第4章 イザナミのように穢れ


     1


 控室にいるが、落ち着かない。

 寥爾りょうじがそわそわ落ち着かないからかもしれない。

「時間まで席を外していいでスか」寥爾が言う。

 どこに行くつもりなのか。

 行く場所は一つしかない。

「まだ会えてないんだっけ?」

 寥爾のオリジナルとなる天才博士の息子。

 実際は息子ではない。

 でも博士がそう言うのならそれは世界の真理となる。

 会ってどうするのか。

「顔を見たいというのは理由になりまセんか」寥爾が言う。

 好きにすればいい。僕にはそれを止める理由も権利もない。

 僕がしなければいけないのは、寥爾の主治医という役割だけ。

 ドアがノックされた。

 すんませ~ん、という間の抜けた声付きで。

 財団の関係者ではない。ノックはするだろうが、用件を言って入室してくる。

「どなたですか」恐る恐るドアの前に立つ。

 ドアには鍵がかかっている。無理矢理蹴破られなければいまのところ安全だ。

 寥爾には部屋の奥に行くよう合図した。

「どなたって言うか~。ん~、なんて言うかな~」知らない男の声だった。「ちょっと確認したいことあって~。出てきてもらえません?」

「まずは名前と身分を名乗っていただけませんか」

「岡田っす」ドアの向こうが即答した。「北廉ホスガ先生に雇われて人捜ししてるってゆうか~。ま、そんな感じ?」

「えとり君ですか? それとも」

「ん? 他にも北廉先生ってのがいんの? 親父さんかお袋さんとか?」

 その言い方からするとえとり君で間違いないだろう。北廉先生と会っていたなら、息子または娘という反応が返って来るだろうから。北廉先生は一見若く見えるがあの独特の大御所の雰囲気が年齢をぼかすので。

 えとり君が関わっているのなら会っても構わないだろうか。

 いや、でもしかし。

「あなたが本当のことを言っている証拠がない」

「そりゃそーだ」男がケラケラと笑う。手も叩いている。「んじゃあね~、開けずに本題言っちゃうことにするわ。開けたくなったら遠慮せずにってね」

 いなくなったのは、後磑ユリウス博士を取材する許可を財団から得た唯一のメディアを編集する部署の担当者。

 行万ユイマ究跡さだあと

 名前に心当たりがない。

「その反応だと知らなそーだね。参ったな~。俺の勘だとこのあとの記念講演がくさいってゆうか~」

 ドアの向こうの男――岡田の推理だと、担当者はいなくなったわけではなく確かめたいことがあった。

 その確かめたいことのために、記念講演には必ず姿を現すのだと言う。

「悪いことは言わない」岡田の声が急に真剣みを帯びる。「講演は見送ってここでじっとしてたほうがいいよ」











     2


 昼休憩を終えて、メイン会場のホールに移動する。

 すでに席はほとんどが埋まっているが、財団関係者以外はここにはいない。

 財団側が用意してくれてあった最前列の真ん中のブロックの中央に座る。

「撮影はいいんでしょうか」前姫チカヒメさんが言う。初日のようじさんの講演を撮影禁止にしたことを気にしている。

「内容によってはね。そのときは指示するから」

 結佐ユサ先生は仕事で来れないと連絡が入った。律儀でも丁寧でもない。これ以上巻き込むなという防衛だ。

 周囲が暗くなる。

 ステージに明かりが灯る。

「皆様、皆様、皆々様! お待たせいたしました」事務局長が弁舌滑らかにマイクを持った。「本総会もいよいよ残すところ3講演のみとなりました。まずはユリウス博士の育ての親、万里マデノ先生の。え? 来てない? 聞いてないよ、わたくしは」

 会場がざわざわと波立つ。

「申し訳ございません、段取り不足で」事務局長が袖をちらちら見ながら言う。「はいはいはい、急で申し訳ございませんが、急遽順番を変更して、2番目の。え? 大先生も来てない? どうなってるんですか」

 会場の波立ちが激しくなる。

「先生、なんとかなりません?」事務局長がステージから僕を見ている。

 会場がピタッと静かになる。

 前姫さんがじっとこちらを見ているのを感じる。

「僕はもう話しました」

「いやぁ、そこをなんとか」事務局長が手を合わせる。

「じゃあ僕が話シまシょうか」ようじさんのニセモノがステージに現れた。「順番が早まるだけでスので」

 黒い髪。黒い眼。白衣。

 遠目で見れば、よく知らなければ、同一人物に見えるだろう。

 初日と同じ、もしくは初日以上の歓声が上がる。

「ありがとうございます、皆様もね、待ち望んでおられるようですので、わたくしはこのへんで」事務局長が後ろ歩きをしながら袖に消えた。

 ニセモノは、名を名乗った。

 後輪シスワ寥爾りょうじ

 いままさに話し始めようとしたとき。

 ステージに、黒のパーカーを目深にかぶった男がよじ登って。

 ニセモノに体当たりした。

 最初に気づいたのは、前姫さんだった。カメラを構えていたから一番よく見えたのだろう。

 赤黒い液体が床に落ちた。

 ひどく頭が冷えたのを憶えている。

 ああ、ここに。

 艮蔵カタクラ先生がいたら。

 ニセモノは助かったのに。

 財団関係者が二人を囲む。

 すぐそこに救急対応病院がある。

 サイレンが聞こえる。

 男が警備員と背の高い男(のちに岡田さんだとわかった)に取り押さえられる。

 入れ違いでニセモノが担架で運ばれて行った。

 男がニセモノを刺した。

 警察に連れて行かれる時に男の顔が見えた。

 あなたでしたか。

 行万ユイマさん。








     3


 会場に戻ってから気づく。関係者以外入れなかった。

 でも先生にこっそりヒントをもらっていた。

 会場は大学なのでそもそも正門以外にも入口がある。

 そっちに回ったらあっけなく敷地に入れた。滅茶苦茶遠回りになったけど記念講演会場に忍び込めた。

 関係者みたいな顔するのは結構得意。

 関係者の会話を盗み聞きして控室の場所を突き止めた。

 ご丁寧にドアに名前が貼ってあった。

   後輪シスワ寥爾りょうじ様 控室

 ノックのあとに俺が全然怪しくないことを伝えた。

 そしたら話を聞いてくれた。

 時間までここで大人しくしてくれることになった。

 部屋にも入れてもらえた。

 優しげで神経質そうな男の後ろに、眼つきのちょっとだけ悪い若者がいた。

「えーと? 彼が秘密兵器?」若者と眼を合わせて言った。

「どういうことか説明してもらえますか?」男が言う。多少冷静さを欠いているようだった。

 椅子を借りて座る。

 俺が入った後、男がドアの鍵を閉めたのを確認した。

「いなくなった担当者はっすね。ユリウス博士に会いたかったわけなんすよ。それはもう喉から手が出るくらいにね。そのために取材してたわけなんすから。今日の機会を逃すわけがないんすよね」

 控室は、簡素なテーブルに椅子が二脚。メイク用の鏡台と、ユニットバス。それとトイレ。

 正面に座る若者は、10代後半かそこら。若く見えるし実際若い。ノーネクタイに白衣を羽織っており、研究者のようにも見える。

 比べて保護者のような眼鏡の男は、違和感のないスーツ上下。40代くらいだろうか。職業当てをするとおそらく医師。白衣が似合いそうという心許ない直感ではなく、この場にいておかしくない職業をピックアップしたらそのくらいしか残らなかった。大きなお世話だがとても親には見えない。主治医の線が強い。

「申し遅れました。私は、彼の主治医をしております、逆灘サカナダ覚史さとるしと言います」

 もらった名刺には、呪文のような肩書があった。

 財団あかいにしん立環境人格研究所邦内最年少世代分室室長

「専門は小児科です。どうぞよろしく」

「すんませ~ん、俺名刺切らしちゃってて~」

「持ってないならそう仰ってください」逆灘医師が言う。「彼のことはいいですか。あまり」

「見ればわかりますよ。ユリウス博士のコピーかなんかすかね」

「コピーでも、クローンでもありません。次世代のユリウス博士として彼は造られました」

 根が深そうなので掘らないことにした。この場では重要事項じゃない。

「彼が記念講演の場に立つと、何か問題があるのですね?」逆灘医師が言う。

「命の危険がありますね、率直に言って」

「その、行方側ならなくなっている記者が、彼に危害を加える恐れがある?」

「わかってもらえて光栄っすわ」

 逆灘医師はなかなか話が早い。

「できないと言ったら?」逆灘医師が言う。

「壇上で刺されるとしちゃっても?」

「彼のいわばデビュー、初のお披露目の場面なのです。この場を整えるためにどれだけ」

「でも死んじゃったら元も子もない」

「あなたが守って下さったらいいのでは?」逆灘医師が言う。「会場への立ち入りを許可します。バックステージにも入れるよう後でパスを」

「いやぁ、だからそれじゃ守れないから言ってるんすよ」

「守る自信がないということですか」逆灘医師が言う。

「それもあったりなかったりなんすけど、うーんとね、むざむざ死にに行く必要は」

「ステージで命を落とセば、ソれはソれで印象深いのでは?」若者が言う。

「いやいやいやいや、ちょっとちょっと」

「命を落とサなくても、名誉の負傷ならどうでスか」

 正気かどうか尋ねる権利は俺にはなさそうだった。

 彼らは本気だ。

 じゃあ俺ができることは、行方不明者が現れたときに逃がさないこと。










     4


 総会前日23時。

 通話記録より抜粋。


 荷電者:夜遅くに申し訳ないです。

 受電者:明日の打ち合わせなら朝にしてください。

 荷電者:明日私は行けません。

 受電者:理由を聞きます。

 荷電者:行けない理由が出来たからです。

 受電者:もう一度しか言いません。理由を聞きます。

 荷電者:お願いですから理由を問わずに行かせて下さい。

 受電者:この時間に電話をかけてきた理由とつながりますか。

 荷電者:明日行けないことを謝りたくて。

 受電者:謝りたいくらいなら明日来て下さい。あなたがいなければ誰が。

 荷電者:私の代わりはいくらでもいます。見込みのある新人も入ってきたことですし。

 受電者:その新人と自分を比べた末の愚かな決断ではないですよね?

 荷電者:私にはどうしてもやらなければいけないことがあるんです。

 受電者:なんですか? 止めませんから教えてください。

 荷電者:博士のニセモノのことはご存知ですか。

 受電者:存在くらいは。

 荷電者:私は彼の正体を突き止めました。彼は存在してはいけない。

 受電者:あなたが何をしようとしているのか想像がつきました。明日付き添えないことも承諾します。

 荷電者:ありがとうございます。

 受電者:あなたの記事、けっこう好きだったんですけどね。











     5


 帰りの車。後ろに付いていた北廉ホスガ先生は早々にいなくなっていた。他にも寄る場所があるのだろうか。

「追いかけたほうがいいか」

「とっくに見失ってるのに?」ようじが眼を瞑ったまま言う。

 疲れたのか助手席の背もたれを限界まで倒して寝転がっている。

 ようじはそのあと眠ってしまった。眠ったように見せかけただけだったかもしれない。

 自宅に戻ったのは深夜。

 明日は出勤日なので早めに休みたくはあったのだが。

 ようじが眠そうだったので自宅に泊めた。自宅に上げたことはあっただろうか。

 そして、俺が起きるといつもお前はいない。

 総会とやらをのぞいてみるか。

 いや、俺には俺の仕事がある。

 昼過ぎ。

 救急で担ぎ込まれた患者の顔を見てゾッとしたが、これは別人だ。

 他人なので執刀もできた。

 出血も大したことなく、穴も殺意の低い抉り方だった。

 自分でやったにしては刺しづらい位置。

 警察が様子を見に来たので参考になりそうなことを答えた。

 犯人はその場で現行犯逮捕。

 場所は総会会場のステージの上。

 何が起こっている?

 ようじから電話が来た。

「お前いま」

「無事だから叫ばないで」ようじが先手を打った。「無事だし、遠くには行ってない」

「どうせ国内にはいる、程度の距離だろ?」

「研究所。昼休憩に来ていいよ」

「昼ご飯買ってこいってことか」

「要らない。総会も全部どうでもいい。次に狙われるのはあづまだから。一緒にいたいだけ」

 狙われる?

「I・Bだよ。姉さんのコピー」

「なあ、お前の姉貴って」

「いる場所は知ってる。でも姉さんが合いたいって思わない限りは会わないって決めたから」

「連絡先は」

「いま大丈夫なんだっけ?」

 場面展開の合図。

 誰にも聞かれないように外に出た。建物の陰に腰を落とす。

「なんだ?」

「さっき俺のニセモノが運ばれてったでしょ?」

「なんでも知ってるな」

「俺に知らないことはないよ」ようじが無感情に言う。「助けてくれてありがとう。彼に死なれると財団の計画が頓挫するから」

「まずったな。失敗しとけばよかった」

「そうだね。先に言っとくべきだった」

 沈黙。

「財団がやろうとしてることに、お前の抹殺とかないよな?」

「俺の命は俺で守れるけど、あづまは」

「なんでそこであいつが出てくるんだ?」

 あづまは、厳密にはようじの息子でもなんでもない。

 ようじの姉の息子で、俺の親父の息子だ。

 俺の胎違いの弟。

「あづまにも、I・Bが見える」ようじはそう言って電話を切った。

 掛け直しても応じてくれなかった。

 財団がやろうとしてるのは、“都合のいい”ようじの創造ではないのか。

 嫌な予感がしてきた。










     6


 結局、総会の記念講演は2人が欠席、1人は壇上で負傷した。

 万里先生は受付だけして無断で名古屋に帰ったとかいう噂。

 父さんは行方知れず。病室にはいなかった。

 ようじさんのニセモノは、艮蔵先生が穴を塞いでくれた。命に別状はないってやつらしい。

 事務局長は、自分の首が飛びかねない内容の総会だったために別れ際は蒼い顔をしていた。

「なんとかなりません?」

「僕の口添えなんかであなたの首がつながるなら」

「なんかなんてとんでもない」事務局長が拝むようなジェスチュアをする。「お願いしますよ? もう、先生だけが頼りで」

 財団の車が走り去るのを見送る。

 これにて、総会終了。

 17時。

「あの、私もこのへんで」前姫さんが頭を下げる。「本当に3日間ありがとうございました」

「記事まとめるの? 紙面ができるの楽しみにしてるよ」

 運営に雇われたバイトが片付けをしている。持ち込んだ機材の撤収、会場案内のポスターを剥がして回る。床掃除の邪魔になりそうなので外に出た。

「はい、眼を通していただけると励みになります」

 前姫さんは何か言い残したような顔をしていたけど、先客が待っていたので無視して編集部に帰した。

「俺が見つけたってわけじゃないから報酬は遠慮すべき?」岡田さんが大学の正門の外にいた。

 行万さんは、ようじさんのニセモノを消すために会場に潜んでいた。

 凶器を手から離させたのは、岡田さんの機転だ。

「ちょっと歩きましょうか。行く場所があるので」

 大学から徒歩5分の距離に、大学と提携を結んでいる病院がある。実質、大学の附属病院。

 正親オオギ病院。

「どっかの部外者の独り言だから聞き流してくれていいんだけどさ」岡田さんが僕と眼を合わさずに言う。「全部知ってた人、ここにいない?」

「何のお話でしょうか」僕は岡田さんと眼を合わせようと思った。

 向こうが逸らしているので相変わらず合わない。

 僕のお気に入りの遊歩道は、病院の裏につながっている。

「全部知ってて見逃したりとかなかったかな~って思ったり思わなかったり?」

「証拠を出せとか野暮なことは言いませんが、どうしてそう思ったのかは知りたいですね」

 逸らしていた眼で射られる。

「先生に見通せないことってないっしょ? そんだけすわ」

 さすがは伝説の名探偵のお遣いだけのことはある。

 なかなかの直感力だ。

「自作自演とは言いませんが、先生には彼が何をしようとしてるかわかっていた。わかっていた上でやらせた。やらせたというのは正しくないすね。やっていいと許可を出した。なぜか。それが面白そうだったから」

 病院の裏口に到着してしまいそうだったので、足を止めた。

「いまのお話が面白かったので報酬はお支払いしますよ。相場がわからないのですが、お幾らくらいでしょうか」

「ここまでの交通費と滞在費だけで結構すわ。聞いちゃいけないことまで聞いちゃいそうで」

 口座に送金して、岡田さんとはそれで手切り。

「捜しているもの、見つかるといいですね」

「あんれ? 俺のこと言いましたっけ?」岡田さんがとぼけたような顔をする。

 手切り金のやりとりも済んだあとなので、お互いのことはこれ以上深入りするなということだろう。

 病院の裏口から入る。

 救急科の詰所をのぞく。

 看護師が目敏く僕を見つけて持て成そうとしたけど適当にかわして、手術中ランプがついているか確認する。こちらのほうが早い。

 ついていればそこにいるし、ついていなければそこにいない。

 ついていない。

 面倒くさい展開になってしまった。さっき適当にかわしたスタッフに居所を尋ねないといけない。電話をするほどの緊急事態ではないので。単にふらっと訪ねてきただけなのだが。

 ようじさんのところだろうか。

 それとも今日はもう上がったか。

 疲れた。

 あづま君のところに行こう。










     7


 仕事が終わったのでお姉ちゃんに電話した。

「お疲れ様。急な仕事だったんでしょ? 大丈夫だった?」

 お姉ちゃんはいつも優しい。

 先輩がいなくなって、仕事を急に変わらなくちゃいけなかったことは伝えてある。

 というか真っ先に愚痴った。

 先輩は警察に逮捕された。編集長も事情聴取で忙しいと思う。私のところにも順番に警察が来るだろう。

「そう、大変だったわね。今日はゆっくり休むのよ」お姉ちゃんが言う。

「いまのバイト辞めるかも」

「かぐやちゃんがそう決めたならそれでいいのだけどね」

「ゆっくり考えろってこと?」

「そうね。いまはいろんなことがあったばかりだし、もう少しゆっくりしてもいいかもしれないわね」

 お姉ちゃんの助言が間違ってたことはない。

「わかった。そうする」

 ところで。

「お姉ちゃんてさ、双子の弟っている?」

「どうしたの急に」

「わたしのバイト先で特集してる博士のことなんだけど」

「かぐやちゃん。ごめんね、いまは言えない」

 いまは言えないてことは。

「そのうち教えてくれる?」

 変にごまかしたり嘘ついたりしないところがお姉ちゃんらしい。

 でもその言い方だと、関係があるって認めたようなもの。

 じゃあやっぱり。

 博士のお姉ちゃんて。

 うきょうお姉ちゃんは、わたしの本当のお姉ちゃんじゃない。本当の、てのは生物学上のていう意味。お姉ちゃんはわたしが小さい頃に、養子として前姫家に来た。

 私は一人っ子だったから、お姉ちゃんができたのが嬉しかった。例え血がつながってなくてもお姉ちゃんはわたしのお姉ちゃんだった。

 前姫家に養子に来た経緯は知らないけど、お姉ちゃんの本当の両親がお姉ちゃんを育てられないってなったんだって聞いた。虐待ってやつだろうと思う。

 本当の両親の傍にいるのが一番いいけどそれで幸せになれないなら離れるべきなんだろうと思う。実際その立場になってないわたしが決めることじゃないけど。お姉ちゃんは自分で決められたんだろうか。

 お姉ちゃんはいつも笑顔。

 悲しそうな笑顔のときもあるし、寂しそうな笑顔のときもある。

「わたしに話してくれなくてもいいけど、もし話して楽になるならいつでも聞くからね?」

「ありがとう。かぐやちゃんがその雑誌のバイト始めたってときは運命なんじゃないかって思ったけど。向き合うときが来たのかもしれないわね」

 いつもの帰り道。

 なんかちょっと違った景色に見える。

「かぐやちゃん、今夜時間ある?」











      8


 あづま君は研究所にいた。相変わらず、すやすや寝てた。

 ようじさんととしきさんもいた。

「なんですか。二人揃って」

「後ろめたくないなら別に問題ないんじゃない?」ようじさんが言う。

 そんな言い方しなくても。

「僕はただあづま君に会いに来ただけです」

「見ればわかるよ」ようじさんが無感情に言う。「えとり君、インバイ見えてる?」

「知ってることを聞かないで下さい」

「ちょっと会話するからそこで見てて」

「俺は?」としきさんが言う。

「どっちでも」ようじさんが優しげな口調で言う。

 僕にだけ。

 いつも厳しい。

「呼ぶよ」

 なにもあづま君が寝ている部屋でやらなくても。

 あづま君が寝ているベッドが部屋の中央に。

 冷蔵庫の冷却と時計の短針が打ち合わせなしのセッションをする。

 要は、それほど静かな部屋ではないということ。

「何の用かしら」インバイが出てきた。

 見た目は20代前半。栗色の髪は肩にすれすれ。なぜか僕の母校(高校)の制服を着ている。

 としきさんには見えていない。聞こえていない。

 見えるのも聞こえるのも、僕とようじさんだけ。

 宙空に浮きながら、短いスカート丈を気にも留めない。

 不快だ。

「俺が持ってるもの、命とあづま以外全部あげるから消えて」ようじさんが言う。

 インバイの高嗤いが脳を締め付ける。

「本当に何も要らないの?」インバイがようじさんに顔を近づける。

「目障りなんだ。姉さんの姿を真似て」

「じゃあ別の女にするわ。それで解決でしょ?」

「俺の頭から出てけって言ってる」ようじさんが強い口調で怒鳴った。

 インバイは天井を蹴って、床に下りてきた。

 ようじさんの正面に立って、いやらしい目つきでようじさんの肩に触れる。

「じゃあ私と寝てよ。そうしたら」

「それはできない」ようじさんが食い気味で言う。

「私と寝るとゾンビになるから? あは、ひっどーい」インバイが莫迦にしたように嗤う。「みんな死んじゃえばいいの。死んだように生きればいいの。先生だって、私の望みに応えてくれた」

「望みって? 俺ら全員を呪い殺すこと?」ようじさんが敵意をむき出しにする。

 珍しい。

 ようじさんにしては全然余裕がない。

「どうやったら消えてくれるの?」

 泣きそうな顔にも見えた。

 僕のケータイが振動した。前姫さんだった。

「いいわよ。出れば?」インバイに言われなくても。

「なに? 緊急かな」

「あの、すみません。お忙しいところ」前姫さんが言う。「いまお時間て大丈夫ですか」

「短時間なら」

 断ればよかったな、と一秒後に後悔した。

「ありがとうございます。あの、前に博士のお姉さんが私のお姉ちゃんに似てるって話」

「結論からでいいよ」

「あ、はい。お姉ちゃんが先生に是非話がしたいと言ってまして」

「なに? そこにいるの?」

「はじめまして」電話口の相手が代わった。「あなたがえとり君ね。いつも弟がお世話になってます」

 弟?

「そこにいるのかしら。ようじ」

 インバイの姿が一瞬霞んだように見えた。

「スピーカーにしてもらえる?」

 言う通りにした。

「ようじ。元気してた?」

「え、姉さん?」

 インバイの輪郭がビリビリと歪む。心なしか苦しそうにしている。

「姉さん? なんで? 会っちゃいけないって」

「言ってたのは誰? もういないでしょ。誰の命令にも従う必要はないの。ようじ、その共通幻覚は消せるわ」

「姉さんが犠牲になるんでしょ? そんなの」

「違うわ。それはね、あなたが私に会いたいあまり創り出した」

 違う!

 ようじさんが被り気味で叫んだ。

「違う。違うよ。なんで。なんでそうなるわけ?」

「あなたの想いが強かったのね。でももう大丈夫。今日は無理だけど、来週末、そっちに行くわ。だからもう一週間だけ我慢して。あなたの苦しみはそれで終わり」

 嘘だ。

 ようじさんの口がそう動いた。

 としきさんが心配そうな顔で見守っている。

「えとり君。あなたにも見えなくなるから。安心していてね。ありがとう。かぐやちゃん、もういいわ」

「すみません、急に。あの、そうゆうことらしいんで。それでは、失礼します」

 電話が切れた。

 通話終了のツーツーという音が無慈悲に響いた。

「なにそれ」調子を取り戻したらしいインバイが鼻で嗤う。「そんなことできるわけないでしょ。可哀相に。また騙されるのね、ようじ」

 ようじさんは何も言わない。

 それが気に入らなかったのか、インバイの姿が見えなくなった。

 完全に消えたわけじゃない。

 またふとしたタイミングで出てくるだろう。

 来週。

「ようじ、大丈夫か」としきさんが声をかける。

「えとり君。前姫家の人間と知り合いだったの?」ようじさんが訊く。

「ええ、まあ。臨時的なものですけど」

「なんでこんな」ようじさんが自分の額に手を当てる。

「説明してくれ」としきさんが言う。

「会っちゃいけないことになってた姉さんから急に連絡があった。姉さんがインバイを消してくれるって。そんなこと」

「できるわけない?」

「わかんない。俺にもわかんないや」ようじさんが力なく嗤う。

 ようじさんがふらつく足取りで部屋を出て行ったのを、としきさんが追いかけて行った。

 ここには、

 あづま君しかいない。

 隣に寝そべった瞬間にあづま君の眼が開いた。

「起きてた?」

「うるせえよ」あづま君が眉間にしわを寄せる。

「インバイは君にも見えるんでしょ?」

「インバイ?」

「ふしだらな女」

「母親名乗ってる奴なら」

 厚かましいにもほどがある。

「なんだよ」

「あきれたんだよ」

 あづま君の手を握った。

 あったかい。

「ねえ、僕もあっためてくれる?」

「そうゆうことしねえほうがいいんだろ?」

「ようじさんが言ってるだけじゃん。それともしたくないだけ?」

「する意味がわかんねえだけ」

「意味なんかないよ。ないんだ」

 なんかこんな会話。

 死ぬ前のあづま君としたような気がする。

 気のせいだ。

 これは、

 あづま君であってあづま君じゃないんだから。

 でも結局流されてくれるのがあづま君に似てる。

 ようじさんたちは帰って来なかった。

 夜。

 今日は泊まってもいい?

 疲れちゃったんだ。すっごく。






     9


 そんな簡単に消せるわけない。

 絶対に姉さんが犠牲になるだけ。

 そんなことさせない。

 俺がぜんぶ終わらせる。

 だから見てて?姉さん。






     10


 一週間後の土曜日。

 姉さんが研究所に来た。

 I・Bは。

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天才博士の作り方―How to DlErect Dr. Julius― 伏潮朱遺 @fushiwo41

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