第3話 絆創膏

 僕はマリアが描いている漫画を読むために、昼休みにときどき保健室へ通うようになった。訪問回数を重ねるごとに保健室に対する緊張も解れ、保健医の五十川先生ともすっかり打ち解けていた。

 マリアは時間さえあれば漫画を描いているようで、二、三日間が空くと、一話分ほど話が進んだ。漫画ノートは早くも二冊目に入っていた。

 僕が予想したとおり、腕の特殊能力を持っている少年が仲間に加わった。その彼が怪我をし、「最後の天使」と呼ばれている天才医師に助けを乞うため、医療が発展している街に移動したところまで話が進んだ。

「こんなに面白い漫画なのに、読者がおれ一人だけなのはもったいないよなあ……」

 僕は最新話を読み終えると、椅子の背もたれによりかかり、不自然なほど真っ白な天井を見上げた。

「この漫画、インターネットに投稿はしないのか?」

 僕は、ふと思いついたことを口に出した。

「私は漫画を描くことが好きなだけだから」

 恥ずかしいよ、とマリアが首を横に振った。

「そうなんだ。マリアは謙虚だな」

 僕がマリアと同じくらい上手に漫画が描けたなら、一人でも多くの人に読んでもらいたいと望むのにと思いながら、

「あっ……」

 慌てて口を抑えたが、少し遅かった。マリアがシャープペンシルを動かす手を止めていた。

 世界は止まっているというのに、僕の心臓だけが動いていた。気がついたら口内に唾が溜まっていて、今にも弾け飛びそうな心臓の音に体が身震いした。

 マリアが瞬きをすると、世界が再び動き出した。

「……マリア、って呼んでもいい?」

 言いわけはできないと腹を括った僕は、開き直って訊ねた。心臓の音がうるさすぎて、僕の体は楽器のようだった。

 マリアと話すことに慣れてきたせいで、すっかり油断した。心の中では勝手に名前で呼んでいたことを知られたら、気持ち悪がられるだろうか。

 心臓の音に、体が支配される。

 マリアが、こくん、と小さく頷いた。

 僕はいつの間にか握っていた拳をゆっくりと開いた。指先がわなわなと震えていた。

「そういえば、まだ自己紹介をしていなかったな。おれは水沢晴太。おれのことは『晴太』って呼んでくれ」

 湿りを通り越し、もはや濡れている手を学生服のスラックスで何度も拭う。 

「晴太くん……」

 マリアが確かめるように呟いた。綺麗な声だった。

「はい、晴太です」

 答える声が震えた。体中がくすぐったい。

 マリアが口元に手を当てて、くすくすと笑い出した。

「私、晴太くんのこと知ってたよ」

「ええ? どうして?」

 マリアとは一年生のときは違うクラスだった。もちろん部活動も違う。接点は何もなく、これまで一度も話したことがないはずだ。

「壮行式のときに目立ってたから」

 マリアが口元に手をあてて、小さく笑った。

「ああ、それで……」

 合点がいった僕は、過去の自分の行動を思い出し、いたたまれなさに耐え切れず、重たくなった額に手を当てた。

 サッカー部は、僕たちの一学年上の先輩が一人も所属していなかった。そのため、僕が一年生のとき、当時の三年生が部活を引退すると、僕が主将に任命された。

 当時の二年生は最初から誰もいなかったわけではなく、三年生と折り合いが悪く、僕たちが入学する前に、全員でバレーボール部に転部してしまったのだという。

「あのときはびっくりしちゃった。決意表明の後に、いきなり勧誘を始めるから」

 マリアは背中を丸め、くすくす笑いながら言った。

「あのときは、正式な形で大会に出たかったあまり、必死だったんだ。まあ、先生からは怒られたんだけど……」

 三年生が部を引退して一年生だけになった僕たちは、新体制となる秋季の新人大会には出場人数が足りず、坂田第一中学校として大会に出場することができなかった。同じく出場人数に満たない、他の中学校と合同チームとして出場した。

 それが悔しかった僕は、今大会には間に合わないということがわかっていながらも、勧誘をせずにはいられなかった。マリアが言ったとおり、決意表明をした後に、部の勧誘をしたのだった。壮行式に参加しているのは、自分たちサッカー部だけではない。壮行式に関係のない話をしたことはもちろん、各部に与えられていた持ち時間を守らなかったことを、職員室に呼び出されてしっぽり怒られた。

 翌年、今の二年生たちが入部してくれたおかげで、それ以降は単独チームとして再び大会に出場できるようになった。

 自分にとっては、若気の至りと言いたいエピソードだ。よりにもよって、覚えていてほしくない僕のことを、マリアが記憶していたとは。

「それよりも、マリアって、どんな風に書くんだ?」

 話題を変えるために僕が訊ねると、マリアがペンケースから橙色のペンを取り出し、ノートの片隅に「真莉亜」と書いた。

「画数が多くて、テストのときに大変そうだな」

 僕の感想を、マリアがまたくすくすと笑った。

 僕は、借りるな、と断ってから、マリアのペンケースから赤色のペンを取り出すと「真莉亜」の隣に「晴太」と書いた。

「晴っていう字がすてきだね」

 マリアが僕の名前の上に太陽のマークを描いた。

「そうか?」

「うん。私、晴れている日の空って好き」

「おれも好きだ。朝、目が覚めて天気がいいと、今日も外でサッカーができるなあって思うんだ」

 保健室からは桜の木が邪魔しているせいで、窓の近くまで寄らないと空を見渡せない。いつの間にか、桜はすっかり散ってしまっていた。

「マリアは、どうして教室に来ないんだ?」

 僕はずっと知りたいと思っていたことをようやく口に出した。マリアのことを名前で呼べるようになった嬉しさが、僕の気を強くさせていた。

 途端、マリアの表情が険しくなった。

 あ、まだ早かったか。

 後悔したが、遅かった。マリアが僕に笑った顔を見せてくれるから、調子に乗ってしまった。無視されるだろうなと思っていると、

「教室にいると、息が苦しくなるの……」

 マリアが小さな声で答えた。

 まさか答えてくれるとは。僕が驚きで何も反応できないでいると、マリアが続けた。

「でも、家にいるほうがもっと息苦しいの……。だから、保健室に通わせてもらってる」

「教室や家が息苦しい……?」

「私のお父さん、無職なんだ。病気ではないのに、仕事をしないで毎日リビングでテレビを観ながらお酒を飲んでばかりいる」

 マリアが目を伏せた。

 僕の父は、毎日酒を飲むことはないが、仕事から早く帰ってきた日や休日の夜は、缶ビールを一、二本嗜む。おそらく人並み程度の摂取量だろう。

 父はアルコールが入るといつもより饒舌になるが、怒鳴ることも喚き散らすこともない。ただ少し陽気になり、年頃の男子中学生にとっては鬱陶しく感じるような絡み方をしてくる。それだけだ。

 マリアの手が動き始めた。

「私が中学一年生になった頃、それまで工場で働いていたのに、急に仕事を辞めて家に引きこもるようになった」

 シャッ、シャッと、シャープペンシルがノートの上を踊っている。

「私の家は共働きなうえに、お母さんのほうが収入が高かったから、お父さんが働かなくなったところですぐにお金に困ることはなかったみたいだけど、少しずつ家の中がおかしくなっていった」

 マリアが消しゴムを手に取り、描いた線のほとんどを消してしまった。消えていく絵の代わりに、消しゴムのカスがノートの上に重なっていく。

「お母さんは、お父さんが仕事を辞めた理由を知っているんだろうけど、それを私には教えてくれない。ただ『お父さん、疲れちゃったみたい』って、笑うの」

 マリアの手が、白いページの上で悩んでいる。

「お父さんが働かないだけならまだよかった。お母さんのおかげで、家のことはどうにかなっているみたいだから。でもお父さん、私のことに口を出してくるんだ。女は大学に行かなくていいって言ってるの。どうせ大学を卒業しても、すぐ結婚して家庭に入るんだから、大学に行かせるだけお金のむだだって」

 マリアは絵を描くことを諦めたのか、机の上にシャープペンシルを転がした。

「でもお母さんは、絶対に大学には行きなさいって言うの。今の時代、女も自分で稼いでいく必要があるんだって。それから、お金は私を自由にしてくれるものだからって……」

 投げ出されたシャープペンシルはペンケースにぶつかって止まった。

「お父さんとお母さん、私の進路のことでよく喧嘩をするようになった。何かと意見を対立させては口論をするようになった。結局、私の大学進学の問題は、掛かる費用は全てお母さんが賄うっていう条件で、お父さんの許可が下りたの」

 マリアが肩を小さく震わせ始めた。

「おかしいよね……? 私が大学に通うためには、お父さんの許可が必要だってこと。今の家計はお母さんが一人で支えているのに、それでもお父さんの顔色をうかがわないといけないの」

 僕が口を挟む間を与えず、マリアの話は続いた。

「お父さんとお母さんは中学校の同級生で、中学生のときからずっと付き合っているんだって。お互いに初めての彼女、彼氏だったから、お父さんはお母さんしか知らないし、お母さんはお父さんしか知らないの。それを純情だと言う人もいるけど、私は違うと思ってる。私はね、お父さんもお母さんも、他の誰かを見る努力を怠って甘えた結果なんじゃないかって思ってる」

 マリアが一度、息を吐いた。

「とくにお母さんは、お父さんと別れたら可哀想とか考えて、お父さんに同情をして関係をだらだら続けていたんじゃないかって思うんだ。世の中、学歴やお金が全てとは言わないけど、大学には、高卒のお父さんよりもすてきな男性がたくさんいたと思う。小さい頃、お母さんに、お父さんのどこが好きで結婚したの? って訊いたことがあるんだ。そのとき、お母さんはなんて言ったと思う?」

 僕の答えはどうでもよかったのか、僕が口を開く前にマリアは答えを言った。

「優しいところ、だって」

 マリアの声がすとん、と落ちた。

「そんなの、いいところが何もない人に対して使う言葉でしょう。優しさなんて、本来誰もが持つべきものだから。第一、今のお父さんのどこが優しいの? って、私は思う。お父さんは優しいんじゃなくて、他人にも自分にも甘いだけ。自分が楽をしたいから、そういう風にしているだけ」

 マリア。

「私、お父さんのことが嫌いなの。大嫌いなの。そんなお父さんを許しているお母さんのことも嫌いなの。大嫌いなの。自分の本当の親なのに、大嫌いなんだよ……」

 マリア。

「私、親から虐待を受けているわけじゃないのに、親のことを愛せないの。一緒にいられないの。一緒にいると息が苦しくなるの……」

 マリアが、右手で胸を抑えた。

「友達に対してもそうなの。教室の中で笑いながら喋っている友達を見ていると、息が苦しくなるの。大事なはずなのに、大好きなはずなのに一緒にいられないの……。羨ましくて、直視できないの。お父さんのせいで、私はあの子たちと同じじゃなくなっちゃった……」

 マリアが身震いしている体を自身で抱いた。僕よりも小さな体で、彼女はとんでもないものを胸に抱え込んでいるらしい。教室の隅に位置する空っぽの机は、本当はどの机よりも重たいのかもしれない。

「私が愛せるのは、その子だけ」

 マリアが僕の手からノートを取り、犬が描かれているページを開いて見せた。そして、そのモノクロの犬を指先で撫でた。

「その子って、この犬のこと?」

「ショコラっていうの。小さくて可愛いんだよ。いつか晴太くんにも見せてあげたいな」

 マリアが胸の前に掲げた両手で小さく円を描き、犬の大きさを表現した。勝手に成人くらいの大きさを想像していたが、まだ子犬のようだ。

「この子ね、空き家の庭に捨てられていたんだ。出会った頃は衰弱しきっていて、布切れみたいに薄っぺらだった」

 マリアのノートの上で、犬が走り出す。短い舌を出しながら、体全体を揺らして自由に駆け回っている。

「私はこの子がいるから、あの家で生きていられるの」

 マリアのその言葉は少し大げさな気がしたが、僕は何も言わなかった。

「おれも最近、親と上手くいってないんだ」

 僕はマリアに感化されたように、心の裡を打ち明けた。

「おれがいつまでも志望校を決めないでいるから、母さんは怒ってばかりなんだ。父さんはおれの味方のフリをしながら、実は無関心なだけなんだって気づいてる……」

 両親は決して不仲ではないが、最近少し喧嘩が多くなったように感じる。その原因を作っているのは、紛れもなく僕自身なのだが。

 マリアが、僕の目をじっと見ていた。

「おれは家にいるのが窮屈なときは、部屋から抜け出して外を走るんだ」

 祈るような強い力で、僕を見つめていた。

「星を見ながら走っていると、頭の中が空っぽになるんだ」

 本当はサッカーボールを蹴られるのならばそれが一番なのだが、さすがに夜にボールを蹴っていたら近所迷惑になるだろう。

 僕は手に持っているノートに目を落とした。僕が夜に外を走るように、マリアはノートに漫画や絵を描いているのだろうか。

「マリアは将来、漫画家になりたいのか?」

 僕も祈るような気持ちで、マリアを見つめ返した。

「別にそういうわけじゃないの……。自分で読みたい漫画を自分で描いてるだけ」

「そうなんだ……」

「それなら晴太くんは、どうしてサッカーをしているの? 将来、プロの選手になりたいからなの?」

「別にそういうわけじゃないけど……」

「それと同じ」

 マリアが口元に手を当てて、ふふっと笑った。

「確かに」

 僕もその笑顔に引っ張られるように、ははっと笑った。

 将来なんて関係ない。やりたいからやっているのだと考えたら、気持ちがふっと軽くなった。

「マリアには、将来の夢はある?」

「……あるよ」

「本当に? 何になりたいんだ?」

 僕は思わずマリアのほうに身を乗り出した。

「秘密」

 悪戯を思いついた子どものように、マリアが目を細めた。

「どうして秘密なんだ? 喋って減るものでもないし、教えてくれたっていいだろう」

「私の心は擦り減るよ。それに恥ずかしいもの……」

「恥ずかしいものになりたいのか?」

「そうじゃない。何になりたいと思っていることを、他人に知られることが恥ずかしいの」

 そこまで言われてようやく僕は、これ以上の詮索は諦めた。マリアの口からはっきり「他人」と言われてしまったことも少し悔しかった。

「晴太くんには夢がないの?」

 マリアが遠慮がちに訊ねてきた。

「うん。だから参考にしたくて、マリアの夢が気になったんだ」

 僕の返答に、マリアが黙り込んだ。

「もうすぐ三者面談があるだろう。さっきも言ったけど、おれ、まだ志望校が決まっていないんだ」

 僕は天井を眺めた。

 今朝もそのことで母から小言を聞かされていた。誰々くんは何々高校、誰々ちゃんは何々高校、とどこから仕入れてきた情報なのかは知らないが、他の家の話ばかりする。僕がスマートフォンを買ってほしいと強請ったときは、よそはよそ、うちはうちと言っていたくせに。

「マリアは志望校も決まっているのか?」

「志望校はまだ決まってない……」

「そうなんだ。将来の夢は決まっているのに、志望校は決まっていないなんて、ちょっとおかしいな」

 僕がくすくすと笑うと、

「晴太くんの言うとおりだね……」

 マリアも小さく笑い出した。

 みんな、どうやって志望校を決めているんだろう。僕はクラスメイトどころか、親友の涼介にさえ訊いたことがない。もうみんなとっくに決めてしまっているのではないかという不安から、誰にも訊けないでいる。

 いつかマリアの夢を知りたいと思いながら、僕は予鈴と同時に椅子から立ち上がった。

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