第7話 カウンセラー

 保健室の隣にある空き教室は、机と椅子の数が少ないせいか、どこか開放的だった。言葉どおり、風通しのいい空間だった。そのおかげなのか、初めて言葉を交わす相手に緊張はしているものの、窮屈さは感じなかった。

「はじめまして。私はスクールカウンセラーの升形です。私のことは升形先生って呼んでくれたら嬉しいな」

 升形先生は、この町では珍しい二十代半ばくらいの女性だった。肩越しの髪の毛を内側に巻いており、黒とも茶色とも取れる控えめな茶髪をしている。その色が新鮮だった。正面から見ると黒が強いが、角度を少し変えると茶色が強くなる不思議な髪色だった。

「この中学校には、週に一回お邪魔しています」

 升形先生が体を動かすと、花のような香りが揺れた。

「水沢晴太です」

 僕は気持ち程度に頭を下げた。

「まずはお互いのことを知るために、軽く自己紹介をしましょう」

 升形先生が胸元の前で手を組んだ。ブラウスの首元に付いている繊細なフリルが軽やかに揺れた。

「私の趣味は野球観戦です。プロ野球はもちろん、高校野球も大好きよ。プロ野球では楽天ゴールデンイーグルスを応援しているの。休みの日は仙台まで車を飛ばして、球場へ応援に行くこともあるわ。水沢くんは、楽天球場に行ったことはあるかしら?」

「いえ、ないです。野球はあんまり……」

「そうなのね。残念だわ」

 升形先生が肩を竦めた。

「楽天球場には観覧車やメリーゴーラウンドがあってね、野球にあまり興味のない人も楽しめるような空間になっているから、ぜひ一度行ってみてほしいわ。球場で観戦するときは、売店のフードも楽しみの一つなの。その中でもピッツアがとっても美味しいから、機会があったら食べてみてね」

 升形先生は最後までゆっくりとした口調だった。まるでドラマや漫画の決め台詞のようで、自己紹介に慣れているんだなと感じられた。

「次は水沢くんの番よ。私に、水沢くんの好きなものや好きなことを教えて」

 升形先生が僕に話を振った。

「僕は……」

 口を開いたものの、すぐに言葉に詰まった。今までだったら、何も考えずに「サッカーが好きだ」と自信満々に答えられたのに、今の僕にはそれが難しかった。升形先生が自分の趣味を語っていた表情が、僕の口を重たくしていた。

「休みの日は何をしているの?」

 升形先生が僕の顔を覗き込んできた。

「部活がある日はサッカーをしています。だけど、休みの日はベッドで寝ていることが多いです」

「水沢くんはサッカー部なんだね」

 はい、と頷く。

「ポジションは?」

「フォワードです」

 升形先生はサッカーを知ってるのかな、と思いながら答えた。

「サッカーはいつから始めたの?」

「幼稚園の年少からです」

「そんなに小さいときから? すごいわね!」

 升形先生が自身の顔の前で手を叩いた。拍手と呼ぶには回数は少なかったが、悪い気はしなかった。

「幼稚園に隣接しているお寺のお坊さんが教えてくれて……」

 僕が初めてサッカーボールを蹴ったのは、幼稚園のグラウンドだった。

 サッカーはバスケットボールのように手を使ってはいけないし、テニスのように道具を使わないし、野球のように体を休める時間はないし、卓球のようにフィールドが狭くもない。ただ広いコートの中を駆け回り、ボールを蹴ってゴールを目指す。言葉にするとそれだけなのに、それがとても面白かった。たまごボーロもいらないくらいに夢中になれた。あのときの感覚が手放せなくて、僕は今でもボールを蹴っている。

「水沢くんは、私に相談したいことがあるんだよね?」

 升形先生の声で我に返り、ハッとして顔を持ち上げた。また無意識のうちに潜っていたようだ。

 僕は頭を振ってからゆっくり口を開いた。

「志望校に悩んでいて……」

 いざ話を始めようとすると言葉が形を失った。頭の中にはたくさんの感情が詰め込まれているのに、言葉を忘れてしまったかのように、何から話し始めたらよいのかがわからなかった。

 僕が黙ったままでいると、

「水沢くんは受験生だったわね。私も学生のときに同じ悩みを持っていたわ」

 僕の代わりに、升形先生が口を開いた。

「升形先生も……?」

 升形先生が瞬きで返事をした。

「中学生のときは、将来やりたいことをまだ見つけられていなかったから、自転車で通える進学校というところまでは絞り込めたんだけれど、自分の偏差値よりも少し高い高校に進学するか、それとも自分の偏差値に適した高校に進学するか、すっごい悩んだわ」

『すっごい』の言い方がまるで子どものようで、僕は思わず小さく笑った。

「それで升形先生は、どうやって志望校を決めたんですか……?」

 少しだけ緊張の糸が解れた僕は、笑い止んでから訊ねた。

「結論から言うとね、自分の偏差値よりも少し背伸びをした高校を選んだの。担任の先生や塾の先生が私に言うのよ。『お前なら合格できるぞ』って。私はその言葉を真に受けて、テレビを観るのも我慢して勉強をしたんだ。そして偏差値の高い高校を受験したの。ところが蓋を開けてみたらね、偏差値が高い高校のほうが倍率が低くて、定員割れすれすれの受験者数だったの。強運だよね。それで合格したんだ。逆に偏差値が低い高校は倍率が高くて、私の中学校の生徒だけでも結構な人数の子が落ちたんだ。私も偏差値が低い高校の方を受験していたら不合格だったかもしれない。だから受験が終わった途端、どうしてあんなに悩んでいたんだろうっていう気持ちになったわ」

 升形先生が人差し指で頬を掻いた。

「でもね、高校三年生になったときに、また同じ問題にぶつかったの。志望大学をどうしようって……」

 升形先生が遠くを見るように目を細めた。

「水沢くんは、この悩みを家族や友達に相談したことはある?」

 僕は首を横に振った。

「そっかあ。一人で頑張ってきたんだね」

 升形先生が言った。

「晴太くんは今、自分のことを自分で真剣に考えている。それはとても大事なことだよ。友達の中には志望校に悩まない子もいるよね。こんな田舎町だと、自分の成績だけで高校を決める子も多いし……。悩むって疲れるけど、全然悪いことじゃないんだよ。悩むってことは、晴太くんには選択肢がいくつかあるってことだよね。晴太くんの未来には、色んな可能性があるんだよ。すてきなことだと思うなあ」

「すてきなこと……?」

「そう。考えるとね、何かが生まれてくるでしょう。だからね、悩んだり考えたりするのは全然悪いことじゃない。それに大人になると、だんだん悩めなくなるの。だから悩むって、若いうちにしかできない貴重なことなのよ」

 そういえば、遊佐さんも同じようなことを言っていた。悩めるのは最高の贅沢だったっけ。遊佐さんが言うと説得力がないのに、升形先生が言うと素直にストンと腹落ちするのはなぜだろうか。

 僕は口を開いた。

「大人になったら悩めないんですか……?」

「大人になっても悩みは付きまとうかもしれないけれど、本気で悩めなくなるの。理屈とか常識に囚われて、悩んでいるようで悩んでいない悩みしか持てなくなる。だから自分の気持ちを優先して悩めるのは子どもの特権よ」

 升形先生が片目を閉じて見せた。

「升形先生は、どうしてスクールカウンセラーになったんですか? いつスクールカウンセラーになろうって決めたんですか?」

 僕は矢継ぎ早に質問した。升形先生は嫌な顔をせず、調子を変えないまま答えた。

「スクールカウンセラーになろうって決めたのは、高校三年生の夏よ。仲のよかった友達が、中学生のときに高校受験に失敗してから家に引きこもるようになってしまったの。彼女は私と同じ高校を受験していて、合格したら一緒に学校に通えるはずだった。さっき、私が受験した年は定員がすれすれだったっていう話をしたわよね。たった一人、たった一人だけ不合格になったのよ。それが彼女だった。彼女は滑り止めで私立高校を受験していて、そちらの方には合格していたのだけれど、その高校には一日も通わなかった。私は彼女の家に何度も通って、彼女の部屋の扉の向こうから励ましたり、慰めたりしていたのだけれど、私の言葉は彼女に届かなかった。半年も経つと、私は簡単に諦めて彼女の家に通うのをやめてしまった」

 升形先生はそこまで一気に話すと、ぽってりとしたピンク色の唇を休めた。

 窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえてきて、廊下側からは女子生徒の笑い声が聞こえてきた。

 長い間が開けると、

「高校三年生の夏、彼女が自殺したの」

 その間が持つ意味を知った。大人になった今でも、升形先生には必要な間だったのだ。

「私は後悔した。私が簡単に諦めなければ、彼女が選ばなかった道かもしれないって考えたら、時間を巻き戻したい、と願うほどに後悔したの……。私が高校生活を無邪気に楽しんでいる間、彼女がずっと苦しんでいたのかと思うと、私は自分の薄情さを受け止められなくなり、鬱みたいな状態になってしまったの。そんなとき、担任の先生の知り合いのスクールカウンセラーを紹介していただいて、その方にお世話になった。そのスクールカウンセラーの先生は、普段は今の私みたいに、中学生の悩みごとを聞いて、相談に乗ってくれる人だった。その先生のおかげで私自身が救われたことと、彼女みたいにSOSを発信できない人は世の中にたくさんいるのかもしれない、今度は私の言葉でそういう子どもを救いたいって思ったとき、スクールカウンセラーになろうって決めたの。すぐに担任の先生に、スクールカウンセラーになるためにはどんな資格が必要なのか、その資格を取得するためにはどの大学に行けばいいのかを相談しに行ったわ」

 升形先生の声は凛としていた。

「心を閉ざしてしまっている人に対して、背中を押して勇気を与える人がいれば、背中を擦って慰める人もいる。手の差し伸べ方はさまざまだけど、私は後者の人間になりたいと思ってスクールカウンセラーを目指したの。立ち止まってしまった人の隣に座って、大丈夫、大丈夫って背中を擦ってあげられる人になりたいと思った。前者には、例えばスポーツ選手やアイドルとかになるのかな。自分が頑張っている姿を見せることで、その姿を見た人たちに勇気や元気を与える。とてもすてきな職業よね。私はプロ野球選手から、自分も頑張ろうと思えるエネルギーを貰っているわ」

 升形先生が笑った。白い歯が眩しく光っていた。

「私の夢は叶ったことになっているけれど、本当はまだなの。みんながみんな、水沢くんや大山さんみたいに、自分の悩みを口に出せる子たちだけじゃない。だから今の私の目標は、そういう子たちの言葉を引き出すこと。私も、まだ夢の途中なんだ」

 升形先生が言った。

「今本気で悩んでいる水沢くんには、家族だったり、友達だったり、先生だったり、誰の言葉が正しいのかがわからなくなることがあると思うの。色んな人から話を聞いたり、自分の考えていることを聞いてもらうことは大事だけど、結論は必ず自分の中から生み出してね」

 升形先生の言葉は、子守唄のように僕の中へと染み渡っていった。心の中で、何度も反芻する。

「大丈夫。あなたが本気で悩んで選んだ道に間違いなんてないわ。遠回りになることはあるかもしれないけれど、その寄り道はきっと特別な寄り道になるわ。間違いがあるとすれば、それは周りに流されて選んだ道よ。自分の人生は自分で責任をとってね」

 僕はどうして素直に「サッカーがやりたい」と言えないのだろうか。僕は一体誰に遠慮をしているのだろうか。

 結論は自分の中から生み出す。

 生み出せるだろうか。いや、生み出さないといけない。

 僕はとことん悩もうと思った。誰に何を言われても、自分の中から答えが出てくるまでとことん悩もうと思った。



 保健室に通うようになってから、僕は色んなことを考えるようになった。ときどき升形先生の言葉を思い出しては、それを指先でなぞった。

 今日もマリアは、ノートに漫画を描いている。

 マリアの描く物語はまだまだ終わりそうにない。彼らの旅は七つ目の街に辿り着き、メインキャラクターは五人に増えていたが、物語の序盤に張られていた複数の伏線はまだ回収されていない。

「お兄さんとは、あれからも連絡を取っているのか?」

 マリアと違って手持ち無沙汰な僕は、暇潰しとばかりに彼女に訊ねた。

「お父さんの目を盗んで、ときどき電話をしてるよ。昨日はギターで作った曲を聞かせてもらったんだ」

 マリアのお兄さんは、まだギターを続けていたのか。彼が武道館に立てることはおそらくないのだろうが、それでも続けている事実を嬉しく思った。

「マリアはピアノが弾けるんだよな?」

 僕は吹浦先生の言葉を思い出していた。

「うん。ピアノは幼稚園から教室に通ってるんだ」

「知らなかったな。吹浦先生が、合唱コンクールの伴奏をマリアに頼みたいんだって」

 ちらり、とマリアの顔色をうかがった。マリアは何も言わなかったが、シャープペンシルを動かしていた手を止めていた。

「やりたくない?」

 今度はこくん、と小さく頷いた。

「一年生のときは弾いたんだろう?」

 吹浦先生が言うには、マリアは一年生のときに課題曲と自由曲の二曲の伴奏をしたというが、僕はピアノを弾いたマリアのことを全く覚えていなかった。一学年たった三クラスしかないというのに、他のクラスに関心がなかったのだ。

「私の他に、ピアノを弾ける子がいなかったから」

「そうか」

「本当はいたんだけど、バレー部の子で、部活中に指を怪我しちゃって……」

「先生たちが、マリアのピアノが一番上手だったって褒めてたぞ」

「そんなの私にはわからない」

 マリアが困惑した表情で呟いた。

「オレはマリアが合唱コンクールでピアノを弾かなくてもいいけど、マリアのピアノは聴いてみたいな」

「普通だよ」

「今度、音楽室に潜り込もうぜ。それで、マリアのピアノを聴かせてくれよ」

 ええ、やだあ、とマリアが笑う。

 吹浦先生には悪いが、マリアが合唱コンクールでピアノを弾くかどうかは、僕には本当にどうでもいいことだった。むしろ弾かないでくれたらいいなとさえ思っていた。

「マリアは、きらきら星は弾けるか?」

「うん。弾けるよ」

 マリアがにこっと笑った。

 僕は頭の中で、マリアが奏でるきらきら星を想像した。マリアのきらきら星は、一番星のように眩しいくらい輝いているんだろうなと思った。

「それじゃあ、ドレミの歌は?」

「弾ける」

「ジャジャジャジャーンってやつは? 弾ける?」

「交響曲第五番のことかな?」

「へえ。あの曲って、そんな難しい曲名だったんだ」

「通称『運命』っていうの。作曲者のベートーヴェンは、冒頭のフレーズを、運命が扉を叩く音として表現しているんだって」

 マリアが机の上で両手を動かし始めた。マリアの白くて細い指が滑らかに動く。まるで氷上で踊っているようだ。

 僕の頭の中に、音楽が流れ始める。

 マリアの唇の先が、小鳥が餌を啄むように動いている。窓越しに見える桜の木に止まっている小鳥たちが、楽しげに歌い始める。気持ち程度に開けられている窓の隙間から、肌を撫でるような風が吹いている。

 僕の運命が始まる音は、一体どんなフレーズだろうか。

 真っ白なカーテンが楽しげに翻り、その風を迎え入れている。

 夏が始まる、と僕は思った。

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