第2章 メイヴのように淫ら
1
翌日、総会二日目朝8時半。
大学近くの喫茶店で待ち合わせした。客は朝早いのでまばら。それでも常連客が朝の優雅な時間を過ごしていた。
「こ~んな朝早くに呼び出して。さっき新幹線で着いたばっかよ?」初対面のその男は眠そうな大あくびを見せつけた。
夜に高校時代の友人に連絡した。ドイツにいるピアニスト。彼に頼んで、彼の友だちの護衛の人に口を利いてもらうことにした。
護衛の人は昔伝説の名探偵と名を馳せていた。もちろん警察の知り合いも多い。
しかし、護衛の彼が紹介してくれたのは警察の人間ではなかった。
「こう見えて俺だって忙しいんだからさ~。そも俺にとって利点とかあるわけ?」男はアイスコーヒーをストローで一気に飲み干した。
眼つきが悪く、口が深海魚のように大きい。40代手前くらいだろうか。上下黒のスーツ。ヤのつく集団か喪服を思わせた。上着を椅子にかけて、シャツを肘までまくっている。
「報酬のことでしたら心配に及びません」
「そーじゃないよ。探偵の、あぁ、えーと、ちーろくん? 彼がどーしてもってゆうから~。話くらいは聞いてやらないでもないってゆうかねぇ?」
僕は写真を見せた。
「知り合いの雑誌記者です。数日前から職場に顔を出していません。自宅にもいなさそうで。警察にも届け出を出したんですが」
「俺が関わることへの利点てのを先にどうぞ?」
護衛の人から聞いている情報。
この男――岡田さんは、とある事件を追っている。
正しくは事件の手がかりを追っている。その手掛かりになりそうなことなら、報酬はそっちのけで協力してくれるんだとか。
「呪いと聞いて、興味を引きませんか?」
「ん? あるよ。でも呪いなら前にね、それこそでーっかいのとやり合ったことがあるんだよね。それを超えるもんがあるといんだけど?」
「僕の一族にかかった呪いのことを全てお話しします」
「手短にね。俺もう眠くってさ~。眼が覚めるような話なら大歓迎だよん」
インクルーディング・バイオリティ。
略してI・B(イブ)とようじさんは名付けたが。
僕はインバイでいいと思っている。聞こえの悪い名前だけど、名は体を表している。
その女は僕らを文字通り誑かしてくる。肉体を強要してくる。応じるとどうなるかは知らない。応じたことがないし、応じるつもりもない。
「被害に遭った人ってのはいんの?」岡田さんが行万さんの写真をつまみながら言う。
「彼は血縁ではありません。ないと思うんですが、もし僕の知らないところで遠縁か何かに当たったとしてその呪いに関わっていてI・Bの(場所柄インバイと呼ぶのは憚られた)被害に遭ったとしたらどうですか?」
「君の推理?」岡田さんが身を乗り出して、にいと歯を出して笑う。「悪くないけど、イマイチだね」
「駄目でしょうか」
「推理の部分を突いてるんじゃないよ。呪いの効果がわかってないってのがどうにも気をそそらないワケ。死ぬの? もっと超常現象的な感じのほうが俺が探してんのと近いかな~って」岡田さんがそこまで言って、僕の隣に置きものみたいに座っていた
「あの、先生」
「昨日置いてったことは謝ったよね」
「それは割とどうでも」前姫さんが素っ気なく言う。「えっと、昨日博士が見せたあの女性のことなんですけど、あれ、私のお姉ちゃんにそっくりで。私ビックリしちゃって。憶えてらっしゃらないと思いますが、あのとき私の実家に来て下さったとき、先生、お姉ちゃんに会ってるんです」
「悪いけど記憶にないな」
いただろうか。そもそも前姫さんの実家に騙し打ちで連れていかれたことを、いまのいままで忘れていた。
「実家? え? 君らそうゆう関係なの?」岡田さんが面白おかしく言う。
「違います」
「まさか」前姫さんが激しく首を振った。「ないです」
「なーんだ。ところで名前聞いてなかったよね」岡田さんが言う。
「お受けしてくれるということですか」
「いいよん。関係あるかどうかは調べてみないとわかんないしさ。君らと会ったのも何かの縁だ。報酬は解決できたときに応相談てことで」
「ありがとうございます」
「俺は
僕に続いて、前姫さんが自己紹介した。
前姫さんの姉がインバイにそっくりてのが気になるけど、たまたま似ていただけだろう。世界には3人のそっくりさんがいるというし。
9時10分前。
受付で岡田さん用に腕章をもらう。実際には記者ではないが、他にゲストの目印がなかった。
昨日で知り合いの発表が終わってしまった。今日は内容で探すしかないか。前姫さんチョイスは意味を成さないし、岡田さんは僕たちに付いてきてくれてるだけだし。
ようじさんの引退宣言の意図はわからなくない。
僕だって、父さんの代理でしかないわけだし。父さんさえ戻ってきてくれたらお役御免になるはず。
父さんは
そして、父さんはようじさんを養子に迎えたため、ユリウス博士の父親でもある。
僕とようじさんは本当の兄弟ではない。
僕はようじさんを兄と呼ばなければならない。
父さんは体調不良で入院している。と公式発表しているし、事実、
今日のこれが終わったら面会に行く。面会の頻度を週一から月一にまで減らせた。
本当の本音は会いに行きたくない。父さんと会うと僕の持病の頭痛が出る。必ず頭痛薬を持っていかないと、夜も眠れないほどの痛みが出る。
「だいじょーぶぅ?」岡田さんが僕の眼の前で手をひらひら振っていた。「具合悪いの?」
今日もしとしと雨が降っている。
雨は頭痛を誘発する。
「少し席を外します」
「あいあい」岡田さんが言う。
前姫さんは心配そうにこっちを一瞥したけどすぐに写真撮影の仕事に戻った。
講義室を出て回廊を歩く。トイレで薬を飲もうと思った。
鏡に映った自分からそこそこ疲労感が滲み出ていてげんなりする。
眼鏡を外して顔を洗った。
水が冷たい。
「おはようございまス」ようじさんのニセモノが隣に立っていた。「体調が悪ソうでスね」
「君は僕に何の用があるんだろうね」
「僕を認めてもらいたいだけでス」
「認めてもらうにはそれ相応の功績を見せてくれないとさ」
ようじさんのニセモノが、鏡と僕を見比べる。「似てないでスか?」
「誰に?」
「博士でス」
だからどんな悪夢だって言ってるんだよ。
「何が目的、て昨日言ってたね」
ようじさんに成り代わる?
冗談もほどほどにしてくれ。
「博士は引退サれると伺いまシた。ソれなら僕が代わりまス」
「代わってどうするわけ?」
「代わるんでス。僕が博士になりまス」
だから、それが。
意味がわからないって言ってるんだ。
「僕が、ユリウス博士になりまス」
「君の願望?」
「ソう望まれて生まれてきまシた」
ということは、ニセモノを作った何者かがいるってこと。
父さん?
背中がさっと冷えた。
「僕は
「ようじさんになるんだったら、僕と仲良くなったって駄目だよ。僕を支配下に置かないと」
なにせ僕の兄なんだから。
神のごとく振舞ってもらわないと。
「まだ学習中なんでス」
「そう」
どうでもいい。
果てしなくどうでもいい。
頭痛薬を飲んでさっさと戻ろう。
「ああ、君はインバ――じゃなかった、I・B(イブ)が見えてるの?」
「サめうサんによく似てまスよね」
誰のことだ?
「もう一人会っておきたい人がいるんでスが」
「僕に取り次ぎをさせるつもり?」
「誰に言っていいかわからなかったもので」
早く戻りたい。
このわけのわからないニセモノと話をしていたくない。
「悪いけど、他の人に言ってくれないかな」
「では研究所のキーを貸シていただけまスか? 僕の方で勝手に」
会っておきたい相手が。
一人しか思い浮かばない。
「なんで」
「博士の息子なのでシょう?」
ようじさんに成り代わるなら、その息子に会っておくのは当然だと。そんな口ぶりで。
「会わせないよ」
「残念でス。別の方に頼むことになりソうでス」
それで昨日研究所の前にいたのか。
危ない。あのまま中に入っていたら追跡されていた。
会わせるわけにいかない。
あづま君を守らないと。
講義室に戻ると発表は質疑応答タイムだった。岡田さんはほぼ閉眼していて、前姫さんはデータのチェックをしていた。あとで発表者に一言感想を付け足さないと印象が悪いかもしれない。僕も中座したわけだし。
質疑応答で誤魔化せそうだったので押し切った。羅城大学の元看板教授である父さんの息子で、ユリウス博士の弟である僕が注目したということで世間は容易に納得する。
ああ、頭痛がする。
講義室を出る。
「やっぱり具合悪いんじゃない?」岡田さんが言う。「ちーと休める部屋ってないの?」
僕がいないと、前姫さんは困るだろうし。
「先生なしでも頑張ってみますので」前姫さんが力強く頷いた。「編集長とも相談しながらやってみます」
「どうしよ、俺。付き添ったほういいの?」岡田さんが僕を見ながら言う。
「前姫さん、一人でもやれそう?」
「適当に、て言ったら失礼かもですけど、頑張ってみます」前姫さんが答える。
編集長が言った通りかもしれない。彼女は見込みがありそうだった。
さすがに何の助言もなく放り出すのは躊躇われたので、取材されて好印象を持ちそうな先生に印を付けて渡した。取材でうろうろしても不快にならず、むしろ気分が高揚する傾向のある発表者に。
歩き慣れた構内を進んで、一番高い棟の最上階へ。保健室よりもここのほうがリラックスできる。なにせ僕の研究室がある。正しくは父の研究室だった。
「ひええ、まさかここ、まるっと先生の部屋?」付いてきてもらった岡田さんがエレベータを降りてきょろきょろと見回す。「さっすが~」
しまった。秘書もこの三日は休みを取っているのでお茶を出せない。自販機は下の階だ。
「すみません、この奥に自室があって、ちょっとだけ休んでくるので、そこのソファで待っていてもらえますか」
「いいよ~。てかさっきの会場に置き去りにされるよりよかったよ。こっちなら心おきなく眼を瞑れる」
「そう思って誘いました」
「わかってる~」
10時過ぎ。
昼まで眠らせてもらうことにしよう。シャツがしわになるので部屋着に着替えてベッドに入った。
アラームをかけて眼を瞑る。
寝入り端にインバイが出てきた。
父さんが体調を崩したのが僕のせいだと罵ってきた。
知っている。
いつもこれだ。
わかっている。
わかっていることを敢えて指摘しないでくれ。
「許さない」インバイが僕の頭の上で言う。「絶対に許さないから」
どうでもいい。
ひたすらにどうでもいいんだ。
「あづまはあなたなんかにあげない」
お前の物でもないだろうに。
一種の幻聴に近いのかもしれない。
僕に耳障りの悪いことばかり叩きつけてくるから。
これで褒め称えてくれるような言説が聞かれてる人がいるなら反証になるけど、どうなんだろう。
アラームが鳴る前に眼が覚めた。
11時半。
目覚めはあまり良くなかったけど、頭痛は少し引けていたので良しとする。
洗面所で顔を洗って髪を整える。着替えて岡田さんのところへ。
岡田さんはソファにもたれて眼を瞑っていたけど、僕が近づくとゆっくりと眼を開けた。
「あ~、よく寝た」岡田さんが背伸びをする。「どう? 具合悪いのマシんなった?」
「お陰さまで。ありがとうございます」
前姫さんに電話して、お弁当受け取り口の前で待ち合わせた。前姫さんは不安そうな顔で待っていた。
「先生!」
「ごめん、随分良くなったよ」半分嘘を言った。
雨の已む気配がない。それも影響しているのかもしれない。
運営に無理を言ってお弁当をもう一つもらおうとしたら、前姫さんは自分の分を用意してきたらしい。なので僕の分は岡田さんにあげることができた。昨日食べた場所で昼食を採ることにした。
あづま君にメッセージを送る。誰が来ても入り口開けちゃ駄目だよ。
返事はすぐに帰ってきた。わかった、と。
珍しく、寝ずに起きているらしい。
「呪いのことだけどね」食べ終えてから岡田さんが言う。「見えてる系だっけ? 詳しく聞ける?」
「私、先に戻ってますね」前姫さんが気を遣って席を外してくれた。
食事が途中だったら申し訳なかったなとちょっと思った。
ぽたぽたと雨だれが水たまりを作る。昨日より湿度が高い気がする。
岡田さんは向かいに座っている。
食後の一服を吸いたそうにしていたけど、頭痛がすると伝えて遠慮してもらった。
「いつも見えてるっていうより、注意を向けると見えるって感じですかね」僕はインバイに気を向けないように言う。「裸の女が見えるんです。僕と兄が見えている女は同一人物です。僕ら以外にも、父も見えたそうです」
「ふんふん。その女の写真とか絵とかってあるの?」
「すみません。昨日、兄が突発的に絵を用意していた以外は」
「いいよ。誰なのか照合したいっていうよりかは、どんな顔なのかちょっと気になっただけだから」岡田さんが手持ち無沙汰な指をくるくると回す。「同一人物って言うのは? お互い顔を比べらんないんじゃない?」
「わかるんです。これはもう、感覚と言うしかないのが申し訳ないですが。誰が見えているかは問題じゃなくて、見えてるかどうかだけ。見えてればそれはあの女しかあり得ないんです」
「代々見えてるわけ? 遺伝てことだけど」
「僕が知ってる限りは、僕の兄の父には見えていたそうです」
「君のお兄さんてこと?」
「いえ、兄と僕は本当の兄弟じゃなくて」
「君のとこの家族図書いてくれる?」
僕の母は僕を産んですぐに離婚。兄のようじさんは僕の父の養子になったので、ようじさんと僕は義理の兄弟。
ようじさんには双子の姉がいたらしい。その姉は10歳のときに養子に出された。(昨日のようじさんの公演で初めて知った)
ようじさんには他にも、姉と兄と姉がいた。双子の姉も含めたら5人きょうだい。
手帳の後ろの方のページをちぎって、ジェノグラムを殴り書きした。
「今時きょうだい多いんだね~」岡田さんが言った。
2
ようじには姉と兄がいる。双子の姉を含めて5人きょうだい。
長女はどこで何をしているのか不明。どこぞで誰かと結婚したとかいう噂もある。
長男は
次女は数学教師。塾講師をしている。
双子の姉はようじが10歳のときに養子に出され、ようじはそれ以来会えていない。
ようじの父親は精神科医。犯罪者の治療が専門で、警察への協力もしている。
双子の弟がいて、彼は心理学の権威。先生の名前を知らない業界関係者はいない。
ようじの母親は数学教師。
両親の離婚の理由は、よくある価値観の相違。
ようじはえとりの父親の養子になった。えとりの父親が希望したのをようじが受けた形。
「て、ここまでが表向きの話ね」ようじがそこまで一気に喋る。「いまから本当の家族関係を話すね」
正直言うと、当直明けでほとんど頭が回っていない。それでも運転だけは自動でできているので我ながらさすがと思う。
ようじに言われて、あの施設に向かっている。
重大犯罪を犯した、更生不可能な少年を連れてきて殺し合わせる施設。
その施設を目指して、高速道路をひたすら飛ばしている。直線を飛ばすのは好きだが、ようじが助手席に乗っているのが気を逸らす原因でしかない。
「ちょい待て。いまそれ聞いても頭入んねぇわ」
「聞いたら嫌でも眼が覚めると思うよ」ようじが意地悪っぽく言う。「手元狂いそうになったらサービスエリアに止めていいよ」
言って止まる奴じゃないから諦めた。聞いてから考えよう。
「まず、俺の母親は
「そうなのか?」
じゃあ、誰が。
「としきはさ、
「いや、たぶんないな」
「
「どっちも名前だけだったと思うが」
「似てんのか?」
「そっくりだよ。見分けがつく人はたぶんいない。俺も何度も騙されたくらい」
「騙されたってことは」
双子がよくやるやつ。
「そう、入れ替わりをよくやってたんだ」ようじが言う。「朔世先生は眼鏡をかけてなくて、祥嗣先生は眼鏡をかけてる。それだけの違い。たったそれだけで人は騙される。二人も最初は楽しんでやってたんだと思う。でもね、入れ替わりを続けるうちにどっちがどっちかわからなくなっちゃったんだ。それが悲劇の始まり」
追い越し車線を走り続ける。
雨雲が広がってくる。いまにも降り出しそうなどす黒い雲が。
「で? どうなったんだ?」
「自分たちでどっちがどっちかわからなくなっちゃったから、悪気とか罪悪感とかの向こう側へ行っちゃったわけ。仕事とか役割上でやるのは問題ないんだけど、いや、あるんだけど、もっと問題があったのは、身体が男の祥嗣翏紫が存在しちゃったこと」
ん?
「どっちも男だろ?」
「知ってるのはごく一部。としき、言う相手いないだろうけど、これだけは言う相手考えてね」
「言うなってことだろ。わかってるよ」
ようじが一瞬遠くを見るような眼つきになって、俺のほうを横目で見遣った。
「祥嗣翏紫の生物学上の性別は女だよ」
ようじが何を言っているのか意味がわからなかった。
追い越し車線から車線変更する。
ちょうどサービスエリアがあったのだ。広い駐車場の隅のほうに止める。
「悪い。飲みもん買ってくる」
「俺も行くよ」ようじも車を降りた。
10時。
小腹が減ったのでラーメンを食べた。味は悪くなかった。
ぽつぽつ降ってきた雨粒が食堂のガラス窓に線を描く。ようじはおにぎりを半分だけ胃に入れて残りを俺に寄越した。
売店でビニール傘を二本買った。自販機で炭酸と、ようじの分のオレンジジュースを買った。
「ちょっと歩かない? せっかくこれ」ようじが傘を揺らす。「買ったし」
「急いでるんじゃねえのか?」
「今日中に着けばいいよ」
雨は順調に降ってきている。地面がぬかるみつつあったので、飛び石の上を歩いた。
遊歩道。
子ども用のアスレチックもあった。
「続き、していい?」ようじが周囲を確認してから言う。
雨脚が強まってきている中で、散歩する物好きはいなさそうだった。
霧が立ち込めていて視界が狭い。
「祥嗣翏紫と朔世翳冬は愛し合っててね、俺が知ってるだけでも6人の子どもを産んでる。相手が違うけど祥嗣翏紫は更に3人も」
「車戻ったほうがよかないか?」
6人+3人?
さっき聞いたのは5人。
「残りの4人は」
「ビックリするだろうけど結論から言うよ」ようじの表情はビニール傘越しにぼやける。「最初の子どもは10代で産んでる。それが北廉先生」
えとりの父親。
「そのあとしばらく空いて、もうちょっと分別付くような年代になってから、
ようじの言う艮蔵先生は、俺の親父のことだ。
俺の親父は、お袋と大学時代にデキ婚で俺を産んで。子育てには一切かかわらなかったくせに、職場の患者に浮気して子どもを作った。それが、あづま。
だから、あづまは俺と胎違いの兄弟。
一方、お袋は、俺を放って別で男を作って、種違いの弟・
親父のことも、お袋のことも全然なんとも思っていない。
俺が生まれたのが間違いだったってこと以外は。
「としき、自分ことは置いといていいよ」ようじが俺の自動思考を見透かす。「話戻すけど、祥嗣翏紫が北廉先生との間に作ったのがえとり君。朔世翳冬のフリした祥嗣翏紫が俺の姉さんに産ませた女の子もいる。そしてもう一人。俺のニセモノ、後輪寥爾を産み続けてる。北廉先生の妄執だよ」
運転していなくて本当に良かった。
事故るどころか、ようじを巻き込んでいた。
雨が強く降ってる。
もっと降ってくれたらいい。
ようじが話さなければ雨の音しか聞こえない。
ざあざあと。
傘が雨粒をはじく。
見えない。
雨のカーテンで何も見えなくなる。
しばらく何も言わずに立っていた。
ようじも何も言わなかった。
何も言う気が失せていた。
何を言っても間違いな気がした。
時計盤がかすんで見えない。
いま何時なのか。
何分経ったのか。
「ショック?」ようじがぬかるんだ地面を靴の裏で撫でながら呟く。
「当たり前だろ。なんも言う気にならねえよ」
どこかに座りたかった。
でも足が動かない。
「えとりは?」
「知るわけないよ。誰も教えてあげてないから」ようじが言う。「でもそろそろ教えてあげてもいいかなって思ってるけど、どう?」
「やめろ。あいつまた飛び降りる」
「飛び降りは一種の自傷行為だから。あれやることで生きてることを実感してるだけだよ」
「ほんとに死ぬつってんだよ」ちょっと声を荒げてしまった。
誰もいないし、雨音がうるさいから誰にも聞かれていないだろう。
地面で跳ねた雨粒がズボンの裾を濡らして色が変わっている。
「悪い。怒鳴った」
「いいよ。気持ちはわかる」
雨のお陰で間が持っている。
「知りたいのは、俺のコピーのこと?」ようじが言う。「俺が知らないところで、北廉先生と財団がやってたことだから。それをね、止めに行く。チャンスはいまだけ。なんで俺が初日に公演終わらせたと思う? そのあとフリーになるからだよ。それにね、いまだったら関係者が全員総会に集まってる。まさかその間に忍び込もうとしてるなんて誰も思わない」
ようじがやることに無駄なんてない。ぜんぶ意味がある。
「止まるのか?」
「止めるよ。いまいるコピーで最後にする」ようじが頷く。傘が揺れた。
「殺すってことか?」
「そうだね。そうゆう場面になるかもしれないね」
全然動じない。落ち着いている。
違う。
今日この日のために何度も何度もシミュレートしたんだろう。
脳の中での予行演習は完璧に済んでいる。
誰を殺すのか。
誰を殺せばこれが止まるのか。
「えとりを置いてきたのはそういうことなのか?」
ようじは何も言わない。
わかっていることは、敢えて言う必要はない。
車に戻って目的地に向かった。
雨がフロントガラスを攻撃する音がうるさい。
集中が散っているわけじゃない。何に集中すべきかわかっていないだけで。
「俺は」
何をすればいいのか。
「としきは邪魔しないでくれればそれでいいよ」
「何もするなってことか」
車を飛ばすこと4時間強。
15時過ぎ。
例の施設に着いた。この広い広い駐車場に相変わらず車は止まっていない。
雨はまだ降り続いている。
霧にかすむトンネル状の通路の向こうが入り口。
以前来たときはこのトンネルを通過することで生体認証のデータを収集されたが、そのときのデータは残っているのだろうか。
「俺と一緒ならどこでも顔パスだよ」ようじが言う。
つまり、俺が前回来たときには入れなかった空間に入るということ。
傘を傘立てに預けて、自動ドアをくぐる。
その先に迎えた姿を見て足が止まる。
「よく来たね、ユリウス」北廉先生が立っていた。
もう何年も表舞台に姿を現していない。
闇色の髪と眼。同じ色の上下スーツ。蒼白い肌との明度差が激しい。
えとりが成長したらこうなるのだろうなという未来図。
唯一の違いは眼鏡の有無くらいで。
3
病室のベッドに寝転がっていたのは父さんじゃなかった。
父さんよりも僕に似ていた。
「やあ、ここにいれば君に会えると思ってた」その人がけだるそうに言った。
午後の発表が終わって、正門前で前姫さんと別れた。
このあと用事があると言ったら、岡田さんは適当にホテルを探すと言っていなくなってくれた。
16時。
月に一回の父さんとの面会日。
正直に言うとあんまり行きたくない。行くと頭痛が出るから。
特別個室は病棟の最上階の奥。
エレベータを降りて、白い廊下を進む。
ドアをノックする。
いつも返事はない。
息を吸って吐いて。
頭痛の予兆が近づいてきているのを感じる。
ドアを開けてベッドに近づく。
黒い髪が見えた。
「父さん」僕は自動で口に出す。
でも、ベッドに寝転がっていたのは父さんじゃなかった。
誰なのか。
僕は、
あなたに会ったことがあるだろうか。
「やあ、ここにいれば君に会えると思ってた」その人は上体を起こしながら言った。「自己紹介要る?」
「あづま君の母親ですね?」
「間違ってないけど、母親ってのはあんまり大っぴらに言わないでね。僕のジェンダーは男なんだから」
雨の音がする。
少しだけ窓が空いている。
部屋内が暗い。
「電気つけないでね」その人が言う。「顔なんか見なくたってよくわかってる。毎朝鏡で見てるんだから」
窓だけ閉めた。
雨の音が遠ざかる。
「座りなよ」その人が言う。
「何の用ですか?」
窓際にベッド。クローゼットとテーブルと椅子。トイレとシャワー付き。家族用のベッドが隣の部屋にある。安いビジネスホテルよりは温かみのある家具で揃えられたそこそこ広い部屋。ご飯を食べて排泄して入浴して眠るだけなら何の問題もない人道的な部屋。
空気というか空間自体に父さんの匂いが染みついている。
ずきずきとこめかみの痛みを感じる。
「話があって来たんだ」その人が言う。ベッドから足を下ろして座る。「君が知りたがってること、ぜんぶ教えてあげるよ」
「結構です。僕は」
「何も知りたくないって? それはそうだ。知らないほうがいいことをこれから全部君に教えるんだから」
「何しに来たんですか?」
「だから、君の母親が誰なのかってことを教えに」
「いいです。帰ってください」
4
「先生、休んでたほうがいいよ」ようじが言う。
「ユリウスの考えていることがわかったからね。待っていたんだ」北廉先生が言う。
「止める気?」
「私を止めたくらいで止まらないさ。あとは財団に任せている」
施設内の煌々と明るい照明の下では異物感が増した。
ようじが駈け出す。
北廉先生の脇を抜けて止まっているエスカレータを駆け下りる。
俺も追いかけた。
北廉先生は動かない。
ここは3階。
2階。
1階。
エレベータのボタンをようじが殴る。
「片付けたあとと言っても納得しないだろうから、見てくるといい」という北廉先生の館内放送ののち、エレベータのドアが開いた。
矢印は下方向のみ。
B1とB2。
「ようじ?」
眼が合わないので声をかけたが何の返答もない。
一秒でも早くエレベータが到着することを願っている横顔だった。
到着音。
ようじがドアをこじ開けながら下りて、暗い廊下を全速力で駆ける。
突き当たりの観音開きのドアの隙間からねじこんだ、ようじの背中を見届けた。
付いて行ってもいいものか。
「としき、来て」ようじの声がした。俺の思考を読んだ。
重いドアはようじが支えていた。
部屋の中も廊下と同じくらいの暗さでよく見えないが、目立ったものは何もないことはわかった。
特に何もない部屋。
ようじの悔しそうな様子からして、何もなくされた部屋なんだろう。
「目当てのもんはここにあったんだな?」
4人部屋の病室よりは広い。地下なので窓もない。
閉塞的な部屋。
ここにいたのは誰か。
「先生」ようじが後ろを振り返る。
北廉先生が距離を保ちながらついてきていた。
「どこにやったの?」ようじが言う。
「言ったらそこに行くんだろう?」北廉先生が答える。「まだ終わらせるわけにいかないよ」
「先生だけの都合でしょ?」
「財団もそう望んでいる。ただ、ユリウスが戻って来てくれれば、或いは」
「それだけはヤダ」
何もない部屋の中に唯一あったもの。
電話機。
床置きで、内線番号票が下敷きになっている。
ふと、気になって拾った。
「意味ないよ」ようじは北廉先生に言った。
吃驚した。
俺の行動の先を読んだいつものあれかと思った。
「引退をすると聞いたよ」北廉先生が言う。「それなら尚更必要になって来る。ユリウスのためでもあるんだ」
5
あづま君の母親は、
部屋が薄暗くてよく見えないけど、僕と同じ顔をしているのだろう。
僕と父さんはよく似ている。
つまり、眼の前の人は父さんにも似ている。
父さんよりは小柄だし、骨格が女性だった。
薄手のシャツを着て、スラックスから蒼白い足首が見えている。
黒縁の眼鏡が僕と同じ。
埜凍という名前に僕は心当たりがある。
「あなたが父さんの好きな人ですか?」
空気が引き攣ったように感じた。
「父さんに会いに行ってあげてください」
「全部呪いのせいって言っても何の救いにもならないね」埜凍さんは乾いた声で言った。
いまの反応でわかった。
この人は知ってる。
僕と父さんの関係を。
「先生はね、ああ、君の父親のことだけど、空っぽなんだ。空っぽなところに、なんというか、インストールしたのが僕の
「回りくどいのは僕の何に配慮してくれているんでしょうか」
誰も来ないと思うけど、念のため。後ろ手に鍵を閉めた。
話をする必要があるかもしれない。
知りたいわけじゃない。
どうでもいい。真実も事実も。
「不要です。結論から言ってください」
埜凍さんの前に立った。
眼が慣れてきた。
雨の音が包む。
「あなたがもっと早く父さんのところに来てくれていたらこんなことにはならなかった。違いますか?」
「僕のせいにして君が楽になるんなら」埜凍さんが脚を組み直す。「実際そうか。事実、そうなってるね。謝罪の言葉がほしいわけじゃないだろうから言わないけど、問題ないよね」
「前置きはいいです。呪いだろうがなんだろうがどうだっていい。あなたが僕の母親じゃないなら」
この状況で考えうる最悪はこれだろう。
僕は、あづま君と実の兄弟ってことになってしまう。
「残念だけどそうはならないんだ」埜凍さんが首を振る。「君のリクエスト通り結論から言うよ。君が父親だと思ってる
なにを。
言っているのか。
眩暈がした。
「だから座ったほうがいいって言ったのに」埜凍さんは、背もたれのある椅子を僕の後ろに付けて無理矢理座らせる。
くらくらして逆らう気力もなかった。
頭痛がする。
「君のその頭痛は一種の防衛機制だろうね」埜凍さんが冷蔵庫からペットボトルの水を持ってくる。「薬持ってるでしょ? 飲んだほうがいいよ」
何もかも思い通りで癪だが言う通りにした。
飲まないと耐えられそうにない。
水は冷たくて美味しかった。
「ちょっとは落ち着いた?」埜凍さんが言う。僕の顔を覗き込みながら。
距離は真正面。
「君が言ったんだからね? 結論から言えって」
「その根も葉もない話の根拠を聞きます」
「なんでそんなに噛みつくのさ」埜凍さんが溜息を吐く。「戸籍取り寄せれば一発じゃん。見たことないの?」
「そういうことを言ってるんじゃないんです。なんで父さんが」
女の身体で。
男の心を持っているのか。
「なんでって、それは君がどうこう言うことじゃないんじゃない?」埜凍さんが言う。「そんなことより君が知りたくなったのは、君の本当の父親のほうじゃないの?」
「僕の父さんは父さんです」
「ふうん。君もあづまみたいなことを言うね」埜凍さんが息を吐く。「君はあまりに衝撃的すぎて思考が止まってるだろうからヒントを言うけど、君がずっと父親だと思ってた人の身体が女だとすると困ったことが起こって来ない? 結論から言うと、財団がやってることとつながるんだけど」
吐きそうだった。
トイレに駆け込む。
さっき飲んだばかりの頭痛薬が逆流した。錠剤が溶けかけている。
吐いても胃液しか出ない。固形物を口にしていない。
「大丈夫?」埜凍さんが僕の背中をさすろうとしたので。
首を振って振り払った。
触らないでほしい。
よけいに気持ちが悪い。
「そんなに邪険にしないでったら」埜凍さんがタオルを渡してくれた。「あづまとどうにかなりたいんなら僕は君の義理の父親になるんだから」
「結婚制度に興味はありません。それに、あなたは母親じゃないんですか?」
「僕の性自認は男なんだよ。認めてくれなくてもいいけど否定はしないでほしいな」
最悪のさらに下があったなんて。
嫌だ。
本当に嫌だ。
「財団が作ってるようじさんのニセモノは、僕の血を引いてる可能性があるってことですか?」
「なんで敢えて口に出すのさ」埜凍さんが言う。無表情で。「知りたくないって拒否ってたじゃん」
「知らせたのは誰ですか。あなたは僕をどうしたいんですか?」
余計なことしかしない。
知りたくなかったのに。知らないままでいることだってできたのに。
「性格が悪い以外の説明ができますか?」
「ようじが先生を殺そうとしてるから」埜凍さんがベッドに腰掛けながら言う。「生きてるうちに知らせておいてあげようと思っただけだよ」
口をすすいでタオルで拭う。
ふらつく足を壁伝いで支えながら椅子まで戻った。
「先生が君を僕に見立てて身体を求めてたのは、さっきも言ってたけど呪いの一部でね。先生はとっくにI・Bにやられてる。僕と君の区別が付いていない上に、空っぽなところに僕の従兄の欲望を取り込んだ。結果産まれた副産物を財団が有効利用してるってわけ。呪いに侵食され尽くした先生を救うにはもうそれしかない、てようじは思ったんだろうね」
「あなたは知ってるんですね? 殺さなくてもいい方法を」
雨の音が強まった気がした。
土砂降り。
窓ガラスを雨粒が殴りつけている。
「君さ、結論だけの会話してて楽しい?」埜凍さんが言う。
「会話が楽しいと思ったことは一度もないです」
「その先が見えてるから?」
「その先どころか終着点が見えます」
「なるほど。それで結論から話せって言うのか」埜凍さんが言う。「君、あんまり友だちいないでしょ」
「そうゆう余分な横道が一番嫌いです」
信じるには余りに突飛すぎるけど、埜凍さんがもたらした事実とやらをまとめると。
僕の父さんの肉体は女で。
産まれた子どもを使って財団がようじさんのニセモノを仕立てあげようとしている。
「信じてないでしょ?」埜凍さんが言う。
「ようじさんは一度父さんを殺しかけたことがあります」
6
「また先生を殺さなきゃいけなくなる」ようじが言った。
「ユリウスがそうしたいなら止めないよ」北廉先生が言う。
何年前になるのか。
ようじの研究所で北廉先生が血まみれで発見されたことがあった。
ようじが刃物で北廉先生を刺したらしいが、北廉先生が自分でやったことにしたため、おおごとにはならなかったし、この事実を知る者もごく少数。
北廉先生とようじが本当の兄弟だとするなら、なぜ北廉先生はようじを養子に迎えたのだろう。
確かに年齢は親子くらい離れているが。
「祥嗣先生をどこに隠したの?」ようじが言う。
祥嗣先生は、北廉先生とようじの母親だ。
ということは、ここに母親がいたのだろうか。
もう何もない。
内線にしかつながらない電話機以外。
電話機?
もう一度番号票を見る。
「どこにも隠していないよ。先生は」
「北廉先生!」ようじが声を張り上げた。「正直に言って」
あのときと逆だ。
あのときは1階から地下のこの部屋にかけた。
この部屋だった。
あのとき電話に応じてくれた人が、祥嗣先生だったのか。
祥嗣先生は親父と面識がある。
あのとき呼んでいた艮蔵は、親父のことだったのか。
もう一度この電話機で話せないだろうか。
「としき?」ようじが気づいた。
「艮蔵君?」北廉先生は気づいていない。
番号票によるなら、緊急時に押す番号ってのがある。
受話器を上げて、その3ケタを押した。
ぷるるる。
ぷるるる。
「なに?」
出た。
ようじに視線を送る。
ようじが受話器の外側に耳を付けた。
「先日はどうもありがとうございました」まずはお礼を言う。
「誰?」
「
「祥嗣先生、俺、ようじだけど、いまどこ?」ようじが受話器を奪って怒鳴る。「俺に殺されるのが嫌で隠れてるのわかってるんだから」
北廉先生の表情を見ていた。
スピーカーにしていないので相手方の音声は聞こえていないはずだが。
なにも。
表していなかった。
その表情は。
まっさらというか。
そもそも何もないというか。
「先生!」ようじが更に大声で言う。「いまからそっちに行くから。どこにいるの?」
電話が切れた。
ようじはもう一度緊急時の3ケタを押すが、今度はつながらない。
電話自体が通じなくなったような無慈悲な音がする。
「会場に戻ってくれないか」北廉先生が言う。「皆がユリウスを待っている」
ようじは何も言わない。
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