第三章 愛を乞う
二十五 温もり
透けた
これは、夢の続きだろうか。豪奢な寝台から眺める景色が、流麗を夢見心地の気分へと誘う。今も、自分が目覚めているかどうかすら判然としない雲の上でも
床一面に黒い大理石が敷かれ、調度品は全て濃いうるみ色の漆。縁取りは眩い金色の装飾で統一され秩序正しい。他の置き物も用途は分からないが、どれも高価と推測出来る。
特に、壁にかけられた円形の壁画は、金龍を中心とした、黒、白、赤、青の五色の龍が空を優美に舞う姿は壮観である。
流麗の瞳は目まぐるしく部屋を見つめて、覚めない夢を堪能していた。そうしてひとしきり見回した後は、「はあ」と熱を帯びたような吐息が漏れる。
まるで夢。まるで別世界。流麗は
そう、流麗は皇帝陛下の寝台の上で、背中から抱きしめられて身動き一つできないでいた。起こすのも気が引けるので、下手に動くことも出来ない。
頸に寝息がかかる。腹に回された腕が、時折流麗の存在を確かめるかのように強くなる。そこに誰がいるかなど、流麗は知っているからこそ夢見心地から抜け出せないのだ。
しかし、徐々にその夢も覚める時が来ていた。ふと、昨晩の記憶を思い起こして、何もなかったと己の身体を確認する。
――衣服は着てる
――一緒に寝ただけ
――大丈夫、大丈夫。襲ってない……はず
と、酒に呑まれた訳でもないのに錯誤する記憶。流石に皇帝陛下を襲ったなど、いくらなんでもそれはまずい。殆ど動けない状況で、流麗は背後にいる人物を起こさぬように恐る恐る
静かに眠る剋帝陛下その人。昨晩の消え入りそうな顔は消え、随分と安らかな顔がそこにある。
昨晩は、何も無かった。孤独に生きる男が、ほんの少し寂しさを紛らわせたかっただけ。
流麗は、本来ならば軽々しく頭を上げる事すら罪になる尊顔をまじまじと見つめた。二十二歳という若さらしい精悍な男の顔は、眠っていると少々幼くもある。
流麗は
ほんの少し、流麗の指がその頬へと伸びる。
何をするにしても迷いなく、それこそ皇帝の御前ですら気丈に振る舞っていたというのに、流麗の手は後一寸も無いところで、止まった。
安易に玉体に触れるなどあってはならない。自戒でも埋め込まれた思考が、流麗の手を引き戻して、また顔を見つめるだけに戻った。既に同じ褥の上でこそあるが、流麗から触れるのとでは意味が違うのだと。
尊顔を見つめて、ただ悩ましげに嘆息する。
そうして間も無く、目の前の人物の瞼がうっすらと開いた事で些細な考えも掻き消える。流麗を捉えていた腕は、思い出したかのように更に力が入り流麗を逃すまいと身体同士を密着させて、そのまま事でも始まりそうなまでに互いの息遣いが肌に伝った。
「朝まで付き合わせてしまったな、すまなかった」
と、今起きたとは思えぬ程にはっきりとした口調に流麗は、「いえ」と短く返す。すまないと言う割に腕の力は抜かない。それからしばらく経っても、流麗の首筋の辺りに顔を埋めて動かなかった。
そんな、平穏な時間が終わりを告げたのは、寝所の扉の外から荒だった声が聞こえるまでの事だった。
「剋帝陛下! 麒麟宮に変事有り! 至急、お越し頂きたく!」
女兵士の緊迫して震えた声が、最悪の事態を報せに来た。
◆◇◆◇◆
舜の目の前には、女兵士ニ名と、見覚えのある麒麟宮の侍女長が震えて膝をつき首を垂れていた。
悪夢に怯えるかのような姿に、異常は容易に知れる。
女兵士はともかくとして、侍女長は幾度も舜と顔を合わせた事があった。肩を震わせる様に、皇后に仕える女を思わせない。
「何があった」
舜の私室にまで押しかける事態を前にして、舜は冷静だった。
「と……突然の事で……」
頭を下げたまま歯を鳴らして言葉を口にする姿に、舜は首を傾げる。
「今朝、周皇后のお部屋をお伺いした所……部屋が真っ暗に……なっていて……侍女と女官の数名が部屋に飲み込まれて……」
目で見た懐疑的な何か……混乱した様な口調と恐怖が入り混じったそれに、舜は
そこに存在しないのではないのかと疑ってしまう程に、気配を殺し、呼吸の一つもない。その人物が、数日前に放った不穏が舜の脳裏に過ぎる。
『もう一人。禍根が残った方が』
流麗は、舜を助くべくここ数日動いていたが、周皇后の身体に関しては何一つ口にしなかった。
流麗の行動を疑ってこそいなかったが、舜では把握しきれない疑義を前にして焦りが出そうになる。
兎も角、動かねば。侍女長と女兵士達に直ちに麒麟宮へと向かうと告げて一度部屋から三人を出すと、すぐ様に流麗が寝台の中から姿を現した。
「……何が起こっている」
舜の表情は濁る。舜はもう永く禍に犯されていた。だから、流麗が周皇后に治療を施さなかったのは、猶予があるからだと思っていた。けれども、それも間違いだったのだと、事態の重さが告げている。
「皇后陛下に関しましては、私が気がついた時点で手遅れでした」
「……手遅れとは、」
「既に禍と命は直結していた……治療は死を意味します」
絶望を押し付けられたように、舜の顔色が悪くなる。
「禍を宿し続けると、魂魄は変質します。人が、禍を呼ぶ存在に成り果てる――それを、我々は悪鬼と呼びます。皇后陛下には、浄化の儀の時にはその兆候が見えました」
「ならば何故何も言わなかった……」
強張った声が流麗にも届いた事だろう。舜の拳が今にも怒りを露わにしそうではあったが、流麗は冷静に答えた。
「これは、一種の賭けです。陛下の澱みは消えました。今の陛下であれば――いえ、陛下だけが周皇后をお救いすることができる」
確信めいた声に、舜は流麗へと目を向けた。
迷いのない瞳は、変わらず舜を真っ直ぐに見つめていた。
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