第8話 花火

 屋台の電球が生ぬるい夜風でぶらり、ぶらりと不安定に揺れていた。じっと見つめているだけで鼓膜に焼き付きそうな白熱に思わず目を反らすと、

「晴太!」

 突然、後ろから声を掛けられた。焼きそばの焦げたソースの匂いがするほうを振り向くと、屋台二つ分離れた所に、浴衣姿の美波が立っていた。

「一人で来たの?」

 駆け寄ってくるなり、美波が訊ねてきた。美波の下駄の音は、花火の見物客たちの喧騒で掻き消されていた。

「まさか」

「それなら誰と来てるのよ?」

 美波が首を伸ばして辺りを見渡す。首の動きに合わせ、まとめられた髪に突き刺さっている簪の花飾りが激しく揺れていた。

「涼介だ」

 桃色の花が、ぴたりと止まった。

「そうなんだ。で、小波渡くんはどこにいるの?」

「涼介なら河川敷で場所取りをしてる。それでおれが買い出しをしてるんだ」

 僕は美波に、手に持っているビニール袋を掲げて見せた。

「そういう美波こそ、一人で来たのか?」

「私はクラスのみんなと花火を観るの。用事があって家を出るのが遅れちゃったから、集合場所にはこれから向かうところ。夏休みが始まる前に、晴太にも声を掛けたでしょう」

「そうだっけ?」

「覚えてないの? 中学は今年で最後だから、思い出作りに、クラスのみんなで河川敷に花火を観に行く話になってるって誘ったじゃない。そしたら晴太、話もろくに聞いてくれないで、花火大会の日は東北大会が……」

 そこで、美波の声がぷつりと途切れた。

 思い出した。夏休みに入る前、美波から市内の花火大会に一緒に行かないかと声を掛けられていた。そのとき僕は、ろくに話も聞かずに断ったのだ。今日は東北大会の開催日で、本当ならば、こんな場所にはいないはずだった。

 この町の花火大会は、毎年八月の第一土曜日と決まっている。そのため東北大会の開催日が発表されたときから、花火大会と日程が重なることがわかっていた。

『今年は花火を見られないのか。花火が観られない夏って、ガリガリくんを食べない夏と同じくらい、夏じゃないよな』

 僕が涼介に言うと、

『おれはガリガリくんよりもスイカバーのほうが好きだな』

 と、検討外れの言葉が返ってきた。僕はこの夏、まだガリガリくんを食べていないことを急に思い出した。

「どうする? 私たちと合流する?」

 美波の声で、生温い夏に戻ってきた。

「クラスの半分くらい集まってるんだって。それに高瀬くんが、午前中から場所取りをしてくれたおかげで、いい場所が取れたって言ってたよ」

 美波が巾着袋からスマートフォンを取り出して操作を始めた。

「いいや。おれ、涼介のところに戻る」

「えっ? ちょっと……」

 僕は美波を置いて、涼介が待っている場所に向かって歩き出した。喧騒が、僕の心を掻き乱してくれていた。

 僕の長くて短い中学生最後の夏休みは、敗北から始まった。

 県大会の初戦。僕たちのチームは一対ゼロで負けた。チーム全体の連携が上手くいかず、パスが全く繋がらなかった。ゲームは始終相手が優勢のまま一方的に攻められ続けた。

 朝四時三十分に起きて身支度をし、車で片道二時間もかけて試合会場に着いたというのに、それはとてもあっけなかった。試合をしていた時間よりも、車の中にいた時間のほうが長かった。

 午前中のサッカー場はまだどこか遠慮をしている暑さで、僕たちの気持ちもどこか中途半端なまま試合は終わった。消化不良だった。もちろんそんな言いわけは通用せず、僕たちの夏は容赦なく終わった。

 試合終了のホイッスルが響かなかった。あんなにも必死にピッチを駆け回っていたはずなのに、勝敗はどこか他人事だった。

 僕は初めて涼介が泣く姿を見た。涼介はとても静かに泣いていた。声を出さず、ときどき喉仏の震えを堪えながら、ただ真っ直ぐに立って泣いていた。僕はそんな涼介に、何の言葉もかけてあげられなかった。あのときばかりは、僕よりも涼介のほうがよほどサッカーに真剣だったように見えた。僕は泣けなかった自分を責めることに必死だった。

 試合の最中、時間が削れていく中、僕は海中をもがくように焦っていた。

 もし僕が海斗だったら、海斗だったら、海斗だったら……。

 ピッ、と甲高い音が耳元で響き、はっとして立ち止まる。僕のすぐ横を、幼稚園児くらいの子どもが走り去っていく。子どもは首からぶら下げた笛を口に咥えたまま手足を一生懸命に振っていた。

 無意識のうちに噛み締めていた唇から歯を遠ざける。涼介から頼まれていたたこ焼きを一パック買い足すと屋台の通りから離れた。焼きそばもたこ焼きも熱々で、ビニール袋を持っているだけでも手に熱気が伝わってきた。賑やかな音を振り払い、色んな食べものの匂いから抜け出すと人気がぐんと減った。

「おーい! こっち!」

 近づいてくる僕に気がついた涼介が、手を左右に大きく振った。僕はビニール袋が揺れない程度に駆け寄った。

「ずいぶん時間が掛かったな。そんなに露店は混んでいたのか?」

 言いながら、涼介が財布から五百円玉を取り出した。

「途中で美波に会って捕まってた」

「へえ。藤島さんも来てるんだ」

 僕は涼介から差し出された五百円玉を受け取ると、財布を開くのが億劫で、そのままズボンのポケットに突っ込んだ。

「クラスのヤツらで集まってるんだとさ。おれらも一緒にどうかって誘われたんだけど、なんか面倒だったから断っちまった。それでよかったか?」

 涼介と会うのは県大会の敗戦以来だった。中学校に入学してから部活漬けの日々を送っていたこともあり、こんなに長い間、涼介と顔を合わせなかったのは初めてのことだった。

「おれは別にいいけど……。というか実は、昨日おれも小岩川さんから誘われたんだ。で、ハルと行くからって断った」

「そうだったのか」

 僕はビニール袋の中からたこ焼きのパックを取り出すと、それを涼介に差し出した。涼介はありがとう、と言って受け取った。

 周りにいる人たちはレジャーシートを敷いて座っていたが、僕も涼介もそんなものは用意していなかった。互いに財布一つしか持ってきていない。僕が涼介の隣に腰を落ち着かせると、花火の打ち上げが始まった。

「ハル、勉強してる?」

 早速割り箸を割りながら涼介が訊ねてきた。涼介の口から、受験を意識させる単語が出てくるのは初めてだった。

「いや……」

 僕は素直に答え、彼に続いて箸を割った。

 部活を引退してから、一日中ベッドの上で過ごすようになっていた。受験生だというのに勉強机に座る気分になれず、枕に顔を押し当てて一日が終わるのを静かに待った。

 一人になると、頭が勝手に最後の試合を再生し始めた。結末がわかっているというのに動悸が激しくなり呼吸が苦しくなった。後悔で心ががんじがらめになり、硬くなった体をベッドに沈め、心臓が疲れて静まるのをただ待つ。それを何度も、何度も繰り返していた。

「そっか。おれもまだ勉強する気になれないけど、そんなことも言っていられないよな。もう八月になっちゃったし……」

 涼介がたこ焼きを口に放り込んだ。僕も焼きそばの麺を啜った。

 雪国にある中学校の夏休みは短い。お盆が終われば、翌週には二学期が始まる。

 僕と涼介の口数は多くなかった。花火の音が、その間を埋めていく。

 僕は夏休みで会うことのないマリアの顔をときどき思い出しながら、漆黒を照らす花火を眺めた。マリアもこの町のどこかで、この花火を見上げているだろうか。なんとなくだが、観ていないような気がした。

 僕は家で何も食べてこなかったこともあり、あっという間に焼きそばを平らげたが、夕食を軽く済ませてきたと言っていた涼介は食べるペースが遅く、まだ二つ残っている。ようやく最後の一つを頬張っていた涼介が、

「おれ、中学を卒業したら東京に戻るんだ」

 熱い息を吐き出しながら言った。

「戻るって……?」

 はす、はす、と涼介が息を吐き出す。猫舌のくせに、口の中に丸々一個放り込んだりするからだ。

「最初から三年間という話だったんだ。この町にいるのは……」

 涼介が小学校を卒業するまでは東京に住んでいたということは、彼と出会った頃から知っていた。

「そんな話! 今まで一度も……」

 僕は花火に負けないくらいの声で言った。が、僕の声は簡単に闇の中に溶けていった。

「ハルだけじゃない。誰にも言ってないよ」

 涼介が僕の顔から目を逸らしたのが、薄暗い闇の中でもわかった。

「言えるわけないじゃないか。友達になってほしいけど、おれは三年後には東京に戻る、なんて……。おれ、東京の前は神戸にいたんだ。生まれたのは母さんの実家がある熊本だし、おれにとって引っ越すことは全然特別なことじゃないんだ」

 涼介が続ける。

「ハルにも黙っていたことは謝る。だけど、何度も言おうと思ったよ。県大会の前に、ハルにだけは伝えておこうと思った。でも言い出せなかった。それを知ったらハルはさ、また無茶をするんじゃないかって思ったら、おれは……言えなかった」

 花火の音が耳元で弾けた。一際大きい一発に、周囲から甲高い歓声が沸き上がる。

 それきり僕たちは言葉を交わさなかった。ただ黙って花火を見上げていた。途中で帰ろうとさえ言い出せず、最後の一発まで見届けた。

 歯に挟まっている焼きそばの青のりが妙に苦くて、僕は何度も執拗に歯を舐めていた。

 花火の打ち上げが終わり、僕たちの周りに座っていた人たちが帰り支度を始め、僕と涼介もそれに倣った。それから人の波に身を任せてのろのろ歩いた。

 花火大会が始まる前は、帰りにコンビニでガリガリ君を買い、港で食べてから帰ろうと思っていた。涼介はスイカバーのほうがいいって言い出すかもしれないなとか想像していたのだが。

 僕と涼介の家の分かれ道に着くと、

「せばの!」

 涼介が先に言った。僕が涼介に教えた言葉で、この地域の方言で「じゃあな」という意味だ。

 僕は涼介をコンビニに誘うことはもちろん、別れの挨拶もできなかった。



 僕の夏休みは、アイスクリームが溶けるよりも早く、花火が消えるよりも早く、終わりを迎えた。

 花火大会の日以降、涼介には一度も連絡を取らないまま始業式を迎えた。新学期の教室は、一瞬自分たちが受験生だということを忘れてしまいそうなほど浮ついた雰囲気が漂っていた。花火大会の日を皮切りに、幾つかのカップルが誕生したらしい。

 狭い教室の中で、僕と涼介は目を合わせなかった。部活を引退している今、涼介とコミュニケーションを取らなくても困ることはなかった。

 新学期が始まってから、あっという間に三日が経った。夏休みが始まる前は、マリアと会えなくなるのは寂しいと思っていたはずなのに、保健室の前を通っても立ち寄ることなく足早に通り過ぎていた。

 理由はわかっている。県大会の初戦で敗れ、マリアに会わせる顔がないのだ。

 僕は部活のない放課後に戸惑っていた。保健室には行けず、母がいる家にも居たくない僕は、意味もなく教室に残るようになっていた。何をするでもなく、壁に取り付けられている時計の針の動きを眺めて時間を潰した。

「……何やってるんだ?」

 突然声を掛けられ、驚きながら振り返ると、海斗が戸に寄りかかっていた。

「別に何も……」

 海斗は僕の傍を通り過ぎて自分の席まで歩くと、体を屈め、机の中からノートを取り出した。そのまま教室を出ていくものだと思い込んで後ろ姿を眺めていると、

「珍しいな」

 海斗が急に立ち止まって振り返った。

 教室は照明が消えているうえに、太陽の日差しは厚い雲で覆われている。まだ夕方というには少し早い時間だったが室内は薄暗かった。そのせいか、海斗の肌の色がより一層濃く見えた。

 海斗は、夏休みの間も練習をしていたのだろうか。ジュニアユースは、八月は練習が休みのはずだが、海斗のことだから自主練習はしていただろう。まさか僕みたいに、一日中ベッドの上で過ごしていたなんてことはないだろう。

「……なにが?」

 海斗から目を逸らす。

「涼介は? お前たち、いつも一緒にいるだろう」

「教室にいないんだから、先に帰ったんだろう」

「なんだ。喧嘩か」

 海斗が知ったような顔をしたのがカチンときて、

「何も言ってないだろう!」

 つい怒鳴ってしまった。海斗は声を張り上げた僕に驚くでもなく、ただじっと見つめていた。罪悪感が後からやってきて、僕のほうが動揺していた。

「涼介はまだしも、ハルはわかりやす過ぎるんだよ」

 海斗が鼻で笑った。

「どうせくだらないことで喧嘩したんだろう。さっさと仲直りしろよな」

 僕はこれ以上、海斗と言葉を交わしたくなくて、学生鞄を背負うと、海斗から逃げるように教室を飛び出した。

「お前から謝れよー!」

 海斗が廊下に出てきて叫んだ。海斗の言葉が背中に浴びせられる。

 どこまでもしつこいヤツだ。

 僕は決して振り返らず、走る足を速めた。

 昇降口に着くと、霧のような小雨が降り出していた。天気予報では夜から降り出すとのことだったが、空は少しせっかちなようだ。だがせっかち勝負なら、僕の母も負けていない。家を出るときに折りたたみ傘を持たせられていた。

 靴を履き替え終わると、ガラス戸の前に涼介が立っていることに気がついた。涼介は誰かを待っている様子はなく、ただ空を見上げていた。おそらく傘を持っていないのだろう。

「これ、使っていいぜ」

 僕は涼介に後ろから声を掛けると、すれ違いざま折りたたみ傘を手渡した。別に海斗から言われたからではない。涼介の前を素通りする勇気がなかったからだ。涼介は突然僕に話しかけられたことに驚いたのか、目を丸め、僕を一点に見つめた。僕はその視線を振り払うように顔を逸らして歩き始めた。

「……待って!」

 涼介が叫んだ。

 反射的に足を止めてしまったが、どうしようか迷った。ちょうど屋根から体が飛び出しており、雨粒が肩を叩いていた。

「ハル……。ごめん……」

 涼介が言った。僕は後ろを振り返れないまま、その声を背中で聞いた。

「おれ、ハルとずっとこのままなんて嫌だ」

 涼介が続ける。僕はまだ後ろを振り返れない。前方からは本降りに変わり始めた雨がじとじとと音を鳴らしていた。

「ハルは忘れているかもしれないけどさ、三年前、サッカー部の入部体験のとき、フェンス越しにグラウンドを見ていたおれに声を掛けてくれただろう」

 僕は覚えていた。涼介はフェンスの網に指を引っ掛けてグラウンドを見つめていた。その後ろを素通りしようかと思ったが、太陽の光を弾き返していた髪の毛が綺麗で、思わず足を止めてしまったのだ。

「すごく嬉しかった」

 雨粒が、涼介の声を湿らせていく。

「入学する前に、先生から説明があったんだ。この中学校は、主に二つの小学校の卒業生が通うから、それ以外の学校から入学する生徒は数人しかいないって。実際、先生が言ったとおり、入学式にも関わらず、既にグループができあがっていて、すごい心細かった。教室で誰にも話しかけられなくて、そんなおれに、最初に声を掛けてくれたのが……ハルだった」

 涼介がこの町の人ではなく、東京から越してきたことを後から知って、妙に納得したことを覚えている。涼介は髪の毛を茶色に染めているわけではなかったが、ヘアワックスを使って整えており、妙に雰囲気があった。最初こそ、それが僕の目には物珍しく映ったが、グラウンドを見つめる瞳の揺れ方が気になって、彼に声を掛けたのだ。

「ハルがおれに『サッカーに興味あるの?』って、訊いてくれただろう。あのときおれ、サッカーやっててよかった、って初めて思った」

 小学生のときは練習が好きじゃなかったから、と涼介は言葉を付け加えた。

「正直サッカー部に入るか迷っていたんだ。だからフェンス越しから部活の様子を眺めてた。親も運動部より文化部のほうが楽だからいいって言ってたし、おれ自身もサッカーに未練はなかったから……。おれがまたサッカーを始められたのは、ハルのおかげだ」

 涼介が一呼吸置いてから、

「東京に引っ越すこと、ずっと隠しててごめん……」

 僕はようやく後ろを振り返った。涼介が頭を下げていた。

「おれのほうこそ、気づいてやれなくてごめん」

 僕が謝ると、涼介が顔を上げた。涼介の目が、あのときと同じ揺れ方をしていた。

 僕は涼介の手から折りたたみ傘を取ると、それを広げた。

「早く帰ろうぜ。涼介の家まで送ってやるよ」

 涼介の口元がふっと緩んで、白い歯が見えた。

 僕と涼介は、折りたたみ傘を差して歩き出した。お互いに傘の外側にある肩はびっしょりと濡れ、傘をささずに走って帰ったほうが濡れずに済んだかもしれないと思った。でもこれも悪くない、と思えた。

 いつもなら校門を抜けたところで右に曲がるのだが、僕は左に曲がって涼介の家を目指した。

「……あのさ、ハルって、大山さんと付き合ってるの?」

 雨音を混ぜながら、涼介が訊ねてきた。僕は突然のことに吹き出してから、

「急に何を言い出すんだよっ!」

 盛大に咳き込んだ。傘を持っていた手が前に大きく揺れ、髪の毛が濡れた。

「だって大山さんと会うために、昼休みに保健室へ通っているんだろう? クラスで噂になってるよ」

「噂ってなんだよ!?」

 急に動悸が激しくなり、動揺で声が裏返った。

「だから、ハルと大山さんが付き合ってるって」

 涼介の声が強くなった。雨が一段と激しくなったからというわけではないだろう。

 まさか自分の知らないところで、僕とマリアの話がされているなんて思ってもみなかった。相手が美波なら慣れているが、美波以外の女子と噂をされるのは初めてだ。

「付き合ってない……」

 狭い傘の中で、僕の声がポツリと落ちた。

「ハルは、大山さんのことが好きなのか?」

 涼介が遠慮がちに訊ねてきた。

「マリアのことは好きだけど、多分涼介が考えているような好きとは、意味が違うと思うんだ……」

 狭い空間の中で雨音が響く。

「藤島さんが気にかけてたよ。おれに訊いてきたんだぜ。ハルと大山さんが付き合ってるのかって」

「美波が? どうして?」

「ハルって、本当に残念だね。おれは、ハルのそういうところ嫌いじゃないけど」

 涼介が溜め息を吐いた。

「残念とか言うなよ」

「それなら質問を変えるけど、藤島さんとは付き合わないの?」

「付き合わないっていうか、美波とはそういう関係じゃないから……」

「ハルは、彼女が欲しくないの?」

「そう言う涼介はどうなんだよ?」

 質問を畳み掛けてくる涼介に、ついに僕は反撃した。

「おれは彼女がほしいというよりは、好きな子ができたら、その子と付き合いたいとは思うけど……」

 涼介が戸惑いながら答えた。

「おれも同じだって」

「そうだよな。別に誰でもいいっていうわけじゃないよな」

 涼介がうんうん、と一人で勝手に納得して何度も頷いた。

「でも藤島さん、可愛いと思うんだけどなあ……」

 涼介が独り言のように呟く。

「美波とは幼馴染みで、腐れ縁なだけだから」

「その幼馴染みがいいと思うけどな。転勤族のおれからしてみれば、そういう関係の女の子がいるってだけで十分羨ましいよ。気心が知れているから気を遣わなくていいし、自分のだめなところもわかってくれているから見栄を張らなくてもいいし……」

 涼介が流暢に語った。

「なんなんだよ、さっきから」

「おれ、藤島さんを応援してるんだ。彼女の健気なところ、おれ的には好印象だからさ」

「なんだよ、勝手に……」

「ハルが大山さんのことが好きなら、藤島さんに協力するのはよくないかと思っていたんだけど、そうじゃないなら別に構わないだろう」

 涼介が僕の顔を覗き込んできた。僕が答える前に、涼介の家の前に着いた。涼介は残念そうに眉を下げたが、玄関ポーチに駆け込んだ。

「送ってくれてありがとう。せっかくだから家に上がっていかないか?」

 涼介が僕をじっと見つめた。僕は迷った。靴に雨が染み込み始めており、靴下の爪先が濡れていた。そのせいで気持ちが悪かった。

「……ガリガリ君を買ってあるんだ」

 涼介が遠慮がちに言った。涼介の言葉で、花火大会の日のことを思い出した。

「おれたちの夏を取り戻そうぜ!」

 僕は迷いを振り払って、玄関ポーチに飛び乗った。



 僕と涼介はリビングのソファに座り、それぞれタオルケットを肩から掛け、震えながらガリガリ君を食べ始めた。

「これで風邪でもひいたら、おれたち本当のバカだな」

 涼介の唇が、もう紫色になっていた。

 建物の中に入ったからか、先程よりも雨音が激しくなっているように感じられる。屋根を叩く雨音に混じって雷鳴が聞こえ始めていた。窓がカーテンで締め切られているせいで閃光は見えないが、雷は少しずつ近づいてきている。

「……おれ、涼介と出会うまで、冬の雷が珍しいって知らなかった」

 この町は夏に限らず、一年中雷が鳴る。そのことを当たり前だと思っていたが、涼介から「そもそも雷は夏の季語」だと教えられた。

「知らなかった」は、涼介の口癖だ。これまで栄えた街で暮らすことの多かった涼介は、ド田舎の暮らしにいちいち驚いていた。「白鳥がパンの耳を食べるなんて知らなかった」、「この町のラーメンが、日本一だなんて知らなかった」、「日本海に沈む夕日がこんなに綺麗だなんて知らなかった」、「海鮮がこんなに美味しいなんて知らなかった」、「海の波の音が、こんなにも耳に心地良いなんて知らなかった」

 色んな町で住んできた涼介は、そんな風に色んなことを知っていき、僕よりも多くのことを知っているのだろうと思った。僕はこの町では涼介の先輩だが、引っ越しに関しては涼介のほうが先輩だ。

「おれは、この町から出たことがないからな……」

 去る者と残される者。どちらのほうが辛いのか。僕はいつだって残されるほうだ。自分が被害者だと決めつけ、いじけた挙げ句、涼介に不安をぶつけてしまった。

「東京って、毎日が祭りみたいだよな」

 僕は修学旅行で訪れた東京を思い出しながら言った。

「祭り? そんな楽しい場所じゃないよ。この町とそんなに変わらないって」

 涼介が、ハルは東京に夢を見すぎ、と笑い出す。

「この町と変わらないことはないだろう。坂田は、電車は一時間に一、二本しかないし、バスなんて一日に数本だぜ。車を運転できないおれたち子どもは、自分の足で行けるところにしか行けない。こんなに不自由なのに、東京と同じってことはないだろう」

 つい熱くなり、冷えていた頬が熱を帯び始める。

「ハルの言いたいことはわかるけど、東京って、そんなにいいところじゃないよ。確かにこの町にいたら、東京がキラキラ輝いて見えるかもしれないけど……。自由過ぎるほうが逆に不自由ってこともあるんだよ」

 言い終わると涼介は、ガリガリ君にかじりついた。僕もまだ半分以上残っているガリガリ君に歯を立てた。

 雨は全く止む気配がない。ときおり風がぴゅうと強く吹いていた。

「ハルは、高校を卒業したらどうするんだ?」

 涼介がガリガリ君を口から離して言った。涼介からの質問に驚いて、ソファが深く沈んだ。

「高校受験もまだこれからなのに、そんな先の未来のこと、まだ考えられるわけがないだろう」

 答える声が裏返った。

 涼介は、もう高校を卒業した未来のことまで考えているのだろうか。

「そうだよな……。まだ先の未来だよな。まあ、そういうおれも決めているわけじゃないけど、ハルが東京の大学に進学したら、また会えるのにって思っただけ」

 涼介がまた、ガリガリ君を食べ始める。僕はソファに座り直し、残りを一気に食べ終えた。口からスティックを抜き、表と裏を確かめる。

「残念。外れ」

 僕が食べ終わると、少し遅れて涼介も食べ終わり、

「おれも」

 と小さく笑った。

 雷が轟いた。カーテンの隙間から閃光が漏れた。

「麦茶飲むだろう? 冷蔵庫から取ってくるよ」

 涼介が僕の手からスティックを取って、ソファから立ち上がった。僕は涼介の背中を見つめながら口を開いた。

「会いに行くよ」

 涼介が、髪で風を切る勢いで振り返った。

「東京って、想像していたよりもずっと近かった。飛行機なら一時間だ。まあ、飛行機だと料金が高いから、多分高速バスになるだろうけど、行けない場所じゃない。だからさ、涼介に会いに行くよ」

「おれも! おれも夏休みとか冬休みに、ハルに会いに行く!」

 涼介の唇の色が赤色に戻っていた。

 本当は待っててくれ、と言いたかった。言えればよかった。

 涼介がキッチンに入っていく。ごみを捨てるとグラスに麦茶を注ぎ、リビングに戻ってきた。はい、とグラスを手渡され、ありがとう、と言って受け取った。

 涼介は麦茶を一口飲むと、すぐにローテーブルにグラスを置いた。

「おれ、雷が怖いんだ……」

 涼介はソファの上で膝を立て、そこに額をのせて俯いた。

「格好悪いし情けないけど、小さいときから苦手なんだ。だから、ハルが家に上がってくれて助かったよ」

 言い終えるなり涼介が顔を上げ、目を細めた。

「涼介は隠していたつもりかもしれないけど、おれは気づいてたぞ」

「ええっ!?」

 涼介が声を張り上げた。

「自分では気づいていないのかもしれないけど、涼介、雷が鳴ると饒舌になるんだぜ」

「知らなかった……」

 涼介が瞬きを繰り返した。

「涼介が東京に引っ越すまでまだ半年間もあるんだ。涼介の知らないこと、もっともっと教えてやるよ」

「頼りにしてるからな、先生」

 涼介が僕の肩に手を置いた。

 僕は麦茶を飲み終えると、雷が遠のいたタイミングを見計らい、ソファから立ち上がった。

「それじゃあ、気をつけて帰れよ。せばの!」

 玄関に立っている涼介が、家の中から大きく手を振った。

「せばの!」

 僕は傘を高く掲げて応えた。その拍子に、露先から雨粒がボタボタと落ちてきた。

 一人になると、傘に当たる雨粒がよく響いた。

 僕は涼介から聞いた話を思い出していた。僕とマリアの関係には、きっと名前が必要なのだろう。曖昧な状態だから他人の話の種にされてしまうのだろう。

 止みそうにない雨を見上げながら、僕は息を吐いた。

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