二十四 取り残された心
「矢張り、陛下はお見えになりませんでしたね」
そんな言葉を、とある女がぽつりと溢した。別段、期待がこもっているわけでも無く、至極あっさりと。
朱雀宮では
まるで恋人同士の逢瀬。寝台に腰掛けた
一方は朱雀宮の主人である蒼貴嬪が、もう一人 ――侍女の
それが
「本当に大丈夫でしょうか」
不安気な声が頭上から降り注いで、蒼貴嬪はぴたりと止まる。口惜し気に身体を離して宝蘭の顔を覗き込めば、蝋燭の揺れる灯りに照らされた宝蘭の顔は、取り止めのない不安に苛まれている様子だった。
「何が心配?」
「
「成るように成るわ。それにあの道士を妃として迎え入れる事は無いそうよ。ねえ、何が起こるか……楽しみだと思わない?」
まるで他人事のようで、これから起こる余興に胸弾ませたように声は明快。熱を帯びた頬は、情事に耽る直前だからなのか、それとも別の事柄に興奮しているからなのか。蒼貴嬪の口振も、混乱を求めているように聞こえなくもない。
これから変事が起こる前兆――いや、既に変事は起こり流れが読めなくなっている。そこへ、更なる嵐が起こる。そんな嫌な予感に宝蘭はおずおずと目線を下げて顔は不安の色に染まっていた。
「水嬉様は、どう成ると考えておられるのですか?」
「さあ、どうなるかしら」
沈んだ宝蘭の声を聴いても尚、蒼貴嬪は軽薄に答える。宝蘭の頬を両手で包み込むと、互いの唇を重ねた。口を塞ぐように、何度も。
◆◇◆◇◆
薄闇の中で淀んだ空気にでも包まれているようだった。
霞がかったようにぼんやりとして、宮の輪郭が朧げだ。月光の眩しさ故なのか。範宮人と、お付きの侍女は首を傾げながらも、麒麟宮の門を潜った。
月光があるとはいえ、宮は薄暗い。門前では篝火が焚かれているし、所々に吊るされた行燈は仄かな橙色に染めて辺りを照らしている。範宮人の背後にいる侍女も、提灯を手にして視界は明瞭の筈。
なのに、何故こんなにも薄暗いと感じるのだろうか。
ほんの少し暗いと感じただけ。それだけで漠然とした不安がふつふつと湧き上がる。子供が暗闇に怯えるような心細さを感じて、思わず自分を抱きしめるようにして肌を摩った。
以前お会いしたのは、いつだったかしら。寒さを滲ませる空気が肌を刺す中、なんの事は無い記憶を思い起こしながら、宮の入り口にて佇んでいた。
空気がどんよりと重苦しい。灯の届かない奥底が妙に暗く感じて、更には誰もいないかのような静寂で耳が痛い。範宮人は意味も無く、目だけをキョロキョロと動かして、ただならぬ雰囲気に警戒しているようだった。
陰湿な空気に飲まれそうになりそうな頃、漸く中年の年頃の侍女長が姿を現した。
これで、このよく分からない不安から解放されると思うと、範宮人は安堵の息を吐いて胸を撫で下ろす。しかし、侍女長の顔色は疲れを滲ませたように仄暗い。宵も深まる
折角紛れると思っていた不安が助長しそうではあるが、皇后陛下直下の人材だから下手に口には出せない。腹の中で悪態を吐きながら、薄気味悪さがが増してしまった宮の奥へと向かう侍女長の背後へと続くしかなかった。
「こちらへ」
覇気のない侍女長の声に誘われて、範宮人は侍女を引き連れて宮の奥へと進んだ。パタパタと歩く音ばかりが反響して、それが三人以上の足音にも聞こえる。
いつまでたっても晴れない心がより曇っていくように胸が押し潰されそうなまでに不安が募り、範宮人の身体は強張った。せめて気休めに静寂を断ち切ろうと、「周皇后陛下のお加減は如何でしょうか」などといった世間話の程度に口を開く。
大した返事は期待していなかった。何せ、長く不調が続いている事は知っている。それこそ、陛下の不調よりも容体が悪いとか。
だが、返答もなく侍女長は範宮人の言葉にピタリと足を止める。範宮人は辺りを見回すが、どう考えても皇后の居室に辿り着いたとは思えない中途半端な場所だ。
侍女長の行動を不審に思いながらも、同じく足を止めて怪訝に様子を伺い、どうしたのかとでも声をかけようと思った矢先。ゆっくりと振り返る侍女長は、一瞬暗く淀んだ眼差しで範宮人と目を合わせる。が、それも束の間。目を細めた侍女長の表情は朗らかなものへと変わっていた。
「……
にっこりと目を細めて微笑んで、ようやっと望んだ和やかな雰囲気が醸し出された。筈であったのに、何故だか不安が消えない。
「このような時間にお呼び立てした事は、陛下も心苦しく感じておいでです。しかし、夜の方がお身体の調子も良いのだと」
言葉が終わると同時に侍女長は微笑みを崩すと、疲れを滲ませた真顔へと戻っていた。そうして、何事も無かったかのように、さあこちらですと、覇気のない淡白な物言いに促される。しかし、範宮人は呼吸が止まったかのように足が動かなかった。
「
範宮人の背後で控えていた侍女の声に、思わず肩が竦む。恐々と振り返るが、侍女もまた怯えた表情でいる。しかし目線は、暗闇の向こうへと消えそうになる侍女長の姿へとやって、早く追いかけなければと目で範宮人を促していた。
範宮人は再び前を向く。範宮人の足が止まったままな事に気がついたのか、それとも目的の場所なのか。足を止めた侍女長のじっとりとした目がこちらを向いていた。暗がりをぼうっと蝋燭が照らして、映し出される侍女長の疲れた顔が夜闇に浮かぶ。ぎょろりとした瞳がこちらをじとりと見やるものだから、範宮人は前に出そうとした足を出し渋り及び腰になった。
あそこへ向かうのか。恐怖が滲み始めた思考が余計に動きを制限して、今にも逃げ出しそうになる。しかし、ここまで来て――皇后の宮へと招待されて、逃げ帰るなど出来はしない。
そう、もう逃げ場はないのだ。
剋帝陛下から寵愛を受ける事は無理だろう。しかし、後宮へと目を向けされる事は可能な筈だ。それができるのは、おそらく周皇后陛下のみ。
剋帝陛下には後継が必要。それを、皇后陛下から仕向ける事ができたなら。
範宮人は一抹の希望を胸に、一歩、踏み出した。
◇
灯りが無い。
正確には、唯一の灯りは範宮人の背後。何故だか、侍女長はその手に蝋燭を持っているのだが、入り口付近で佇んでいる。
だから、範宮人の視界は闇一色だった。少しづつ闇に慣れ始めた目が、ぼんやりとだが人を形作るが、誰かもわからぬ影でしかない。その影が、僅かに動いてようやく生きているのだと実感できた。しかし、実感したと言っても、卓を挟んだ向かい側に誰かが座っている程度の感覚だ。はっきりと、向かい側に座る人物が皇后陛下だと確信はもてないでいた。
だがそれも束の間、
「ご不便をおかけして、ごめんなさい。ここ数日、どうしても灯りが眩しくて」
影から、明朗な声が届いた。
ああ、確かに皇后陛下のそれだ。範宮人の記憶の中と重なった声は間違えようのないものだった。ただ、違和感だけが付き纏う。
――こんなにも、明るく話す方だっただろうか
過去に皇后陛下に謁見した事はあった。最初は入宮してまも無い頃。挨拶にと麒麟宮へと足を運んで、贈り物を頂いたのだ。その時に、会話という会話は無かった。口調も細々とした弱々しいもので、一目で心を病んでいるのだと理解した。同時に、皇后位を賜るには不十分でありながら、その座に在り続けるのは父親の右丞相という権威と、皇帝陛下の加護があるからのだとも。
その後も、回復した兆しはなく、先日の儀式でも皇后陛下は一言も言葉を口にしていない。そんな状態から、一体どうやって回復したのか、甚だ疑問が残る。それとも先日の儀式に効果があったのか。と、妖しい同士や巫覡達の姿が思い浮かべて訝しむ。
影からは心情どころか、表情すら読み取れない。ただ、うっすらとした人の形が首を僅かに傾けて貴婦人の如き仕草で口許へと手を当てている……ようにも見える。
「どうかされまして?」
「あ、いえ」
皇后陛下に漠然とした違和感がありますなどとは、口が裂けても言えないだろう。範宮人は無用な考えを振り払うように今一度瞼を閉じて、小さく呼吸を整える。暗闇などに怯えている場合では無い。不確かな事象に心を乱されている場合では無い。皇后陛下と直接話せる機会を無駄に過ごすわけにはいかないのだと自分に言い聞かせた範宮人の口が、決意したように押し開かれた。
「皇后陛下、剋帝陛下と件の道士との一件は耳にしておりますか」
短答直入だと範宮人自身でも理解していた。それでも、もう遠回しなどというまどろこしい事をしている余裕は無い。範宮人は捲し立てるように、言葉を続けるしかなかった。
「陛下が、先日の道士の一人を耀光宮へと招き入れたという噂を耳にしました。それも、一度ならず二度、三度と。陛下が皇后陛下を蔑ろにするなどあってはならない筈です。ましてや、妃嬪ですらない女などと閨になどっ」
範宮人は冷静とは言えなかった。焦りと恐怖が入り混じった感情が、己が内の欲望すらもドロドロと溶け出さん勢い。回り始めた舌が止まるはずもなく。
「後宮は皇帝陛下の世継ぎを産み育てる場所。我々に立場が脅かされようとしているのです。陛下、これは由々しき事態です。蒼貴嬪はもう手遅れなどと宣まわりました、が周皇后陛下のお言葉があれば、剋帝陛下の御心も今一度戻り、後宮の重要性にお気付きになられるやも――」
「それで、陛下が都合良くそなたの元へと訪れて、女を求めてくださると?」
熱く昂った感情のままに紡ぎ続けていた言葉は、秋の終わりに吹く夜の風よりも冷たく吐き出された言葉によって遮られた。
視界は依然、不明瞭。真っ黒な女人の姿だけがそこにある。微塵も動かずに身姿を正したまま。
しかし、そんな悠然とした姿に伴わなず、声色だけが呪いでも込めて恨み節を孕んでいるかのように、低くなっていた。
「あなたが陛下の子を産むと?」
「そ……そのような大それた事は……」
「考えているでしょう? 仕方がないわ。あなたとて後宮の一員。側室の一人ですもの。妻として夫に抱かれ、家族として共に子を育みたいと思うのは当然の事」
範宮人は言い当てられた言葉に、恐ろしくも頷いた。こちらの姿が見えているのだろうか、などと言った疑問が浮かぶ余裕もない。恐怖で喉が震えて声が出ず、頭を縦に振るのが精一杯だったのだ。
もう何が何だか判らずに、範宮人は目を泳がせて目的も忘れて帰る事ばかりを考えていた。そこへ、「あら、素直だこと」、なんて。それまでの周皇后の発言が、幻聴だったのではないのかと思える程に朗らかな貴婦人の声音が降り注いだと、同時――――
ダンッ――と、卓が揺れるほどに何かが叩きつけられる音に、範宮人の肩が跳ねた。
怖い。恐怖一色で心が塗り潰されそうにもなるも、最後の最後に矜持なるものが残って、なんとか踏みとどまる。泳がせていた周皇后へと恐る恐る目を向ければ、黒い女人の影が大きく動いた。ずるりと這うように、周皇后が卓を乗り上げてこちらへと差し迫っているのだと気がついた頃には、墨で真っ黒に塗り潰された顔が視界いっぱいに広がっていた。
鼻先にかかる生暖かい呼吸。墨色の顔は弧を描くように口端を釣り上げて、にたりと笑うが、ぎょろりとした生気の無い目は範宮人へと狙いを定めたように凝視する。
目の前にいるのは、周皇后なのかどうかすらも判らない。恐怖で涙し、全身を震わせて後退ろうとする。だが、それを真っ黒な手が阻んだ。範宮人の顔を両の手で鷲掴み、病床にあったとは思えぬほどに強い力で押さえつけられ動けない。
「でもね、だめよ。あの方は、尚の父親だもの」
範宮人の頬に爪が食い込む。
「誰にも渡さないわ」
もう、範宮人の口からは、「あ……う……」と、意味を成さない音がこぼれ落ちるばかりだった。
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