二十六 愛しき我が子よ 壱
ゴーン――と太い鐘の音が五回鳴り終えると、辺りは静けさで包まれた。
既に日は昇るも、灰色雲が空を覆って光を遮り、小寒い冷気が差し迫った秋の終わりを告げているよう。直に冬だ。
寒気を纏いながらも、舜は流麗と共に後宮へと向かっていた。足取りは重い。一番の理由は、己と流麗の腰にあるものだろうか。
黒い鞘と柄に銀の装飾を施した、その剣。
剣を二つ貸して欲しいと流麗は願い出て、舜が渡したものだ。
どちらも耀光宮で管理された姫家に伝わる直刀両刃の宝剣。永く使用されていなかった割には、研ぎ澄まされた
剣を何に使うのか。舜はそれが問えなかった。鋒の鋭さが故に、最悪の可能性も示唆しているようで、久方ぶりにの腰に下げた重みに触れながらも
一番家族らしい姿があった二年にも満たない間の妻と子、二人の姿が――。
鬱々とした過去の記憶に取り込まれそうで、舜は足を止めた。振り返れば半歩程背後を歩く流麗も、ピタリと足を止め、白い面の向こうから舜を見つめていた。
「……流麗、今回の事態が全て収拾した暁には、もう一度、
舜の眼差しは、悲壮に近いものがあった。これから起こるであろう事象と何かしら関わりがあるのか、思い詰めたものすら感じる。
流麗は、目の色一つ変える事なく「勿論です」と頷いた。
◆◇◆◇◆
空が更に重くなった麒麟宮の入り口は、黒い門で閉ざされている。門が立ちはだかる壁のようで、しんと静まりかえった向こう側は暗雲めいて薄気味悪さを醸し出していた。
辺りは女兵達が囲み不安げな面持ちで立ち尽くす。舜は騒ぎを大きくしない様にとだけ告げて、流麗と共に麒麟宮へと続く門の向こうへと足を踏み入れた。
「陛下、」
一歩足を踏み入れたと同時だった。流麗の声色は既に警戒を指し示し、その目は宮の奥底を捉えている。
「この宮を隔離した方が良いかと」
そう告げるなり、流麗は入ってきた門前に立ち尽くしている女兵達に指示を始める。女兵士達は流麗の指示にたじろぐも、舜が一つ頷けばあっさりと動き始め、頑丈な木扉がどっしりとした音を立てて出入り口を塞ぐ。
「では、
流麗が左手で指を二本立てると、流麗の腹の辺りから五羽の鴉が飛び立つ。一羽は塀のその向こうへと飛んで行き、黒く大ぶりな羽根が羽ばたく姿を見届けた。残った四羽は塀の
鴉が鳴くと同時に辺りにピンと糸が張ったような奇妙な緊張が迸った。
「念の為、
そういう事も念頭に置いておけと、遠回しに言われたようで、緊張が高まる。舜は些か腹にくるものがあり流麗を真直に見つめるも、本人は「如何なる時も最悪は考えておくものです」、とあっけらかんに返すだけだった。
「それで、どこだ?」
「こちらです」
流麗は皇后の宮に乗り込む勢いで前に出る。先導する姿に、皇后の宮という概念は消えて澱みない姿に迷いはなかった。
暗い。夜と見紛うほどに陰鬱とした空気と気配。黒く塗り潰されたような壁や床、天井。欄干や柱まで、全てが黒い。
浄化の儀によって取り払われたはずの穢れが染み付いたかのように黒ずんだ世界が広がる。
その中ですれ違う女官達の顔は皆青ざめて、力無く座り込む。身を縮めて、同胞が飲み込まれた事に怯えているのだろう。流麗と舜を目にしても神に祈るばかりで、現実が見えない
不穏な空気漂う宮。いや、それ以上に禍々しい。宮の奥へと進めば進む程に、邪気は濃くなり視界は不明瞭になった。
ずん――と空気が一等重いと感じた瞬間。ここが、目的の場所であると、流麗が説明する迄もなく舜にも判然とできていた。
扉の先から、どろどろとした気配が流れ出す。かと思えば、棘のある蔦でも絡みついてくるかのようで、その蔦の棘の一つ一つが己が身に突き刺さる。
「陛下、どうか己を保って下さい。決して呑み込まれぬように」
それも、最悪の一つなのだろう。舜も出来る限りは自身を守らねばならない。
問題ない。そう返せば、流麗はふわりと目を細めて笑う。不安にさせないためなのか、それとも別の意味があるのか。けれども、舜が考える間もなく、次の瞬間には、厳しい顔つきで扉へと手をかけていた。
ほんの一寸の隙間が開いた瞬間から、女の歌声が漏れ出した。更に扉を大きく開いたら、その声は明瞭になる。暗闇に向かって耳を澄ませたなら、舜は歌声に眉を潜ませた。
『可愛い、可愛い、愛し子よ
ちょうちょの夢見て、お眠りや
ちょうちょの夢から覚めたその時は
母の腕に戻っておいで』
慈愛に満ちた歌声は、腕の中で赤子を抱く母を思わせる。しかし、視界を全て絡めとる暗闇では彷徨う幽鬼のささめきと何ら変わりない。
そう大きな部屋ではない筈。舜は、幾度も訪れた事があるはずの部屋が、別世界のようでならなかった。
視界には広がるばかりの常闇には調度品の一つも見当たらない。確かにあった筈の思い出すら飲み込んでしまいそうな景色が奥底まで続いて、果ては一体どこなのか。しかし、絶望すら感じそうな暗闇を前にしても舜は動じなかった。
「……俺ならば、助ける事が出来ると言ったな。何をする」
怯えている場合ではない。最善の手があるならば、やるだけだ。己を奮起して、拳をぎりりと握りしめる。
「邪気とは、すなわち陰の気。私もまた、陰の気質。同じ系腑に属するもの同士では、どちらか勝る方しか生き残れない。けれども、陰と対極になる陽ならば話は変わる。その力で、陰の気を相殺できるのです。けれども、悪鬼に勝る程でなければ意味は無い」
暗闇の先を見つめがならも、流麗は気にすら見せずに淡々と語る。
「陛下はとても強い陽の気を持っておられる。身体に巡る陽の気質を己が手で掴みなさい。それが、私に言える事です」
酷く曖昧で、教える事すらできない事を頼らねばならない。本来であれば、何年と修練を積んで自在に操るのだろう。
舜が気なるものを感じたのは、一度だけ。流麗が、舜の体内から禍を抜いたその時だけだ。じんわりと身体の中で何かが巡る。そう、真剣を振い武官と交えた時のような、血の昂りに近いものがあった。
――あれを、自分で? どうやる? できたとして……
舜は悶々として頭を抱え込みたくもなったが、そんな時間はなかった。
既に、流麗の目線は常闇の奥底を眺めている。深淵の向こうにある何かを。
「行きましょう」
流麗に迷いはない。禍々しきが蠢く暗闇へと向かって進んだ。舜もまた、その後に続いた。
◇
今いる場所が常夜であると言われても舜は納得が出来た。
沼地でも歩いているかのように覚束無い足下に現実味はなく、本当に床を踏み締めているかどうかも怪しい。歩いているようで、実は足踏みをしているだけなのでは。そんな錯覚すら芽生えそうだった。
そう間広い部屋でもないはずなのに、一向に端に辿り着かないというのもあったのかも知れない。
深淵でも目指しているような感覚に囚われながらも、舜の思考がのみ込まれなかったのは、流麗の姿だけは
流麗の姿が
何度と耳にした事のある、情愛の籠った子守唄。
――この歌で、尚はよく眠った
舜も皇帝と皇后という堅苦しい肩書を忘れて、「
それからどれだけ歩いた頃か、流麗が足を止めた。
深淵の先は底知れない。禍々しい闇の中でも、流麗の瞳は一点を捉えていた。ゆっくりと、流麗の腕が持ち上がり、暗闇の先を真っ直ぐに指さす。
舜の視線は、自然と指し示すその一点へと集中する。目を凝らし、歌声に耳を澄ませれば、見えていなかった姿が闇の底から姿を顕す。
それと同時か。ピタリと歌声が止まった。
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