第6話 三者面談

「……で、どこにするか、決めたのか?」

 僕の正面に座っている担任の吹浦先生が、苦虫でも潰したような表情をしていた。

 僕が机の天板を睨んでいる間、隣に座っている母は固唾を呑んで見守っていた。吹浦先生が人差し指で机を叩く音と時計の秒針の音が、僕らの代わりにお喋りをしていた。僕にはそれで十分だったが、大人たちはそういうわけにはいかないらしい。

 吹浦先生の手元に置いてある進路調査票はとても綺麗だ。迷っているなら迷っているなりに、書いたり消したりした痕跡が残っていれば少しはこの心の中身を映すことができたのかもしれないが、どうしてもこの紙の上だと手が動かなくなってしまい、それもできなかった。

「晴太っ!」

 せっかちな母が、声で僕の頭をバシンと叩いた。

「何をそんなに悩んでいるんだ?」

 吹浦先生が母に続いた。言葉の節々に苛立ちが混じっている。その質問に答えられるくらいならば、僕はきっと悩んでいない。僕の代わりに、少し気の早い蝉が答えていた。

 僕の面談時間はあと三分で終了だ。ありがたいことに三者面談はまだ続く。吹浦先生も僕にばかり構っていられないだろう。

「もう夏なのよっ!」

 母が叫んだ。まるで目の前で誰かが倒れる瞬間を見てしまったような悲鳴だった。

「そうだぞ。お母さんの言うとおりだ。何のために、この時期に三者面談をするのか、その意味がわかっているのか?」

 吹浦先生が顎の下で手を組み、机に肘をついた。

「夏休みを有意義に使うためだ。もっと真剣に考えろ。それに推薦入試の場合は、一般入試よりも早く動く必要があるんだからな。のんびりしていられないぞ」

 そんなことを言われても、夏休みには県大会がある。県大会を勝ち進めば東北大会だってある。この状態で、頭を受験モードに切り替えろというほうが無理なのだ。

 同じサッカー部の西袋優也は、部活を引退したら塾に通い始めると話していた。優也自身は乗り気ではないそうだが、親のほうが張り切って準備を進めているという。

 僕が答えないままでいると、吹浦先生が溜め息で降参を示し、その態度に母が焦ったように首を伸ばした。

「晴太! あなた、どうしちゃったのよ!?」

 母が嘆いた。

 そうか。周りから見たら、僕はどうかしているのか。進路を決められないって、そういうことなのか。

 自分では、変わったつもりはなかった。むしろ変わらないままでいた。もしかしたら変わらないということが、母を含め、大人たちにとっては不都合なのかもしれない。

「あまり母親を困らせるんじゃないぞ。晴太の兄ちゃんは、この時期にはしっかり志望校を決めていたぞ」

 吹浦先生の言葉に、

「そうよ。朗太はとっくに決めていたわよ!」

 母が頭を振って頷いた。

 吹浦先生は、兄が中学二、三年生のときも担任を務めていた。兄は市内で二番目に偏差値の高い進学校に合格したこともあり、母は吹浦先生を全面的に信頼している。

 自然と視線が下がる。ふと机を見ると、右下のほうに犬の落書きがあることに気づいた。鼻と口が離れているせいか、マヌケな顔に見える。マリアが描く犬とは大違いだが、これはこれで愛嬌があった。

 僕の結論が出ないまま三者面談は終了した。試合終了のホイッスルが鳴る代わりに、母が盛大な溜め息を吐いた。それが一番堪えた。言葉よりも態度のほうが、僕の胸をざわつかせた。

「晴太。お父さんが家に帰ってきたら、話し合いだからね」

 教室から出るなり、そう言い放った母は、スリッパの音を響かせながら廊下を歩き出した。僕は学生鞄を背負い直して、母が廊下の角を曲がって見えなくなるのを待った。母の足取りはしゃきしゃきとしていたが、僕の想像よりも動きが遅かった。

「晴太」

 突然、背後から声を掛けられ、驚きで肩が大きく跳ねた。いつの間にか、僕の真後ろに吹浦先生が立っていた。てっきり次の面談に向けて教室の中で待機しているものだと思っていたが、どうやら次の人がまだ到着していないらしい。

「な、なんですか?」

 まだ小言が続くのだろうか。こんなことなら、さっさと移動すればよかったと後悔しながら問い返す。

「最近、マリアと仲がいいよな?」

 僕の喉がきゅっ、と引き締まった。

「なんですか、いきなり……」

 吹浦先生の言葉の真意がわからず、心が身構える。背負っている学生鞄の肩紐を強く握り締め、次の言葉を待った。

「晴太に頼みたいことがあるんだ」

「おれに頼みたいこと?」

 手から力が抜けた。

「マリアに、合唱コンクールの伴奏を頼んでほしいんだ」

「伴奏……ですか? どうしてマリアに?」

 予想外の話の矛先に、強張っていた肩からも力が抜けた。

「担任としては、合唱コンクールには、クラス全員が参加してほしいんだよ。もちろん、マリアにも」

「その気持ちはわかりますけど、そもそもマリアはピアノが弾けるんですか?」

「俺は音楽に関してはてんでわからないが、音楽の清川先生が言うには、学年で一番上手らしい。それも他の生徒と比べて、頭一つ飛び抜けているとのことだ」

「へえ……」

 マリアは絵を描くのも字を書くのも上手だ。ピアノも上手いとなると、マリアの指先が生み出すものには、他人を惹き付ける何かがあるみたいだ。まるで、マリアが今描いている漫画の設定のように。

 僕は初めてマリアと会ったときに見た、桜貝みたいな小さな爪を思い出した。

「晴太から、マリアに頼んでみてくれないか?」

 吹浦先生が顔をぐいっと前に押し出してきた。充血している目が、言葉以上に、僕に強く訴えていた。

「話してはみますけど……期待はしないでください」

「ああ、それでいい。助かるよ」

 吹浦先生は廊下の壁に寄り掛かると、天井を見上げ、まるでたばこの煙でも吐き出すように息を吐いた。

「なあ、晴太。マリアは、どうして教室に来ないんだろうな……」

 僕も吹浦先生の真似をするように天井を見上げた。

 どうして吹浦先生は、僕に「知ってるか」と訊かないのだろうか。まるで僕が知らないことを端からわかっているように。

「吹浦先生! すみません! 遅くなりました!」

 突然、廊下の角から美波と美波の母が現れた。二人ともどこから走ってきたのか、額に前髪が張り付いていた。顔からは汗が吹き出している。

「いえ、大丈夫ですよ。お待ちしておりました」

 吹浦先生が廊下の壁から離れて背筋を伸ばし、さっとネクタイの位置を正してから教室の戸を開けた。

「本当にすみませんでした」

 まだ謝罪を続ける美波の母を促しながら、吹浦先生が教室の中へと入っていった。美波がちらりと僕を見てから母親の後に続いた。

 どこか遠くへ飛んでいったのか、いつの間にか蝉の鳴き声は止んでいた。



 いつもならば、空腹を理由に、部活が終わると足早に家に帰る。だが、部活が終わっても、母親の言葉が心に刺さったままだった。今の僕には、あそこ以外に帰る場所はない。逃げられないことはわかっているが、涼介を引き止め、三十分ほど雑談をしてから帰路に着いた。

 いつの日か、マリアが自分の家にいると息苦しいと言っていたことを思い出す。マリアもこういう気持ちだったのだろうかと思いながら、重たい足取りで家の中に入った。

「ハル。志望校、まだ決まらないんだってな」

 玄関で靴を脱いでいると、ちょうど二階から降りてきた兄が話しかけてきた。先に帰宅した母が、早速兄に三者面談の愚痴を零したのだろう。

「サッカーを続けないのか?」

 上がり框にいる兄が、まだたたきにいる僕を見下ろしながら訊ねた。

「わからない」

 僕は靴の爪先を外向きに変えないままリビングに入った。この時間帯、いつもなら台所で晩ごはんの用意をしているはずの母の姿がなかった。

「母さんなら、買い忘れた卵を買いにト一屋へ行ったぞ」

 僕の心を見透かしたように、兄が言った。

 ト一屋に行ったのなら、だだちゃ豆ごはんとかぼちゃコロッケも一緒に買ってきてくれないかな、と思ったら空腹が増した。僕は学生鞄をソファの上に置いて台所に入った。

 母は料理の途中で買い物に出かけたようで、まな板の上には細かく刻まれた青ねぎとさいの目に切られた豆腐、それから一口の大きさに裂かれた舞茸が乗ったままだった。さすがにガスコンロの火は点いていなかったが、照明は消し忘れており、換気扇も回ったままだった。

「おれは中学でサッカーをすっぱり辞めたクチだから、偉そうなことは言えないけど、高校の部活は中途半端な気持ちで上を目指せるほど甘くないぞ」

 兄がカウンターキッチンの向こう側から話しかけてきたが、換気扇の音のせいでその声はところどころ途切れて届く。

 母がこれから料理を再開することを考えると、晩ご飯が食べられるまでまだまだ時間が掛かりそうだ。僕は冷蔵庫を開け、中から食べきりサイズのヨーグルトを一個取り出した。それからキッチンの引き出しにしまってあるスプーンを取り出すと、ダイニングの椅子に腰を下ろした。

 我が家にはせっかくカウンターキッチンがあるというのに、このカウンターが食事用のテーブルとして使われたことは一度もない。カウンターテーブルには、パソコンにプリンター、固定電話機が堂々と居座っており、余っているスペースには新聞や郵便物が乱雑に積み重ねられている。そのせいで、リビングの中央にはダイニングテーブルが別に置かれている。このダイニングテーブルがなければ、涼介の家のように、テレビの前におしゃれなローテーブルとソファが置けるのではないかと思うが、それも場違いな気がした。

 隣の椅子の背もたれに、母のエプロンが引っ掛けてあった。僕は母がいない間にヨーグルトを腹に収めようと決め、味わう余裕もなく口の中に掻き込む。今は腹が満たされればそれでいい。

「学区内の学校に通う中学校と違って、サッカーを本気でやりたいヤツは、サッカーが本気でできる学校に集まる。サッカーの強豪校に進学しないなら、サッカーを続けるのは辞めたほうがいい」

 ヨーグルトを口に掻き込む僕を見守りながら、兄が言った。

「兄ちゃんは、高校生活楽しい?」

 僕はスプーンを動かす手を止めて訊ねた。

「ああ、楽しいよ」

「部活に入っていないのに?」

 スプーンに自分の顔が映っている。何とも情けない表情だ。

「学校は部活だけじゃないぞ。まあ、中学校は何かしらの部活に入らないといけない校則だったから、そういう考えになるのも仕方がないけどな。でも進学校だとさ、帰宅部の生徒が多いから、部活ってそんなに大事なものじゃないって思えるようになる。それに高校は自分と同じレベルの人間が集まりやすい場所だから、中学校よりも気の合うヤツが多くて、休み時間とか放課後に集まるだけでも十分に楽しいんだ」

 兄は中学校の部活を最後にサッカーを辞めた。兄の代は地区予選で敗退し、夏休みを迎える前に部を引退した。兄は中学二年生のときには、高校ではサッカーを辞めることを決めていた。当時小学校五年生だった僕は、

『どうしてサッカーを辞めるの?』

 と何度訊ねたかわからない。その度に兄は『高校生になったら勉強に集中したいんだ』と答えていたが、勉強が大嫌いだった僕にはその答えに納得がいかなかった。いや理解ができなかった。今なら少しだけ兄の気持ちがわかる。兄は自分に、サッカーの才能がないことを知り、さっさと他の道に進むことにしたのだと。

 僕と兄が二人とも小学生だったときは、毎日のように喧嘩をしていた。ゲームをすれば喧嘩をし、勝手におやつを食べた、食べられたと喧嘩をし、勉強の邪魔をしたと喧嘩をした。そのことでよく母に怒られ、二人で庭に放り出されたことも数えきれないほどある。

 僕と兄は歳が三つ離れている。小学生のとき、兄は僕よりも二回りほど体が大きかったが、僕はそのことに物怖じせず、兄に向かっていった。僕はいつも本気だった。本気で兄に勝つつもりで喧嘩をしていた。よく喧嘩をしながら泣いていた。髪の毛を掴まれたり、腕を殴られたりしたときの痛さよりも、勝てないことの悔しさで泣いた。そんな僕らの関係は、突然変わった。

 兄は中学生になると、何でも僕のことを優先してくれるようになった。ゲームはわざと手を抜いてくれるようになった。おやつは、先に僕に選ばせてくれるようになった。勉強は馬鹿にしないで教えてくれるようになった。

 僕が喜んだのは最初だけだった。まるで他人行儀みたいで、一ヶ月も経つと寂しさが上回った。母は『お兄ちゃんは、中学生になって大人になったのよ』と言っていたが、僕にはそう思えなかった。僕はもう一度、兄と取っ組み合いの喧嘩がしたかった。

「兄ちゃんは、もう志望校は決まったの?」

 兄弟なのに、今日まで訊けないでいたことを訊ねた。

 高校三年生の兄も今年受験生だ。そのこともあり、最近の母は情緒が不安定だ。僕が牛乳をテーブルの上に出しっぱなしにしていたり、ジャージを洗濯機に入れ忘れたりするだけですぐに怒り出す。かと思えば、ぐずぐずと泣き出す始末である。

「去年の夏には決まってるよ」

「将来の夢も決まったの?」

「まあな。そのために大学進学するわけだし」

 兄はあっさりと答えた。

 兄は小学生のとき、将来は宇宙飛行士になりたいと言っていた。だけどきっと、兄の今の夢は変わっているに違いない。

 突然、スマートフォンの着信音が鳴った。兄がズボンのポケットからスマートフォンを取り出して画面を確認した。彼女からのメッセージだろう、と思った。

 兄の口から直接彼女の話を聞いたことはないが、兄に彼女がいることは知っていた。兄が彼女と思わしき女性と並んで歩いているところをたまたま見かけたのだ。

 会話が途切れのを見計らって、椅子から立ち上がる。食べ終わったヨーグルトのカップをごみ箱に捨てる。リビングを出て階段を登り始めると、兄はまだ僕に話があるのか、ぴったり後ろをついてきた。

 僕は兄が将来何になりたいのかを訊かないまま、自分の部屋に駆け込むと、後ろ手で戸を閉めた。

 兄の足音は、僕の部屋の前でピタリと止まった。

 僕は戸に背をつけたまま、ずるずるとしゃがみ込んだ。

 兄の逡巡が、無音なのに僕の耳には届いていた。だが、兄が僕の部屋の戸をノックすることはなかった。

 兄の足音が遠ざかっていく。

 僕の悩みもどこか遠くへ旅立てばいいのに。

 僕は祈るように、立てた膝に額をのせた。

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