第3章 ヘーラーのように嫉み
1
月刊リ=プリンキピア 20××年6月特別号 巻頭特集より一部抜粋
博士の名を知らない者が、何を誤ったか、たまたま本誌を眼にして手に取ってくれたものとして本稿をしたためている。毎月本誌を楽しみにしてくれている愛読者にとっては、既知の常識が並ぶものとしてご容赦願いたい。
通称・ユリウス博士。
博士が天才と称されるのはその若さで成した業績に依るものだけではない。
博士には光がある。
博士には輝きがある。
博士の足跡に触れればそれがわかる。
斯く言う記者は直接相見えたことはない。
中略
博士の近影
博士は現在国内にはいない。世界各地を飛び回っている。
何のために。
次の論文のための現地調査であると推測される。フィールドワークのようなものだろう。
何を調べているのか。
財団に聞き込みを重ねた結果、おぼろげな手掛かりを得ることができた。
キーワードは呪い。
呪いに関わる人、物、文化を探しているらしい。
探してどうするのか。
これは長年博士を追い続けている記者の想像でしかないのだが、博士は呪いを解除する方法を探しているのではないだろうか。
博士の行き先を唯一把握している財団の関係者には止められたが、実際に空港で博士を迎えようとしたこともある。直接取材を申し込むためだ。
結果から言うと博士に会うことはできなかった。財団の関係者から情報が流れたのだろう。
なぜ博士に直接取材を申し込めなかったのか。
本誌の取材は財団に唯一認められた公式なものだ。それを回避する必要はない。
博士が拒んだのだろう。
拒んだというよりは、調査に集中したいがために、まだ取材の時期ではないと受け取った。
ではその時を待とう。
調査目的や内容が明らかになった暁には、本誌で真っ先に取り上げようと思う。
期待されたし。
記者 行万究跡(ゆいま・さだあと)
2
長距離移動1日目。
8月4日12時。
あのくだらないシンパ会とどっちがマシだったろう。
ひたすら高速道路を万里の可もなく不可もない運転で移動し、辿り着いたのは山に囲まれた田舎の一軒家。
駐車場、庭付き二階建て。周囲にもぽつりぽつりと似たような規模の家が建っている。
塀に横付けして万里がエンジンを止めた。
駐車場には軽自動車が止まっている。
「万里先生ですか」家から50代くらいの女性が出てきた。
化粧気のない、素朴な印象の女だった。
「お久しぶりです、先生」万里は深々とお辞儀した。「アポなしで申し訳ない。お昼時でアレですが、ちょっとお話よろしいですか」
私も自己紹介した。万里との関係はぼやかして。
庭木はそこそこ整えられている。松と楓の合間を歩いて玄関へ。
「どうぞ。何もないところですが」女が言う。
表札に出ていた名前は、
誰だ?
「お邪魔します」万里が靴を脱ぐ。
どことなくカレーの匂いが漂う。一番手前の部屋がリビングだった。物が最低限しかない、簡素な家具のみ。つい自分の家と比較してしまう。
「どうぞ。そちらにかけてください」小新田がダイニングに向かう。「よろしければお昼をいかがですか?」
「ああ、お構いなく。でももらえるのならいただきたいです」万里が手を合わせる。
テーブルは四人用だったので、仕方なく万里の隣に座った。
「誰なんだ」小新田に聞こえないように万里に囁く。
「自己紹介がまだでしたね」小新田が茶を持って近づいてくる。「小新田は旧姓です。
朔世?
まさか。
「
朔世先生といえば、精神科の領域にいれば知らない者はいない。精神医学の権威。専門は、凶悪犯罪者の治療。
ちなみに私の師匠の専門は凶悪犯罪者の更生であり、性犯罪者の更生を使命としている私の専門分野とも重なる。
「申し訳ない」万里が頭をかく。「道すがら一緒に来てしまったもので」
悪いのは私ではないので私は謝らなかった。
シンパ会場は雨だったが、こちらは曇り。そのうち降るのかもしれない。
「昨日作った残りですが」小新田がカレーを持ってきた。
「ちょうどお腹が空いていたところです」万里がスプーンを持ちながら言う。「いただきます」
「私は少なめでいいです」
実は昼食は適当に済ませていた。万里はそうでもなかったのか、小新田に気を使ったのか不明だが。
「私も一緒に食べてよろしいですか」小新田が万里の向かいに座る。「さっきまで掃除をしていて」
しばらく無言でカレーを食べた。
ナスとトマトのチキンカレーだった。少し辛めだったが味は悪くなかった。
少ない量にしてもらったので必然的に私が一番食べ終わるのが早かった。食器をシンクに運んで、タブレットをいじって待っていた。
「お口に合いましたか?」小新田が言う。
「ごちそうさまでした」
「美味しいですよ。二日目のカレーは最高ですね」万里が大げさに言う。
全員が食べ終わって、小新田が茶を淹れ直してくれた。
温かい煎茶。
「お話はなんでしょうか」小新田が言う。
「
「私に聞かれても」小新田が困った顔を浮かべる。
「先生はまだ先生を?」万里が訊く。
「そうですね。辞めろと言われない限りは」小新田が答える。
小新田は数学の先生なのだと万里が注釈をくれた。
「祥嗣先生は元気ですか?」万里が言う。
「どうして私に?」小新田が言う。
「僕はすべて知ってます。何も誤魔化さなくて大丈夫です」万里が言う。
小新田が湯のみを触る。
「それに先生や祥嗣先生のことを脅かそうという気はありません」万里が言う。「祥嗣先生は僕の恩人です。先生がいたからいまの僕がある。祥嗣先生が苦痛を感じているのであればそれを取り除く手助けをしたい。それだけなんです」
小新田が湯のみを握る。
「先生」万里が食い下がる。
「席を外しましょうか?」
たぶん、私が部外者だから。
「先生」万里が言う。
「そのためにわざわざいらっしゃったんですよね」小新田が言う。「先生が
小新田が朔世先生の元妻だというのなら、祥嗣先生の元義姉ということになる。
ところで、朔世先生はいつ離婚したのだろう。
公に個人情報を出していない人なので、家族についてはほぼ知られていない。下衆の勘繰りをする輩もいないわけではないが、朔世・祥嗣兄弟については一種の禁域的な雰囲気があった。触る者皆祟られる。
「先生は祥嗣先生を守るために朔世先生と結婚して、そして離婚した。僕は知っています」
「言いふらすおつもりですか」小新田の敵意のようなものがちらついた。
「そんなつもりはありません」万里が言う。「僕が今知りたいのは一つです。祥嗣先生がどこにいるのか」
「私に尋ねる理由がわかりません」
「朔世先生のお墓の場所も教えてもらいたいですね」
小新田が立ち上がった。その勢いで湯のみを引っかけてしまい、お茶がこぼれた。
火傷はしなかったようだが、こぼれたことに対し小新田の反応が遅かった。その代わりに万里が布巾でお茶を拭きとった。
「あ、すみません」小新田はようやく気づいたみたいだった。
「朔世先生が亡くなっていることは、僕を含めごく一部の人間しか知りません」万里が言う。「いま生きている祥嗣先生が朔世先生のフリをして、あたかも二人とも生きているように見せかけていることも同様です。僕は何もこの事実を明るみにしようとしているわけではないんです。祥嗣先生の心に負担がかかっているのが」
「いないことを知らせるほうが、残酷だとは思いませんか」小新田が感情を排した声で言う。
「いないことはとっくに気づいていますよ」万里が言う。「気づいていて戻れなくなっているだけです。もう無理をしなくてもいいと僕はそう伝えたいだけで」
「無理なんかしていないと思いますよ」小新田が言う。「二人とも、もともと一つだったんです。ほら、なんかの神話か寓話にあったでしょう? 男女というのはもともと一体だったのを、神様が半分に割ったのを。それなんですよ、あの二人は。もともと同じ体だったのに、あまりに仲が良かったから、神様が嫉妬して二つに別れさせられた。それだけのことなんです」
なんの、
話をしている?
朔世先生がすでに死んでいて?
祥嗣先生が兄のフリをしている?
男女がもともと同じ体?
朔世先生と祥嗣先生は両方とも男だろう?
一卵性双生児で。
「僕の見立てだと、いま祥嗣先生はだいぶ厳しい状況にある」万里が言う。「それこそ仕事なんかできないくらいに。祥嗣先生を守れるのはもう先生しかいない。とするなら、先生が祥嗣先生を介抱していると考えるのが自然ではないですか」
一体何の話をしているんだろう。
本当にこれは、トップシークレットなのではないだろうか。
「席を外したほうが」万里に小声で言ったが。
万里は黙って首を振った。
「聞かないほうがいいだろ?」
「困ることは何もないですよ」万里が平然と言う。「それに、先生なら悪いようにはしないでしょう?」
なぜこの男は初対面同然の私をそこまで持ち上げるのだ?
同じ師を仰ぐ者同士の信頼だろうか。そんなものがあるとは思えないが。
むしろライバルでは?
「2階に上がってもよろしいですか?」万里が立ち上がりながら言う。
小新田は何も言わない。
万里はそれを承諾の意と取ったらしく、玄関付近の階段をゆっくり上がる。私も付いていくことにした。
部屋は全部で3つ。
一番手前が洗面所とトイレ。
左の部屋は鍵がかかっていた。
残るは奥の部屋。ここも鍵がかかっていたら部屋の主に開けてもらう必要がある。
「たぶんここです」万里がドアノブを回す。
部屋を開けた途端に風が通過した。
窓側にベッドがある。
包まれた白に、人間が寝ていた。
「祥嗣先生」万里がベッドサイドに膝を付ける。「お久しぶりです」
やせ衰えた男? いや、女? どちらにでも見える。
これが、あの祥嗣先生?
実際に会ったことはないが、少なくとも写真で見た姿とだいぶ隔たりがある。眼鏡の有無が理由だけではない。祥嗣先生に満ちていた覇気の一切が失われている。すべてが剥がれ落ちた空っぽの抜け殻。
「先生」万里が呼びかける。
浴衣のようなゆったりとした寝巻から細い腕が伸びる。その手を万里が支えた。
「だ、れ」祥嗣先生の口が微かに開いた。
「万里です、先生。ご無沙汰しています」万里が手を握りながら言う。
「までの、くん?」祥嗣先生の瞼が痙攣する。
「そうです。先生に会いに来ました」
祥嗣先生の眼がなかなか開かない。薄っすらとは見えているのかもしれないが。
いつからこんな状況だったのか。
万里の言うように仕事なんかできる状態ではない。
「経口摂取はできていますか?」ドアにもたれかかっている小新田に訊いた。
「調子がいいときは」
「悪いことは言わない。一刻も早い入院を勧めます」
「ですよね」小新田がよろよろと床に座り込む。「もう、どうしていいのかわからなくて。でも入院なんかしたら翏紫くんにも翳冬にも迷惑がかかるし」
「私の伝手がある病院なら先生たちのことが知られることはありません。優先すべきは命です」
なるほど。
それで万里は祥嗣先生を探していたのか。
「先生、いいですね?」万里が最後の確認をする。
「お願いします」小新田が思い詰めた様子で頷いた。
万里が祥嗣先生を担いで車に乗せる。移動するだけでなぜ7人乗りのバンにする必要があったのかようやくわかった。2列目に祥嗣先生を寝かせて、3列目に私と小新田が座った。
「住所、お願いできますか」万里が言う。ナビに入力するのだろう。
「移動に4時間ほどかかります」小新田に伝えた。
「構いません。翏紫君を助けてください」小新田が祈るように言った。
先に病院に連絡した。
特別個室を空けておいてもらわないと。
「ね、付いてきてよかったでしょう」万里がエンジンをかけながら振り返った。
付いてきて、じゃない。
まんまと付いてこさせられた。
国立先生。
あなたの弟子は相当に意地が悪い。
3
月刊リ=プリンキピア 20××年7月号 インタビュー記事より抜粋
財団あかいにしん 事務局長 ジョージ=J=暇冴(かるざえ)氏に問う
某日、財団あかいにしん本部を訪れる機会を得た。
財団関係者でないと足を踏み入れることは叶わない。
当社は財団が認めた唯一の外部メディアである。
本部ビルの3階にある来客室。
事務局長は5分ほど遅れてやってきた。
記者:貴重な機会をいただき感謝いたします。
暇冴氏:遅れてごめんごめん。聞きたいことは?
事務局長の暇冴氏はいつも忙しそうにされている。
結論から望むのも無理はない。
記者:博士の次の論文についてです。
暇冴氏:空港で会えてないんだっけ? 生憎こちらでもつかめてないんだよね。
正直驚いた。
財団が資金面のバックアップをしている以上、世界を飛び回っている博士の目的を把握していないとは。
記者:質問してはいないんですか?
暇冴氏:訊いて教えてくれるならわかってるよ。過程は重要視してないから。
記者:結果つまり論文が完成すればどこで何をしようが問わないと?
暇冴氏:私をつついても収穫はないよ。先にメールで伝えたはずだけど?
事前にそのような内容を受けてはいた。
しかし事務局長のいつもの謙遜の一環だと思ったのでアポを取り付けたわけだが。
暇冴氏:無意味に終わった?
記者:知ってそうな方はいますか?
暇冴氏:私たちが把握していなくて一体誰が把握できるんだろう。
記者:
病気療養中で面会謝絶なのでそもそも望めない。
事務局長は記者の質問が的外れだと気付き何も言わなかった。
記者:財団から連絡を取ることはできませんか?
暇冴氏:君まだ会ったことないんでしょ?
4
同日17時過ぎ。
馴染みの病院に着いた。
点滴ではなく、鼻から栄養を入れる必要があった。
小新田は処置中ずっとベッドサイドを離れなかった。
私の患者ということで、スタッフには不要な個人情報を集めないように言いつけた。
「家族が寝泊まりすることもできますので、どうぞ付き添ってあげてください」小新田に伝えた。
小新田は祥嗣先生の手を握りながら、ずっと泣きそうな顔を堪えていた。
病室を出ると万里が待っていた。
「ありがとうございました」万里が白々しく言う。「いやあ、先生がいなかったらいまごろどうなっていたか」
「単に違う病院に連れて行っただけだろ?」
「いやいや、いろいろとややこしいことになってたので。ありがたかったです」
万里が奢ると言って聞かないので、ホテルのスイーツビュッフェに行った。本来は予約しないと入れないのだが、懇意にしているので飛び込みで2席用意してもらえた。
18時。
「遠慮せずにどうぞ」
万里もそれなりの量を食べている。
「好きなんじゃないか?」
「あ、わかります? 実は甘いもの好きで」万里が言う。「先生がお好きなのでよくホットケーキ焼くんですよ」
万里が甘いものが好きなことと、国立先生がホットケーキが好きだからよくホットケーキを焼かされているのはまったくもってつながらない。
嫌味か。
「とりあえず初日のミッションはうまくいきましたね」万里がチョコプリンをつつきながら言う。
「何の話だ?」
「最終日には帰りたいですが、僕はまだやることがあるんです」
「付いて来いって言ってないか?」
「先生さえよろしければ」
「何をしに行くんだ」
周囲はほぼ女子。たまにカップル。我々もそう見えていないといいが。ホテル側には私が既婚者だと知られているので。まずい。いや、そうではないのだから堂々としていればいいのだ。
今日会ったばかりの他人なのだと。
「僕にはもう一人、終わりにしていいと言ってあげないといけない人間がいましてね」
「誰なのか先に言ってもらいたいんだがな」
「先生もよくご存じの人ですよ」万里が微笑む。
それ以上は聞くなと言うことだ。
「また私をお前のミステリィツアーに連れ回すのか」
「ですから、先生さえよければ」
あくまで私の意志の下、連行しようとしている。
移動は明日することになったので一旦解散となった。わざわざシンパ会合に参加するために神奈川まで行ったのに、長野を経由して、また名古屋に戻ってきた。
家に帰るよりも職場のほうが休めそうだった。万里がどこで夜を明かすかは知らない。どうでもいい。
疲れた。
職場の留守を預けたパートナに三度見くらいされたが、事情を説明するのが面倒だったので適当にあしらって自室のソファに寝転がった。
国立先生。
どこからどこまでがあなたのシナリオ通りでしょうか。
翌日6月5日6時。
ほとんど眠れなかった。早起きしたわけではなくてほぼ起きていた。
万里から連絡が来ていた。1時間も前に。
準備ができたら名古屋駅まで来て下さい。そこで待っています。
仕方がない。
毒を食らわば皿まで。国立先生が行けというのなら地獄の果てまでお伴するのみ。
7時。
「おはようございます」万里は運転席で目元を緩ませた。
レンタカーなので返しに行かないといけない。
またロングドライブか。
「先生から言われてるのか?」鎌をかけてみた。
「先生? ああ、先生ですか?」万里はどの先生かすぐに思い当たったようだった。
私の先生はただ一人。
「僕は僕のやりたいことをやらせてもらっているだけですよ」
「私を連れ回しているのは?」
もともと万里を監視する目的で付いていったのだったが。
まさかシンパ会合の裏で、業界の文字通り裏側体験ツアーになるなんて。
「先生が僕にあまり良い印象を持たれていないのは知っています」万里が言う。「それでも一緒に行っていただけるのは心強いです。身内の恥を見せるようになっているのが心苦しいですが」
神奈川に戻るのかと思えば、岐阜。高速道路を降りて5分ほど。
一見すると設立目的のわからない近代的な建築。研究所というよりは美術館に近い。屋上に駐車場があった。入口が上階にある構造は自分の職場と同じ。
同じ?
「先生とは関係ないですよ」万里が車を降りながら言う。
雨が降っている。
傘は一本。万里が譲ってくれた。
8時過ぎ。
「強いて言えば、先生の
ユリウス博士か。
こんな目立つ建物を堂々と。しかも先生のお膝元の隣の県に。
入口は3階にあった。
自動ドアが開いてすぐ、意外な人物が迎えた。
「お久しぶりです、万里先生」
「あいつらはまだか」万里が言う。
「ええ、ですからここで待っています」
上下濃いグレイのスーツ。先生のためにあつらえたような高級感。
北廉先生が私を見る。
もっと冷たい無機質な人物像を想像していた。
違う。
これは。
「実際にお会いするのは初めてだったかと思います。国立先生の弟子の瀬勿関と言います。専門は性犯罪者の更生です」
世の中のあらゆる事象に関わりすぎて逆に感情が疎かになっているだけだ。
「はじめまして。北廉天儀です」握手を求められたので。
応じたが。
存外小さな手だった。
「先生方さえよろしければ朝食でもご一緒にいかがですか?」北廉先生が言う。「味は保証しかねますか」
2階に下りるとキッチンスペースがあった。
カウンタの奥がキッチン。手前が4人掛けと2人掛けのダイニングテーブル。
北廉先生は上着を脱いで腕まくりをする。エプロンをしてキッチンの奥に消えた。
「僕も手伝いますよ」万里がキッチンに入ろうとしたが。
「先生方のお手を煩わせるわけに」北廉先生が首を振る。
なぜ私はこんな、先生の敵の本拠地で、先生の敵の一派の作った料理を食べる破目に?
結局、万里がほとんど手伝った。なぜほとんど手伝ったのがわかったのか。
メニューがホットケーキだったから。
「やはり美味しいですね」北廉先生が言う。
「よかった。久しぶりに作ったから」万里が言う。「先生も遠慮せずに」
万里は国立先生のためにホットケーキを焼いている。
国立先生が美味しいと言ったから。
「チョコシロップがないな」わがままを言ってみた。
「申し訳ない」北廉先生が言う。
スープとミニサラダ付き。
味は悪くない。
国立先生が気に入るのもちょっとだけわかる。ほんのちょっとだけ。
片付けも万里がやった。
北廉先生と対角線の位置で二人っきりにされても。
「ここはよう、じゃなかった、ユリウスの研究所なんです」万里がコーヒーを持ってきた。「といっても本人はほぼ足を運びませんが」
「何の研究を?」
「先生のご専門と多少重なりますが」万里が向かいに座る。「僕は説明をするだけですから、気を悪くしないで下さいね。重大事件を起こした、治療不可能な未成年を連れてきて生活させるんです」
「数を減らすの間違いでは?」
「さすがご存じでしたか」万里が肩を竦める。「最後に残った一人を処分する係がいたんですが」
「治療が必要そうですね」
「別の部署に異動になりました。彼の希望です」
北廉先生はゆっくりコーヒーを飲んでいる。
研究所が存在することは知っていたし、最後に残った一人を処分する係とも面識があった。
ユリウス博士の研究所と聞いた時点で、ここがそうなんだろうと予想がついていた。
もぬけの殻ということは、あの“非人道的な”研究は中止になったのか已むを得ない事情で頓挫したのかのどちらかだ。
ユリウス博士の研究を中止させられる権限のある同業者は存在しない。
「ところで万里先生はどのようなご用件で?」北廉先生が言う。
「地下で祥嗣先生が療養していたのを知っている」万里が言う。身体ごと北廉先生のほうを向いた。「先生なら無事だよ。いま瀬勿関先生の病院で治療してる」
北廉先生が万里を見てなんらかの感情を示した。
なんらかの、というのは。一瞬すぎてわからなかったわけではなくて。
あまりに沢山の感情を滲ませたのでにわかにはすべての感情を判断できなかったから。
「もう先生が独りで抱え込むことはないんだ」万里が立ち上がって言う。「こうなる前に手を打ちたかった。遅くなってすまない。もう大丈夫だから」
「先生は無事なんですね」北廉先生が言う。
「ああ、無事だよ」
北廉先生はありがたがっているわけでも、感謝しているわけでもなかった。
起こっている事象を受け取って、すぐに返しただけ。
「小新田先生のところに行ったんですね」北廉先生が言う。
これも事実確認をしているだけ。
感情のやり取りはない。
「先生は何か言っておられましたか」北廉先生が言う。
「祥嗣先生を助けたいという思いは一緒でしたよ」万里が言う。
「そうですか」
北廉先生がいま抱いている主たる感情がわからない。多すぎるのと絶えず別の感情が行ったり来たりしているのとで。なかなかこうゆうケースは少ない。会話に入れないので北廉先生の分析をしているしかないが。
しないほうがよかったかもしれない。
分析をして後悔した人間は初めてだ。
闇のように底深いかと思えばそこには何もない。分析するだけ徒労だったと思わされるが、おそらくそれが狙い。自分の奥底を掴ませまいとしている防衛装置。ならば私はその奥へ進むべきか。
「安心して引退してくれていい」万里が北廉先生に言う。
「祥嗣先生の後を継がないといけませんので」
「別に先生がやらなくとも」
「私がやりたいのです。他の方に譲りたくない」
「迷惑してる人がいるとしてもかい?」万里が言う。「誰も止めないし止められないだろ? 俺が出しゃばるしかないんだ」
「昨日、ユリウスが引退を発表しました」
「だろうな」
「ご存知でしたか」北廉先生が言う。「ユリウスと違って、引退したところで私には何もない。私の生涯の仕事とさせてはくれませんか」
「息子を巻き込まないのが条件だな」
「私はあれを愛しています」
「理由にもなってないし、それを免罪符にもできない」万里が首を振る。「君の息子を、えとり君を解放してやってくれ」
北廉先生が黙った。
重い沈黙というよりは、優先して考えるべきことがあって口を閉ざしただけ。
「えとり君を大切に思うなら距離を取ったほうがいい」万里が言う。
「そうしたら、誰が私の傍にいてくれるんでしょうか」北廉先生が口を開く。
「無理にそばにいさせる必要はないよ」
「無理にいてもらった覚えはないのですが、先生にはそう見えてないようですね」
万里が3つのカップにコーヒーを継ぎ足す。
「自分で気づくかと思って放っておいたのが裏目に出た」万里が椅子に戻ってから言う。「やっぱり誰かが止めなきゃいけなかったんだ。願わくば俺じゃないことを願ったが、生憎と俺しか残ってなかった」
当てにしていた人間はみんな死んだ、みたいな口調に聞こえた。
「やはり先生はユリウスの父親ですね。よく似ている」北廉先生が言う。「このあとユリウスにも同じことを言われそうです」
「やめるつもりがないのはなんでだ? そこにしがみつかないと消えてなくなるのか」
「なるほど。そうかもしれません。私は自分が消えてなくなるのが怖い」
奥底が浚えない。掴んでも指と指の間からこぼれ落ちる。
北廉天儀先生の核の部分が見つからない。
私が突き止められない核なんかあるものか。この私がだ。
いや、違う。逆だ。
核がない。もともとないから見つかるも何もない。
北廉天儀には核がない。核のない人間が個を保つには、そっくりインストールするしかない。真似て、化けて。外部から人格を、人生を、存在意義を取り入れる。
じゃあ、北廉天儀は。
誰を取り入れてここにいる?
「話してわかる領域を超えてるのか」万里が言う。
「私は間違っているとは思いません」北廉先生が言う。
平行線というよりは、そもそも言葉が届いていない。言語体系の異なる別の生命体間で意思を統一させようとしているようなものだ。
「困ったな。手土産もなしで帰れないんだが」万里が頭をかく。
9時半。
「先生は、私に静かに隠居しろと言っているのでしょうか」北廉先生がそう言うと。
上方に視線が動いた。
なにも、
ないはずの空間に向かって。
ぶつぶつと会話をしている。
職業柄見慣れないわけではないが。
万里が黙って見守っているので敢えて口は挟まなかった。
「彼女はこちらに来いと言いますが」北廉先生が万里を見た。
「やっぱりいるんだな?」万里が北廉先生とその上の空間を見比べる。
誰が、
いるのか。
それが、
北廉天儀がインストールした人格なのか。
「このまま引退すれば朔世先生と同じ道を辿ります」北廉先生が言う。「私はこのまま彼女と共に逝くわけにいかない」
「えとり君を巻き込まない方法でならな」万里が言う。
「あれを導かなくとも大丈夫なのでしょうか」
「元より先生の息子じゃないだろ? その義務はない」
先ほど名前が挙がっている北廉干支利というのは、北廉天儀の息子の名前だったはずだが。
先生の息子ではない?
「私はあれを息子と思っています」
「そう思うのは自由だが、縛らないでやってくれ。彼が飛び降りを繰り返すのは先生が強く縛りつける反動だろうから」
飛び降りを繰り返す息子?
治療対象じゃないか。
「先生には心苦しいお話かと存じますが」万里が私に言う。
「入院中なのか?」
「していた時期もありますが、いまは服薬で落ち着いています」万里が言う。「病気療養中の北廉先生の代理をしっかり務めてくれていますよ」
病気療養中?
「そうゆうことになっています」北廉先生が言う。「周りが大げさなだけですよ。私はすぐにでも大学に戻りたい」
「そのまま引退したらどうだい?」万里が真剣な口調で言う。「大学にいなくても先生の力を必要としている機関や団体は山のようにある」
「どうしても私を大学から遠ざけたいようですね」北廉先生が言う。「ああ、そうか。そうすれば物理的にあれと離れることになりますね」
北廉先生は自分の息子をあれと呼ぶ。
異常というよりは、感覚が麻痺しているほうが印象としては近い。
空になったカップを万里が満たす。私はお代りを断って水をもらった。
「インクルーディング・バイオリティ。I・Bのことだが」万里が切り出す。「彼女の
北廉先生の眼線が上に。
口が動く。
そこにいる何者かと会話をしている。
幻聴の類ではなくて、何かがいる。
幻視を伴う幻聴?
「先生」万里に呼びかけられる。「遺伝性の幻覚ってありますか?」
「幻覚が世代間で遺伝するということか? 私が知っている症例では見たことはないな」
「とある女性の姿で、ひたすらに宿主を苛む呪いを吐き続ける。その女性はユリウスの双子の姉の姿を取っています。北廉先生もとい、朔世先生の血を引く男に代々受け継がれる呪いです」
「事例研究として興味を引かないわけではないが、博士か?」
「世界中を渡り歩いて研究し尽くした結果、呪いは解除されないことがわかったそうです。せめて世代間で受け継がれないようにと画策したようだが、ダメだったようで」
そんな幻覚が存在するかどうかはともかくとして、ユリウス博士の核となる研究はこれか。
とすると国立先生と競っていたはずの分野は片手間研究だったということになる。
無性に腹が立ってきた。
「先生も見えるのか?」万里に言った。
「僕は養父なので。会えるものなら会いたいですけど」
その後もアイコンタクトのような会話が北廉先生と万里間でなされたが、万里が求めているような結末になっていないことは確かだった。その証拠に万里がなかなか帰ろうとしない。
「財団の野望にはもう関わらないでくれるか」万里が言う。
もうコーヒーは尽きた。
お手洗いに行きたくなったので失礼する。案内板が出ていたのですぐにわかった。
どうすればゴールなのかがよくわかっていない。
北廉先生はこのあとここで誰かと待ち合わせをしているみたいだった。なので万里が連れ帰ろうとしているわけではなさそうだ。
万里が言っていた「終わりにしていいと言ってあげないといけない人間」は北廉先生のことだったのだろう。
北廉先生が終わりを受け入れれば、万里は納得して帰るのか。
終わり、とは。
昨日の例と比較するなら、頑張ることをやめること。無理を押し通さないこと。
お手洗いから戻ったが、相変わらず会話は続いていた。
「ようじのコピーはもう創らないんだな?」万里が言う。
「創ったとて、ユリウスの空けた空洞は埋まりません。最初からわかっていたことでした」北廉先生が言う。「いま学会に参加している個体が最後です。最後にして最高傑作になりました」
クローン実験でもしているのだろうか。
これまでで一番不可解な内容だった。
5
取材メモより抜粋
財団あかいにしんは博士のコピーを作っている
見てしまった
博士かと思って話しかけたら別人だった
さしすせその発音がうまくいっていない
あれはなんなのか
事務局長からの回答はない
ないということがむしろ確証となる
コピーを作る意味
博士に成り代わる?
博士は処分されるのか?
まだ会ってもいないのに
財団に行かないと
6
6月6日。学会3日目。
午前中がそれぞれの会場での発表。
午後はメイン会場での記念公演が3本。
3日目が前日二日と大きく違う点は、学会員と財団関係者以外が参加できないことにある。学生も一般参加者もシャットアウト。より専門性が高いといえば聞こえはいいが、狭く深くある一点に突出した内容となる。
財団が唯一認めた外部メディアであるリプリ記者の前姫さんは特別に許可されたが、岡田さんは。
「仕方ないよ~」岡田さんが言う。「願わくば何も起こらないことを願うけど?」
8時半。
大学の正門前。
岡田さんとは学会が終わり次第落ち合うことになった。岡田さんはその間、行万さんの動向を自己流で捜してみるとのことだった。
「縁起でもないけど、行万さんは生きてると思う?」前姫さんに言った。
「え、それは」
「僕の予想を言うと、行万さんは自主的にいなくなったんだと思う。リプリに載せる重要な記事の手がかりを掴んだんじゃないかな? それで、待ち望んでいた学会よりも優先した」
「学会よりも優先される特ダネってありますか?」前姫さんが言う。
人が吸い込まれていく講義室に釣られて入った。特段その発表者の研究が気になったわけではない。3日目はどの研究もある意味縁遠い。言い方は悪いがどれも五十歩百歩なのでどれでも構わなかった。
「特ダネ」前姫さんがぶつぶつ呟く。「特ダネですよね」
前姫さんは自分で思考を切り替えて取材に戻った。写真を撮りながら手元の資料にメモをした。
発表者には悪いけど、ほとんど聞いていなかった。右から左に抜けて行った。
午後の記念公演に父さんが参加するのかが気になって。
ようじさんの公演は初日に終わっているので、別の三人。
ようじさんの育ての親の万里先生、父さん、もう一人。
最後の一人がプログラム上では伏せられている。誰なのか。父さんより後ろのトリ。もともとトリはようじさんだったのではないだろうか。ようじさんがわがままを言って初日に変更になった穴に誰かを宛がったとしたら。
ようじさんに匹敵する人物。
いるだろうか。
と、思っている自分と同時に候補が浮かんだ自分とがいる。
ようじさんのニセモノだ。
7
駅から少々離れた立地のビル。リ=プリンキピア編集部に来た。
編集長の
北廉干支利君から紹介されて
こちらの正体を先に明かしたら一気に信用して部屋を用意してくれた。
「どうもどうも。まさかこんなに早く対応して下さるなんて」編集長が慣れない手つきで茶を運んできた。「私で役に立てることがあれば何でも」
「さっき行万さんの自宅に行って来たんですけど、しばらく家に戻ってないのは確かですね」
「やっぱり事件か何かに巻き込まれたんでしょうか」
「生きているとは思いますよ」
「私もそう願っていますが、何か手掛かりでも?」
茶の味が薄い。出涸らしで淹れたか、茶葉をケチったか。
「行万さんは、ここでどんな仕事を?」
「うちの看板雑誌のメイン記者ですね」編集長が言う。「彼がいなければ成り立ちませんよ。今回の総会も人一倍心待ちにしていて。なので、私も生きててくれないと困るんですよね」
行万氏が作った雑誌を見せてもらった。
最新刊だけ手に取る。
財団あかいにしん公認。
学術総会準備号。
表紙には若い青年の写真。
「このユリウス博士ってのに会ったことは?」
「行万ですか? 常々会いたいとは言ってましたけどね」編集長が茶を啜る。「それが何か?」
「今回の総会に博士は?」
「初めて出るんだったかと思いますよ。ああ、これです」編集長が分厚い冊子を開く。「ほら、ここです。ああ、でも1日目のトリですね。残念、終わってますわ」
「それだけ会いたいなら会場にいないのはおかしいですね」
会場にいるかもしれない。
入れてもらう方法を考えないと。
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