のある髪の毛を真っ直ぐに伸ばすこと。美容院で施術できるんだけど、値段が高いから、私のお小遣いじゃとても足りないの……」
マリアが指で挟んだ髪の毛を引っ張り、伸ばして見せた。
「その縮毛矯正っていうやつを、美波はやっているのか……?」
「うん。縮毛矯正って見ればわかるんだよね」
「おれ、美波とは幼稚園からずっと一緒なんだけど、全然気づかなかったなあ……」
正直、僕にはマリアと美波の髪の毛の質の違いがわからなかった。長さが違うということぐらいしか違いを感じていなかった。僕は寝癖がついていなければそれでいいと思っているけれど、女の子はそれだけでは駄目なんだなと思った。
「藤島さんのことをいいなあって思うんだ……。私の髪の毛、お父さんの髪の毛とそっくりなんだ。大嫌いなお父さんにそっくりなんだ」
マリアが頭を抱えるように両手で髪の毛を掴んだ。
「晴太くん。私、怖いよ。怖くてたまらないよ……」
マリアの体が溶けたように床に崩れ落ちた。
「殴っちゃうの! 髪の毛がうねっているのが気に入らなくて太腿を殴っちゃうの! 他の子の髪の毛が綺麗なのが羨ましくて太腿を殴っちゃうの! 笑ってるクラスメイトたちが妬ましくて太腿を殴っちゃうの! 自分ばっかりがこんな思いをしているのかと思うと苛立って太腿を殴っちゃうの!」
マリアが芋虫のようにうずくまる。
「心が痛いの……。押し潰されそうなほどに心が痛いの。心の痛みをごまかすために、太腿を殴っちゃうの……」
マリアがくしゃくしゃになっているスカートの裾を掴む。
「私の太腿が痣だらけなことに、誰も気づいてくれないの……」
うずくまっている背中が波打っていた。
保健室は白々しいくらいに静かだ。
「……おれがいるだろう!」
僕は暴れ出した心臓を抱えたまま叫んだ。
「マリアには! おれがいるだろう!」
何も考えずにただ叫んだ。
「おれに『助けて』って言ってくれよ!」
僕はただ、目の前で泣き崩れている女の子の涙を止めたいだけだった。
「それじゃあ、駄目なのかよ……」
いくら叫んでも、マリアの心に僕の言葉は響かない。情けない僕の言葉は、きっとマリアの心に寄り添ったりしない。
マリアが震える拳で、自身の太腿を殴っていた。何度も何度も叩きつけていた。
マリア!
マリア!
マリア!
僕はマリアの肩を掴み、彼女の顔を自分に向けた。
マリアの拳が宙を彷徨った。
マリアの顔は涙で濡れていてぐしゃぐしゃだった。濡れた前髪がところどころ束になっていた。
僕とマリアの息の音だけになったところで、五十川先生が戻ってきた。
マリアは最後まで、僕に「助けて」とは言わなかった。
「五十川先生……」
情けないことに僕は、五十川先生に助けを求めた。五十川先生は、ぐしゃぐしゃのマリアを見ても取り乱すことなく、
「大丈夫よ」
と言いながら、マリアの背中をゆっくりと撫でた。
乱れていたマリアの呼吸が落ち着いてくると、マリアを立ち上がらせ、ベッドに寝かしつけた。
「大山さん、久しぶりに授業に参加したから、気持ちが少し不安定になってしまったのかもしれないわ」
五十川先生が閉じたカーテンを見つめながら言った。
「おれ、マリアが伴奏を引き受けたことを知らなかったんです……」
僕はぐしゃぐしゃに歪んだマリアの顔を思い出していた。いや、頭から離れなかった。ずっと貼り付いたままだ。
「大山さん、水沢くんのことを驚かせたかったんじゃないかな?」
「おれ、前にマリアに言ったんです。マリアのピアノを聴いてみたいって……」
顔を上げると、五十川先生がゆっくりと頷いた。
「大山さんなら大丈夫よ」
僕は授業に戻るために、保健室を後にした。
授業はとうに始まっていた。チャイムが鳴っていたはずだが、全く耳に入っていなかった。
次の科目が何だったのか、思い出せない。
保健室を出て一人になると、心臓が思い出したかのように再び暴れ始め、手も震え出していた。
僕は階段の踊り場に着くと、壁の角に体を挟み込むようにしてしゃがみ込んだ。途端に膝も震え始めた。
僕は怖かった。
取り乱したマリアの一面を見て、驚かなかったといえば嘘になる。今まで見たことのないマリアの姿を見て、感情を剥き出しにするマリアの姿を見て、僕の感情が置いてきぼりになってしまったことは誤魔化せない事実だった。でも僕は、どんなマリアだって受け入れたかった。それなのに、僕は……。
絶望していた。
僕の言葉は、マリアには届かない。もしかしたら海斗の言葉だったら……と考えてしまう自分に嫌悪し頭を抱えた。
僕は踊り場から立ち上がれないまま、授業の終わりを告げるチャイムの音を、丸めた背中で聞いた。
もうすぐ、誰かがここを通るだろう。
一階には美術室や技術室、それに体育館がある。この階段は中央階段よりは人通りが少ないが、教室の位置によっては、こちら側から移動する生徒もいることだろう。
すぐに動かなくては、と思ったが、体は石のように重たく、指一本動かすことさえ億劫だった。
もうしばらく、このままでいたい。そう思ったとき、突然、白鳥の鳴き声が聞こえてきた。
急に体が身軽になって、窓から身を乗り出して空を見上げる。白鳥の群れが、V字型に隊列を作って飛んでいた。
この町に、冬が来た。
僕は先頭の白鳥に敬意を込めて、いつまでもその姿を目で追いかけた。
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